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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた 藤原家

藤原道長が頂点に達して一族は没落へ されど血脈は全国へ散らばった!?

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「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」
言わずもがな平家物語の名文ですが、平氏に限らず、古今東西の権力者はだいたいこんな結末を迎えますよね。
そしてその結末は、それまでの行いに依って、静かに歴史の表舞台から去ることもあれば、凄惨な末路をたどることも……。
それは日本史上屈指の栄華を誇った、あの一族も同じでした。

寛仁二年(1018年)10月16日は、藤原道長の娘・妍子が皇太后に、威子が後一条天皇の中宮になった日です。
これだけだと何のこっちゃという感がありますが、道長が絡むとちょっとわかりやすくなります。

「この世をば 我が世とも思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この歌を詠むキッカケになったのが、この日のこの出来事だったのです。

紫式部日記絵巻の藤原道長/wikipediaより引用

 

次女と四女が揃って入内でガハハのハby道長

「望月の歌」は、要するに藤原氏の最盛期だったわけですね。『小右記』に記録されていて国立公文書館さんがツイートしておりました。

この道長の栄華ですが、その後、長く続いたのかというと、実はそうともいいきれないところがあります。
今回は意外と教科書には載っていない、藤原氏の「その後」を見ていきましょう。

人名と血の繋がりが多くてめんd……こんがらがる一方なのである程度省略しますが、あしからずご了承ください。また、例によってこの時代の女性名は読み方がわからないので、各自お好きな読みを脳内保管してくださいませテヘペロ。

まずは、この日の主役となった二人の女性について簡単に触れて参りましょう。

妍子(けんし・きよこ)は道長の次女で、姉妹の中でもとりわけ美しいといわれていました。若い頃は派手好きだったのか、側仕えの女房たちもかなり着飾っていたようです。
道長は既に長女・彰子(しょうし・あきこ)を入内させていましたから、妍子を入内させる頃にはもう「ワシの娘ならば相応のぜいたくもせんとなガハハ」(※イメージです)とか思ってたかもしれませんね。

威子(いし・たけこ)は道長の四女ですが、正室から生まれているので、実質的には三女といっても差し支えない扱いを受けていました。
しかし彼女が入内した相手は9歳も年下の後一条天皇、しかも一番上の姉・彰子の息子でしたので、当人は肩身の狭い思いをしていたようです。
入内したとき威子は20歳になっていたので、これも気まずい思いをする原因になったでしょうね。当時とすれば「何か差しさわりがあって結婚できないのだろう」と思われても不思議ではない年齢ですから。

 

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道長の血を引く皇子が生まれてこない……

そんな感じの二人が入内し、同じ日に皇太后・皇后となったわけですが、既に日……いや、月は傾きかけていました。
妍子は皇子を産むことなく皇太后になりましたし、威子も皇后にはなったものの、やはり皇子を産むことはできませんでした。
これにより、永久かと思われた藤原氏の栄華は徐々にかげりを見せていきます。

その先駆けともいえる出来事は、道長の末娘・嬉子(きし・よしこ)が道長の存命中に亡くなったことでした。この人は当時の皇太子妃だったので、長生きしていれば皇后にも皇太后にもなったハズですけれども、かないませんでした。
嬉子の忘れ形見となった皇子はやがて後冷泉天皇となりました。が、この方からも皇子が生まれず、皇室における道長の血筋は絶えることになります。

また、嬉子が亡くなった二年後には妍子も両親に先立っており、「栄花物語」では「老いた父母を置いていってしまわれるのか」と道長が悲嘆にくれる様子が描かれています。さしもの道長も、子供に相次いで先立たれるのは堪えたようですね。

 

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九条、一条、二条……やがて地名を名乗っていくように

藤原氏という家自体も、そのまま一枚岩ではいられませんでした。
道長の時代から100年ほど後に平家が台頭し、かつて道長が娘を通して皇室にやったことを、今度は平家にやり返されるような形で勢力を弱めていったのです。

一応藤原氏の側も、何とかかつての地位に戻ろうと頑張ったのですが、さすがに道長ほど面の皮が分厚い人は出てきませんでした。皇室や他の公家にとってはよかったかもしれませんね。

そんなドタバタの間で血筋も分かれていき、やがて住まいのあった場所の名を取って「九条」「二条」「一条」という別の名字を名乗るようになっていきます。
この辺は日本史の要所要所でお馴染みの名前ですね。

特に有名なところだと、大正天皇の皇后・貞明皇后(過去記事:日本の皇室・歴史を支えた皇后たちの功績にご注目 【その日、歴史が動いた】)は九条家の出身です。「九条の黒姫様」と呼ばれるほど闊達だった方が道長の子孫にあたるというのは、ちょっと意外な感じもしますね。

 

全国へ散らばった藤原氏の名残り

また、武家の中にも藤原氏の末裔の家や遠い親戚にあたる家があります。
わかりやすいのは、源義経との関係が深い奥州藤原氏ですね。いつ頃奥州へ行ったのかはっきりしないものの、京の藤原氏から「よくわからないけど、お前んちは親戚だと思ってるから」(※イメージです)という扱いを受けていたことがわかっています。

他には「扇の的」で有名な那須与一の那須家、家康の次男・秀康が養子入りした結城家、伊達家などが藤原氏の末裔を名乗りました。ホントかどうかアヤシイところもありますが。

また、日本人に多い名字ランキングベスト10に入る「斉藤」も、藤原氏に始まるといわれています。
といっても、ほとんどの庶民は明治時代に名字を使うようになっていますから、これまた血が続いているかどうかは断言できないところがあるのですけれどね。

というわけで、「藤原」という姓のままで続いたわけではないのですが、血筋は今も続いているといって過言ではないでしょう。
確実に血が残っている有名どころだと、島津家絡みで度々登場する近衛家や、明治維新以降も京都に住んでいる冷泉家などがあります。

表舞台からは姿を消したものの、確実に子孫が繁栄しているという意味でみれば、道長の世が今も続いていると……。

長月 七紀・記

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参考:藤原妍子/wikipedia 藤原威子/wikipedia 藤原北家/wikipedia

 

 





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