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その日、歴史が動いた 中国

清王朝五代目・雍正帝 倹約家(ケチじゃない)なところは家康さんとソックリ

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十人十色とはいいますが、いろいろ本を読んだり調べたりしていると「あれ、この人どっかで見たな」なんてこともありますよね。
本日は、日本で言うと徳川家康に割と似た、とある外国の君主のお話です。

康熙十七年(1678年=日本では江戸時代・延宝六年)10月30日、清の第五代皇帝・雍正(ようせい)帝が誕生しました。
何か最近清朝の皇帝シリーズが続いてますが、特に意図的なものはありません。日付の都合です(キリッ

雍正帝(愛新覚羅胤禛)/wikipediaより引用

 

母の身分も低い四男なれど皇位を継ぐ気マンマンだった

この人は皇帝になるまでがなかなかのハードモードでした。
普通皇太子といえば、長男から順番に候補になりますよね。ところがどっこい、雍正帝は四男なのです。
しかも上の兄三人が若くして亡くなっているでもなく、母親の身分が一番高かったわけでもありません。当初皇太子になっていた雍正帝の次兄にあたる人が、遊びほうけていた上に父親の康熙(こうき)帝にクーデターを起こして廃太子になったという事件はありましたが……。

なんでこんな展開になってしまったかと申しますと、トーチャンはこの一件により「もう息子だからって信用できない!」と思ってしまい、亡くなるまで新しく皇太子を指名しなかったのです。
一応「康熙帝が亡くなる直前に雍正帝を指名しました」ということになってはいます。ただまあ、その……お約束ですよね。

雍正帝は、父親が亡くなる前から皇位を継ぐ気満々だったらしく、「八旗」と呼ばれる軍隊のお偉いさんに自分の部下を就けたり、他の皇位継承候補者(=自分の弟)のうち数名を監禁したりと、根回しを万全にしていました。
ここまで用意周到な人なら、かえって皇帝には向いていたかもしれません。

彼のデキる仕事ぶりを示す逸話として、こんなものがあります。

 

後継者は手紙に書いておくから! 玉座に隠しておくから!

上記の通り、雍正帝は半ば以上強引に皇位をもぎ取りましたから、「皇太子」という立場に価値を認めませんでした。
しかし人間いつかは死ぬものですし、国の主となればその後のことも考えておかなくてはなりません。
そこで、雍正帝は「後継者の名前はこっそりこの手紙に書いておくから、私が死んだ後に皆の前で開くこと」という方法を考えたのです。

手紙は、紫禁城の玉座の後ろにあるデカイ額の後ろに隠されていたので、ヘタに誰かが書き換えたりいじくったりできず、皇帝の意志が正確に伝わるようになりました。
清王朝が中国歴代王朝の中で暗君が少ないほうなのは、雍正帝がこうした後継者の決め方にしたからだといわれています。最後のほうがゴタゴタだったので、日本ではあまりいいイメージがありませんけども。

まあ、中国で清王朝時代=日本ではだいたい江戸時代ですから、もしこのタイミングで「海の向こうまで戦争しに行ってやるぜヒャッフー!」みたいなバk……愚帝が出てきていたら、江戸260年の平和もなかったかもしれません。
しかもその後欧米列強がやってくることを考えると、gkbrどころの騒ぎではありません。雍正帝ありがとうありがとう、そしてありがとう。

 

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優秀な人材を見つけた時には積極的に褒美を与え

閑話休題。
そのくらい頭が回る人だったので、雍正帝はただの容赦無い人ではありませんでした。
自ら大量の書類に目を通し、原文に合わせて漢語と満州語を使い分けた返事・注釈を書いていたので、毎日4時間寝ているかどうかという生活をしていたとか。ナポレオンみたいですね。

また、猜疑心ゆえに地方へ密偵を送っていましたが、悪事だけでなく優秀な人材を見つけた時には、積極的に褒美を与えていたといいます。上司にほめられると、デキる人がやる気を出してもっといい仕事をするようになりますものね。
トーチャンの康熙帝も中国で一・二を争う名君といわれていますので、この辺は血筋でしょうか。

また、雍正帝の時代はまだ清の懐に余裕があったのですけれども、彼はぜいたくをせず、いわゆる「裏紙」を自ら使うほどのケc……倹約家でもありました。

皇帝が諮問(専門家に意見を求めること)する機関の建物も、まるで掘っ立て小屋のような簡素すぎるものだったといいますから、おそらく衣食住すべての面で約家だったのでしょうね。
具体例を挙げるのは控えますが、ぜひ徳川家康と倹約比べをしてほしいものです。身近な細かい物から大切にしないと、天下を治めることはできないということなのでしょうか。なるほどわからん。

 

最期は暴飲暴食で自ら死期を早めたところが……

もちろん、家康と雍正帝には違う点も多々あります。
わかりやすいところでいくと、家康が70歳になってからも写経などの勉学に励んでいたのに対し、雍正帝は先人の遺産である書物や経典には非常に厳しい態度で臨みました。少しでも清朝を批判する内容を重視していると思われる本は禁書とし、そういった内容を科挙の問題に出した人を、一族郎党投獄もしくは流罪にしたほどです。
毎日4時間しか寝てないくらいなのに、よくそんな細かいことまで目が届くものですね。

とはいえ、さすがに雍正帝にも限界はありました。
ストレス解消のための暴飲暴食で寿命を縮めてしまい、57歳で亡くなっています。即位から13年しか経っておらず、父や息子が60年統治したことと比べると圧倒的に短い治世でした。

職務からくるストレスを暴飲暴食で解消しようとし、そのために命を縮めた点はあ、健康オタクだった家康と比較するとわかりやすいですね。

雍正帝も、たまには芸術品を鑑賞することもあったそうですが、上記の働きぶりだと数年に一回くらいの頻度のような気がしますね。

あまり良い喩えではないかもしれませんが、ナポレオンと家康を足して割ると雍正帝に近くなるでしょうか。

雍正帝の次の代が乾隆帝、さらにその次が嘉慶帝(過去記事:中国清王朝を衰退させたのはだーれだ? キッカケは七代皇帝・嘉慶帝【その日、歴史が動いた】)で、清王朝の陰りと欧米の脅威が見えてくることを考えると、なかなか評価が難しい皇帝です。

資料の書き手によっても評価が割れている気がします。

長月 七紀・記




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参考:雍正帝/wikipedia




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