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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代 WWⅡ

シベリア抑留の日本兵が書いた「白樺日誌」 望郷の念は和歌に託された

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「行きはよいよい、帰りはこわい」という童謡がありますよね。
古い歌なので「帰りの何がこわいんだ」「こわい=方言の”疲れる”だよ」などなど、疑問や解釈が分かれているようですが、本当に「帰り道そのものが恐ろしい」ケースというのもあります。

昭和21年(1946年)12月8日に京都府舞鶴へ入港した、ソ連からの引き揚げ船に乗っていた人々は、おそらくそんな気持ちだったのではないでしょうか。

報道数は少ないながら、今年2015年には舞鶴引揚記念館の所蔵品がユネスコの記憶遺産に指定されましたので、ご存じの方もいそうですね。
こういうことこそ、戦後70年の今年取り上げるべきだと思うんですが(´・ω・`)

 

京都の舞鶴は引き揚げ船の主要港だった

引き揚げ船とは、戦中に大陸や南方の島々にいた兵・一般人を帰国させるための船です。ほとんどは貨客船でしたが、一部軍属だった船も使われました。
京都府舞鶴はその中でも最も長く使われた港で、中国やソ連からの船が入港しています。以前取り上げた真岡郵便電信局事件(ソ連の対日参戦で樺太に散った悲劇の乙女たち 真岡郵便電信局事件 【その日、歴史が動いた】)の舞台、真岡からも引き揚げ船が来たことがありました。
引き揚げてくる日本人だけでなく、国内にいた中国人・朝鮮人も3万2000人ほど舞鶴から母国へ帰還しています。

昭和21年12月8日に入港した引き揚げ船は、ナホトカからやってきた2隻でした。それぞれ2555人・2445人が乗っていたそうです。
ナホトカはウラジオストクよりも東、ソ連領では最東端地域にある町。当時はウラジオストクが軍港=一般人立ち入り禁止だったため、近場のナホトカが一般人用の港になっていたのでした。
この縁もあってか、舞鶴市とナホトカ市は日本とロシア(当時はソ連)の間で初めての姉妹都市になったそうで。

昭和20~33年(1945~1958年)までの15年間で、舞鶴には合計60万人以上が帰還し、1万6269人の遺骨が持ち帰られています。資料によって若干誤差があるようですが、これは到着直前・直後に力尽きて亡くなった人がいたからなのでしょうね。
その他、孤児も100人ほどいたとのことなので、60万人のうち日常生活に戻ることができた人数はというと……。

所蔵品の中にあった水筒/舞鶴引揚記念館ホームページより引用

 

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白樺の木の皮を削り、ペンは空き缶の金属、インクは煤で……

引き揚げ前の生活については、舞鶴引揚記念館のホームページで公開されている所蔵品からもうかがうことができます。ほとんどがシベリア抑留に遭った旧日本軍の兵のもののようです。

兵はある程度まとまった人数で移動させられたために、多少は荷物をまとめる時間があったのでしょう。一般人は着の身着のまま、急げや急げという状況で引き揚げてきたでしょうから、何かを持ち帰ることなど思いもよらなかったであろうことは想像に難くありません。

個人的には、「白樺日誌」という白樺の木の皮を削ったものに書かれた日誌が特に印象に残りました。日誌といっても普通の文章ではなく、和歌を書き連ねたものです。ペンは空き缶の金属、インクは煤で代用して書いているのだそうで。そうとは思えないほど綺麗な筆跡に驚きました。
筆記用具にも困るような状況の中、その日の出来事や気持ちを短歌にし、最低限の消費でできるだけ心の中を整理しようとしたのでしょうね……。

また曖昧な記憶で申し訳ないのですが、「欧米人の兵士は捕まった途端、でかい図体のくせに腑抜けのようになって呆れた」というような話をどこかで見た記憶があります。シベリアのような厳しい土地で日誌を書き留めるほどの精神力があった日本人からすると、そう思うのもむべなるかなという感じがしますね。
もちろん個人差が大きいでしょうし、どっちがエライとか悪いとかいう話ではありませんが。

 

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護国神社や城跡などに慰霊碑は設置されている

同記念館には、抑留中の生活を描いた絵も展示されています。
もちろん、辛い生活のことを描いたものがほとんどなのですが、「ウクライナの土は良質で、じゃが芋が大きくてうまい」「1日1緒に働いたロシアの娘さん『またあした』」(両方とも原文ママ)といった、過酷な中でもちょっとしたことに楽しみを見出していたことがわかります。
日本人が災害などの過酷な状況に強いといわれるのは、こうした特徴があるからなのかもしれません。

 

また、シベリアで抑留されている間に亡くなり、日本へ帰れなかった人々は、その場で葬られました。
現在も厚生労働省や民間団体によって、遺骨の収集やDNA鑑定が進められています。とはいえ、戦後すでに数十年経ち、鑑定希望を出す遺族の数も少なくなっているからか、2003年~2010年までで身元がわかったのは800人超とのことです。
そもそも埋葬時の状況が劣悪だったり、お墓が作られても朽ちるに任せるような状態だったりするので、鑑定できるような遺骨があまりないのかもしれません。

シベリア抑留中に亡くなられた方の出身地では慰霊碑が設置されているので、近くを通りかかった時には少し足を止めて、せめて冥福を祈るのが良いでしょうか。
慰霊碑は護国神社や城跡などに多く設置されていますが、高尾山やその他公園など、もう少し身近な場所に置かれていることもあるようです。
かつて同じ場所に住んでいた方々、遠く厳しい土地で亡くなられたかと思うと、何とも言い表せない気持ちになりますね。

こういったことは話題が話題だけに重苦しい気持ちにもなりますが、厳しい状況の中で、一つ心温まる話も見つけました。
それについては、また日を改めてご紹介したいと思います。

長月 七紀・記

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参考:シベリア抑留/wikipedia 舞鶴引揚記念館ホームページ 舞鶴ウォーカー

 





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