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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた 藤原家

淡路廃帝こと淳仁天皇に何があったのか 藤原氏や孝謙上皇と揉めたその末に……

更新日:

エライ人がエライ所以として、「いざというときに直接悪くなくても責任を取る」という点があります。
現代のお偉いさんの場合はそうでもない気がしますが、どこかで「責任の分だけ給料をもらってるんだから、いざというときは上が頭を下げればいい」という非常にデキた人の話を聞いた覚えがあるようなないような……。

しかし、そういったケースの中にはもちろん「そこまでしなくてもいいんじゃない?(´・ω・`)」というケースもあるわけで。本日はそんなお話です。

天平宝字八年(764年)10月14日は、淳仁天皇が淡路島へ流された日です。「淡路廃帝」という名前で覚えている方もいらっしゃるでしょうか。

現役の天皇が流罪になるというかなりエキセントリックな事件ですが、実は本人には大して責任がなかったりします。
さっそく事の顛末を見ていきましょう。

 

後ろ盾がなく幼いころは相当の苦労がしのばれる

淳仁天皇は、血筋でいえば天武天皇(壬申の乱で勝った人)の孫です。
しかし、父である舎人親王の晩年に生まれた皇子だったため、すぐに死に別れてしまって後押しを得ることができませんでした。
皇族といえど、後ろ盾がなければ貴族のようなそうでないような扱いになることが多い時代ですから、幼い頃は身分からは想像もできないほどの苦労をしたと思われます。

淳仁天皇に光が当たったのは、天平勝宝九年(757年)、24歳のときでした。藤原氏の意向で当時の皇太子が廃位され、淳仁天皇が代わりに皇太子に立てられたのです。
……最初から「天皇」と呼んでいると違和感バリバリですが、こまけえこたあいいんだよ。

当時の藤原氏の当主は仲麻呂という人で、淳仁天皇は仲麻呂の息子の未亡人と結婚したり、仲麻呂の私邸に住んだりと、大いに庇護を受けています。この仲麻呂という人も後々違う名前になるんですが、めんd……ややこしいのでこちらの名前で統一しますね。
上記の通り、幼い頃の淳仁天皇は暮らし向きで苦労したでしょうから、「寄らば大樹の陰」という気分だったのかもしれません。

が、こんな親切をしてくれるのは、よほどの忠臣か野心のある人物と相場が決まっています。仲麻呂は大方の予測通り後者でした。

 

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淳仁天皇vs孝謙上皇vs仲麻呂の三つ巴

淳仁天皇が即位してから、仲麻呂がでしゃばってくることが非常に多くなりました。
また、淳仁天皇に位を譲った孝謙上皇(女帝)が権力を持ち続けていたため、淳仁天皇は、仲麻呂とも上皇とも対立するハメに……。

ここでややこしいのが、「淳仁天皇vs孝謙上皇&仲麻呂」だったわけではなく、「淳仁天皇vs孝謙上皇vs仲麻呂」という三つ巴状態だったことです。つまり、誰か一人が他の二人を何とかしないとどうしようもないわけです。

そこで、仲麻呂がクーデターを企てて兵を挙げました。朝廷も兵をもってこれを鎮圧し、仲麻呂は一族皆殺しという極刑に。
これだけなら奸臣がいなくなって万々歳なのですが、上記の通り淳仁天皇はかつて仲麻呂と大変密接な関係にあったため、孝謙上皇から「アナタもアイツと同じ穴のムジナでしょ? 政治から引っ込んでもらうわね」(※イメージです)と言われて淡路島に流刑となってしまったのです。

しかし、力が弱くてもそこは天皇。しかも、仲麻呂と一緒に乱を起こしたわけではなかったので、淳仁天皇を慕う貴族もいくらかおりました。淡路島なら平城京からも近いですし、実際に淳仁天皇の下まで行った人もいたようです。

 

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淡路島での警備が厳しくなった直後に亡くなっている!?

孝謙上皇からすれば「アイツを放っておくとそのうちまた担ぎ上げられるかもしれない」と警戒したくなるような状況だったことでしょう。
その結果、淡路島の警備が厳しくなり、同じ年の10月に淳仁天皇は亡くなってしまいます。今より寿命が短いとはいえ、この流れで当時まだ32歳の淳仁天皇に何が起きたのか……想像に難くはありませんよね。

兵庫県南あわじ市にある淳仁天皇陵/Wikipediaより引用

 

こういった経緯により、淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれるようになり、長い間「天皇」として認められませんでした。

正式に名誉が回復されたのは、何と明治三年(1870年)のこと。他の流罪や廃位された天皇とともに、明治天皇によって正式に歴代天皇の一人として扱われるようになったのです。
今でも、資料によっては「淳仁天皇(淡路廃帝)」というような書き方をされていることがありますね。

ちなみに、淳仁天皇が廃された後は孝謙上皇が重祚して称徳天皇になっています。
ついでに、流罪の話も少しだけしておきましょう。

 

流罪と追放の違いは?

淳仁天皇の場合は廃位された後も一応「親王」=皇族の一員として扱われていたので、淡路島での生活はさほど悪くなかったと思われます。が、流刑とは元々「本来なら死罪だけど命だけは許してやんよ」(※イメージです)=「死刑から減刑したもの」という扱いだったので、基本的に罪人の生活の保障はありませんでした。

江戸幕府の四代将軍・家綱が少年の頃、「流罪にした者は何を食べているのか」と聞いたとき誰も答えられず、「命を助けたのに、食事の保証さえなければ見殺しにするも同然ではないか」とツッコミを入れ、それを聞いていた家光が大喜びしたという話が有名ですね。
場合によっては配流先に送られる途中でブッコロされたり、あるいは逆に赦免されて地元に戻れることもあったそうなので、まさに天国と地獄という感があります。

パッと見よく似ている、「流罪」と「追放」の違いは「特定の場所に押し込めるかどうか」という点のようです。現代で例えるとすれば、「流罪が禁錮」で「追放が出禁」みたいな感じでしょうか。
大分罪の重さが違いますが、こまけえこたあいいんだよ(二回目)

現代の拘置所や刑務所もいろいろ黒い話がありますけども、(たぶん)飢えることはないだけまだマシなんですかね。
罪を犯さないのが一番ですけれども。

長月 七紀・記

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参考:淳仁天皇/Wikipedia 流罪/Wikipedia 日本における追放刑/Wikipedia

 

 





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