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その日、歴史が動いた 中国

中国清王朝を衰退させたのはだーれだ? キッカケは七代皇帝・嘉慶帝

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直接の原因ではなくても、何かしらつながりがあるもののことを「遠因」といいますよね。だいたいの場合は、遠因が重なって原因になるような気がします。
本日はお隣の国のそんなお話です。

乾隆二十五年(西暦1760年=日本では江戸時代・宝暦十年)10月6日は、中国・清王朝の七代皇帝・嘉慶(かけい)帝が誕生した日です。
初っ端から注釈が多くてすみませんテヘペロ。でも文字コードにひっかからずに表示できるだけまだマシということで。

清仁宗嘉慶皇帝朝服像/Wikipediaより引用

 

「老害を撒き散らした」と書かれるほどの耄碌っぷり

清王朝といえば中国最後の王朝ということもあり、歴史の中ではあまりいい印象がない人が多いかと思います。
しかし、中国史の恒例行事である王朝交代時のgdgdは比較的短く、王朝としても300年近く続いた点は優れているといえるでしょう。時期や期間も、日本の江戸時代とだいたい同じですしね。

嘉慶帝はその清王朝の中盤ごろの皇帝です。
父親は清の最盛期を築いた乾隆(けんりゅう)帝でした。乾隆帝が85歳のときに帝位を譲り受けていますが、その後も4年間実権を手放さなかったので、日本でいうところの院政みたいな状態になっていたようです。ちなみに乾隆帝は晩年かなり耄碌してしまっていたらしく、ウィキペディア先生には「老害を撒き散らした」(原文ママ)とまで書かれています。こんなん久しぶりに見ました。
「麒麟も老いては駄馬にも劣る」ってホントにあるんですねぇ。ジーチャンおとなしくしてなよ。

さて、嘉慶帝が実権を手にしたのは、39歳のときのことです。年数でいえば家康ほどではないものの、かなりの忍耐を強いられていたことでしょう。
その証左となりそうなのが、乾隆帝のお気に入りだった宦官を誅殺したことです。
寵臣によくある話で、皇帝のお気に入りであることを利用してかなりの税金をガメていたからでした。ボケた乾隆帝がその宦官をかばい続けたため、嘉慶帝が権力を得るまで、誰にもどうにもできなかったのです。

中国史に必ず登場する「宦官」の恐ろしき実態 特に明王朝の腐敗っぷりがヤバイ……

 

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反乱軍に皇帝の紫禁城まで攻められるほど

しかし、乾隆帝の負の遺産はなかなか改善できませんでした。そりゃ、上がダメだと下もズルズルと倣っていってしまいますものね。
この頃、清の人口は急激に増えていて、100年前の倍ほどになっていました。が、食料の生産が追いつかず、貧しい人々は食うや食わずの苦しい生活をすることもめずらしくなかったそうです。

その中でもまだ体力と反骨心の残っていた人たちは賊となり、反乱を起こして状況打破を計画しました。ときには宗教によって少数精鋭とでもいうべき果敢な軍ができ、皇帝の居城である紫禁城(現・北京市)にまで踏み込まれたこともあります。
今でもそのときの矢の跡が残っているそうですが、どの辺にあるのかイマイチよくわかりませんでしたスイマセン。

この辺はある意味、蛤御門の変とも似ていますね。君主個人にあまり非がないあたりも。

嘉慶帝は父親の尻拭いをすべくいろいろ頑張りましたが、清の中期はあまり戦がなかったために軍もすっかり弱体化してしまっており、文字通りハングリー精神で団結した反乱軍に連敗を重ねます。
海でも海賊がはびこり、清の船が襲われ、ますます国政も民衆の暮らしも苦しくなってしまいました。
何か貧乏くじ引かされまくってて、嘉慶帝がかわいそう……(´・ω・`)

結局、この反乱は義勇軍を募ることで治めることはできました。が、清の力が衰えていることを国内外にさらしてしまったことで、多方面に大きな影響を与えてしまいます。

紫禁城……やっぱりデカいすね……/Wikipediaより引用

 

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世界情勢が激しく動いたその時期に……鴨ネギ

一つは、清という国が、中国では比較的少数派である「満州族」の王朝であったことです。

中国といえば「漢字」という言葉がある通り漢民族の国というのが基本ですが、清は漢民族ではなく満州族の国。つまり、「少数派が支配者で、多数派が被支配者」でした。支配者に勢いがあるうちはまだしも、力の衰えが露見したらどうなるか……想像に難くはありませんよね。

もう一つは、この19世紀という時代そのものが関わってきます。

世界史においては18世紀の末からアメリカ独立戦争、フランス革命など大イベントが目白押しで、現代から見れば受験生の頭が痛み始めるころ。となれば世界情勢は常に緊迫しているわけです。
そんなときに国力の弱体化を外国に露呈してしまったのですから、これはもう鴨がネギ背負って来るようなものですよね。むしろ既に自分で羽むしってる。

そんなわけで、ものすごく乱暴にいえば「国内と国外で同時に敵を作ってしまった」ことになるわけです。何という無理ゲー。

清の終末を表す出来事といえばアヘン戦争ですが、その直接の原因となったアヘンも嘉慶帝の時代に大量に入って来ています。
アヘン戦争自体は嘉慶帝の息子・道光(どうこう)帝の時代に起きているのですけれども、そこまで20年持っただけでもマシなほうでしょうか。
この時代に国を立て直せれば清王朝はもう少し存続したのかもしれませんが、何せスタートラインの地盤が緩んでいたのではどうにもなりませんし。

リアルタイムの人間にはこれから世界がどうなっていくかなんてわからないものですけれども、嘉慶帝は歯噛みすることが多かったのでしょうね……。

長月 七紀・記

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参考:嘉慶帝/Wikipediaより引用

 





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