クロード・モネ

『ラ・ジャポネーズ』とクロード・モネ/wikipediaより引用

画家

ニッポン大好きクロード・モネ 睡蓮を愛したのは平和を求めたから?

1840年(日本では江戸時代・天保十一年)11月14日は、画家のクロード・モネが誕生した日です。

絵画「睡蓮」で有名ですが、実は「光の画家」ともいわれています。

レンブラントやフェルメールも同じ二つ名で呼ばれますが、いったい何人につけられてるんでしょう。

「天空の城」がいくつもある日本なので、よそ様のことはアレコレ言えませんが。

それはともかく、モネの生涯を見ていきましょう。

 

ルノワールとも一緒に学び個性豊かに腕を磨く

モネはパリで生まれ、5歳のときにフランス北部・ノルマンディー地方のル・アーヴルという町に引っ越しました。

水の表現が秀逸なのは、幼い頃からノルマンディーの景色を見ていて、感性が磨かれたのかもしれません。

十代後半から文具店の店先に絵を置いてもらっていたそうなので、絵の専門家でなくても「これは」と思うようなものを描いていたのでしょう。

同時期にフランスの中学校にあたるコレージュを退学し、絵を専門的に学んでいきます。

ル・アーヴルにいたウジェーヌ・ブーダンという画家の目に留まったことで、モネは本格的に画家として歩み始めました。

ブーダンはキャンバスを持って外に絵を描きに行くというスタイルの画家で、モネも同じように「見た風景をその場でキャンバスに描く」ようになっていきます。

19歳でパリに出ましたが、1年ほど兵役についているので、この間は絵を描きたくて仕方がなかったでしょうね。それでなくても戦争なんて嫌なものですし。

22歳のとき、シャルル・グレールという人のアトリエに入ってさらに研鑽を積みます。

芸術のお師匠様というとなかなか厳しそうなイメージがありますが、グレールは「自分の個性を大事にしなさい」という主義だったため、モネの持ち味がぐんとここで成長します。

モネの他にもルノワールなどがここで学んでいたことからして、グレールは人の才能を見つけて育てるのがうまい人だったんでしょうね。

その後は画壇でも認められるようになり、恋人との間に子供も生まれ、何もかも順調に行くかのように見えました。

しかし、ここでモネだけでなくフランスにとって大きな出来事が起こります。

普仏戦争です。

上記の通り、モネはこれ以前に一度徴兵されたことがあるので、戦場がどんなものかということは身にしみてわかっていました。

徴兵を避けるためロンドンへ渡って戦争が終わるのを待ち、さらに数ヶ月オランダに行ってからフランスへ戻っています。

 

妻カミーユの着物姿を描いたラ・ジャポネーズ

帰国してからもパリには長居せず、郊外のアルジャントゥイユという町に住みました。

ここに移ってから、モネの作品数は飛躍的に増えます。

その数、約7年で170点というのですから驚きです。単純に考えて、1年で20枚も描いていたことになりますからね。

ルノワールなど、かつての学友たちと「匿名協会」というサークルを作り、ほぼ毎年展覧会を開くようになったからかもしれません。

この展覧会の第二回目には、妻・カミーユが日本の着物を着ている「ラ・ジャポネーズ」を出品しています。

金髪の女性が赤い着物を着て、手に扇を持ちながら振り返っている有名な絵ですね。

風景画家・モネが描いた数少ない人物画でもあります。

残念なことに、カミーユはこの絵が展示されて3年後に亡くなってしまうのですけれども……いや、だからこそモネは他の人物画をあまり描かなかったのかもしれません。

妻に先立たれた後、モネは一気に家族が増えました。

というのも、彼のパトロンの一人が妻と子供と借金を残してトンズラしてしまったのです。

お世話になった手前&哀れな夫人と子供たちを放っておけなかったのか、モネは全員引き取って生活を支えました。

自分の子供を含めて、いきなり10人もの大所帯の大黒柱になったのです。

現代だったら確実にワイドショーのネタになってますね。

後にこの夫人・アリスとは再婚しているので、世の中何がどう転ぶかわからないというか、運命の出会いというか。

 

「水の庭」と名付けた自宅の池に、多くの睡蓮を浮かべ……

一時期はフランス各地やイタリアを旅行して、最終的にモネはパリから北に80kmほどのところにあるジヴェルニーという町へ腰を落ち着けました。

何故かモネはパリの北西方面が好きだったようで、アルジャントゥイユとジヴェルニーとル・アーヴルは、ほぼ一直線上にあります。

フランスってそこそこ広い国なのに、不思議なものです。

ここには今もモネの家がそのまま残されており、作品と浮世絵のコレクションが展示されています。

モネの一番有名な作品「睡蓮」そのままの風景が庭になっています。

「睡蓮」や「積みわら」は一枚の絵ではなく連作のタイトルで、同じモチーフをさまざまな時間帯に描いたものです。

この連作こそがモネが「光の画家」と呼ばれる所以です。

「睡蓮」が代表作として知られているのは、モネが「水の庭」と名付けた自宅の池を最も多く描いているからで、27年200枚といいますから、同じモチーフを一年に7枚は描いたことになります。

それだけ描き続けられるというのもなんだか恐ろしいですが、モネに限らず、芸術家の多くは狂気一歩手前くらいの気迫を持ってこそ、名作を生み出している気がしますしね。

そんなわけで一口に「睡蓮」と言っても、見た人の好みによって思い浮かぶ絵が異なると思われます。

いくつか票が集まりそうなもののうち、やはり一番有名なのは、太鼓橋と共に睡蓮が描かれているものでしょうか。

睡蓮の池と日本の橋 1899/Wikipediaより引用

この橋、浮世絵好きだったモネがわざわざ作らせたものなのだそうです。

当時のフランスでは中国や日本の美術に人気が集まっていたので、モネもその一人と考えれば不自然なことではありません。

しかし……モネについては、もうちょっとだけ他の理由があるような気もします。

これはまたワタクシの私見なのですけれども、モネは浮世絵にとどまらず、日本という国に憧れを抱いていたのではないか?と思うのです。

 

ヨーロッパにない花を愛した理由を考えてみたい

上記の通り、モネは若かりし頃、兵役についたこと、そして再度の徴兵から逃れるために逃亡に近い長期旅行をしていたことがあります。

当時、日本のことがどこまでヨーロッパに伝わっていたかははっきりしませんが、もしも「日本では武家が戦争をするので、一般人は武器を持つ必要がない」というようなことが知られていたとしたら、モネにとってはとてつもなくうらやましい話に思えたのではないでしょうか。

芸術家であっても徴兵されるフランスに比べて、対外戦争もなくのびのび絵を描いている画家がいるという日本。

モネにとって理想郷に見えたとしてもおかしくはないですよね。

睡蓮という元々ヨーロッパにない花を愛したのも、もしかしたら戦争の多いヨーロッパに嫌気がさしていたからなのかもしれません。

その割には一生ヨーロッパから出ていませんが、移住するには言語なり何なりの壁が多すぎたでしょうし。

もしもっと平和な時代に生まれていたら、モネは全く違う絵を描いていたのかもしれません。

まあ、それはどの芸術家にも言えることではありますが。

長月 七紀・記

【参考】
クロード・モネ/Wikipediaより引用

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