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その日、歴史が動いた

平和すぎてビックリ!したから「太平洋」 マゼラン、死の航海

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世の中には「遠くから見ているだけで充分」なものがたくさんありますよね。たまたま芸能人を見かけた人が、よくそんな感じの感想をつぶやいている気がします。
大自然というのも、おそらくそういうものの一つではないでしょうか。
本日はその一例、大自然が文字通り命取りだった頃のお話です。

1520年(日本では戦国時代・永正十七年)11月28日は、フェルディナンド・マゼランが太平洋に到達した日です。

マゼランは「初めて世界一周を成功させた」人として有名ですが、実は彼自身は生きて帰ることはできませんでした。どんな感じの航海だったのか。この旅の始めから終わりまでを見ていきましょう。

マゼランさん、なかなか偏屈そうな顔してますね/Wikipediaより引用

 

南極圏に近づいたところで船員たちが!

マゼランが航海に出たのは、コロンブスによって西インド諸島(キューバやジャマイカ、プエルトリコなどの諸島)が発見された後のことです。

当時、西インド諸島やアメリカはアジアの東端と考えられていたのですが、「香料諸島」と呼ばれていたインドネシアのモルッカ諸島やインドにたどりつけず、引き続き航路開拓が行われていました。
マゼランも、インドや香辛料の産地への航路を見つけるために航海へ出ています。

1519年9月20日にスペインのセビリアから出発し、カナリア諸島から南下して12月にブラジルへ到着しました。
リオデジャネイロ付近の先住民トゥピナンパ族は友好的な一族だったらしく、マゼランのために家を建てたりしています。マゼランもトゥピナンパ族のためにミサを開いたそうで、この時代にしてはかなり稀なケースですね。それでいて強制的に改宗させていないのが実に不思議なところです。

一行は南アメリカ大陸をさらに南下、現在のアルゼンチン南部へ到着し、ここで冬を越えようとしました。が、地図で見れば分かる通り、南極圏に近いため当然ながら極寒です。
船員の間にどうにもならないことへの鬱憤が溜まり、それは手近なはけ口へとぶつけられました。
マゼランに対して反乱を起こしてしまったのです。

 

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食料が足りず、壊血病や栄養失調でバタバタ……

マゼランは元々ポルトガル出身でした。

当初は母国に仕えていたのですが、ポルトガル王といろいろ揉めてスペインに来ていたのです。船員たちからすれば、近所とはいえよくわからん外国人の命令を聞かなければいけなかったわけで……いい気分はしませんよね。
とはいえ、そこでマゼランは屈するわけにはいきません。彼は反乱に対し、首謀者の追放や処刑などを含め、厳しく対処しました。

不穏さを水面下に残したまま、船団は南下を続けます。
そして後々「マゼラン海峡」と名付けられる南米最南端付近の海峡を越え、1ヶ月ほどしてついに太平洋に入りました。これが1520年11月28日のことです。

一年以上大西洋~南米大陸付近にいたことになりますが、これは単純な移動時間の他に、途中で船がはぐれたり上記のような反乱が起きていたためです。中には勝手に帰ってしまった船もあるくらいですから、マゼランの胃痛がしのばれます。

海峡を越えた後はチリの沿岸を進んだ後、太平洋を横断するような航路をとりました。
海流の流れが複雑だったり、逆に穏やかすぎて海藻がまとわりつく海域すらある大西洋と比べ、太平洋の穏やかさにマゼランは驚き、「平和な海」と評したとか。これが「太平」洋という名の由来だといわれています。
学生時代に地理のテストで「大」平洋と書いてしまった方も結構多いかと思うのですが、このエピソードを知っていれば間違えなさそうですね。

とはいえ、マゼランたちの航海は太平なままとは行きませんでした。
それもそのはず、既知の航路がない=補給拠点がないということですから、食料が足りず、壊血病や栄養失調でバタバタと船員が亡くなっていったのです。

1521年3月にやっとたどり着いたマリアナ諸島では住民からの略奪に遭い、キレたマゼランは武装して住民を殺害・放火しています。お互いに事情を知らないとはいえ、どっちが悪いとも言い切れないですね……。

 

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セブ島で調子に乗ったのが運の尽きだった

マリアナ諸島を出発して1週間後、一行はフィリピンに到達しました。マゼランの奴隷だったマレー人が話しかけてみたところ、運良く言葉が通じたため、穏便に交流を持つことができたようです。

当時フィリピンは統一国家ではなく、各地に王がいて小さな国がたくさんありました。これを見たマゼランは「秩序ある社会が作られている」と判断し、食料と衣類を交換して友好関係を保つことに決めます。
特にセブ島の王と個人的に親しくなり、ハグをしあうほどの仲だったとか。キリスト教の布教にも成功したので、気を良くして他の島にも布教しようとしました。

が、これが命取り。

マクタン島の王の一人・ラプ=ラプとの戦いでマゼランは命を落とすことになります。このとき、船員たちはマゼランを助けようとしなかったともいわれています。
まあ、こういうときに全部うまくいくことってないですよね……。

 

270人いた船員のうち無事に帰れたのはたったの18人

その後はマゼランの親族が船を率いることになり、その人を含めた船団のお偉いさんのほとんどが同時期に殺されました。

gdgdになった船団は、荷物を積みすぎて船が浸水するわ、ポルトガル船に捕まるわ、壊血病その他の病気で大量の死者を出すわで散々な有様に・・・。

一応、船団としてはスペインまで帰り着いていますが、当初270人ほどいた乗員のうち、生きて帰れたのはたった18人だったそうです。生存率6%とは、戦争よりひどいですね。

死者数だけを考えるなら、お互いに殺しあって双方に死者が出るより、戦場へ行くまでに片方だけが損耗を受けて早く決着がつくほうがいいのかもしれませんが。

技術の発展は基本的に良いことですけれども、こういうことを併せて考えると複雑な感じがしますね。

長月 七紀・記

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参考:太平洋/Wikipedia 大西洋/Wikipedia フェルディナンド・マゼラン/Wikipedia

 

 





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