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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた 藤原家

藤原忠通とは? 百人一首で有名だが、実は藤原家繁栄の礎となった関白

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人間努力や精進が大切……とはいえ、自分の力ではどうにもならないことも多々ありますよね。「運」もその一つでしょう。
本日は地味ながらに、運を味方につけて平安時代末期を生き抜いた、とある公家のお話です。

承徳元年(1097年)閏1月29日は、藤原忠通(ただみち)が誕生した日です。

今月何回目かの「誰それ」が聞こえてくる気がしますが、別の呼称で目にしている人が多いのではないでしょうか。
「法性寺入道前関白太政大臣」という、百人一首の中でも随一の読みにくさ・長さの名で書かれている人の本名です。

ちなみに読み方は「ほっしょうじのにゅうどう・さきのかんぱく・だいじょうだいじん」です。最後の部分は「だじょうだいじん」でもどちらでも。
彼の人生を見ていくと、このめんどくさい呼称の意味がわかってきます。さっそく追いかけてみましょう。

藤原忠通/Wikipediaより引用

 

藤原道長の子孫という当時最高の血筋

まずは今回出てくる天皇の即位順を確認しておきましょう。

白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇

院政をやるのが当たり前の時期だったので、10年ちょっとで退位して上皇・法皇になっている方が多いのですが、面倒なので全員「天皇」のままで統一します。

忠通は、あの藤原道長の子孫です。当時の寿命その他の理由で、130年程度しか経っていない割に玄孫より後の代という、なかなか表記に困る親等になっています。
しかし、この血筋に生まれただけで当時は勝ち組人生が約束されたようなもの。忠通も、幼い頃から白河天皇の養子になったり、法皇の意向で縁談が持ち上がったりと、常人には考えられないような厚遇を受けています。

そんな忠通25歳のとき、父・忠実が娘の入内を巡るトラブルを起こし、白河法皇の勘気を被って、関白の座を追われるという事件が起きました。
父に代わって当主と関白の座についた忠通は、37年もの間この地位で政治を担うことになります。

また、正室との間に生まれた娘・聖子を崇徳天皇に入内させ、後宮政治にも乗り出しました。しかし、崇徳天皇と聖子は仲の良さに反比例して子供に恵まれず、忠通のアテは外れてしまいます。
崇徳天皇と他の女性との間には子供がいるので、おそらく聖子が子どものできにくい体質だったのでしょう。当時はそんなことはわからないので仕方ありませんが、これが後々忠通の去就を決めることになります。

 

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「おい、お前息子がいないなら頼長を養子にせんか」

さて、白河天皇に追われた父・忠実は、10年ほどして謹慎先の宇治から京へ戻ってきました。忠通にとっては23歳も年下の弟・頼長を連れて、です。
下半身までは慎まなくてよかったんですね。

戻ってきた忠実は、再び勢力を盛り返そうと仕事に勤しみます。父には逆らえない忠通でしたが、それでも関白であるからには、ただ親に従っているわけにもいきません。

ところが、まだ男子に恵まれていなかった忠通は、だんだん立場が弱くなってしまいます。挙句の果てに、忠実は「おい、お前息子がいないなら頼長を養子にせんか」と勧めてくる始末。
当時忠通は28歳ですから、そろそろ人生の終わりも見えてくる年齢です。それもあって、忠通は一度父の言うとおりに弟を養子にしました。

が、それから15年後、つまり忠通43歳のときに実の息子が誕生。当然のことながら、忠通は実の息子に摂関職を継がせるべく動き出しました。

 

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実弟&実父相手に始まった骨肉の政争

まずは実弟・頼長との養子縁組を破棄します。

ここから、忠通vs忠実・頼長の血で血を洗うような政争が始まりました。

競うように娘を入内させたり、忠実が忠通へ「頼長に職を譲らんかい!」と迫ったり、お決まりの展開が続くのです。

「トーチャンよ……かつてアンタがいきなり仕事をやめさせられたとき、尻拭いをしたのは長男だろうよ……(´・ω・`)」

と言いたくなるのですが、残念ながら70代に入っていた忠実は、よほど気が短くなっていたようです。なんと、忠通の屋敷や摂関家の宝物を強奪して、無理やり頼長を当主にしてしまったのでした。

しばらくの間は鳥羽天皇が間に入るような形で抑えていたものの、鳥羽天皇崩御後は目に見えてきなくさい雰囲気が漂い始めます。

保元の乱の始まりです。

 

保元の乱 キッカケは藤原家の内紛だった

この辺から源平の戦いが始まるのでそっちのイメージが強い方も多いと思われますが、元をたどれば藤原家の内紛が原因だったんですね。

まず、後白河天皇によって、崇徳天皇と忠実・頼長に謀反の疑いがかけられ、忠実は命惜しさに次男を見捨てて宇治へ逃亡します。このトーチャン本当にサイテーやな。

一方、頼長も政策が厳しすぎて「悪左府」と呼ばれるほど嫌われていたのですが、この一件によって京を追い出され、現在の京都府の各地を転々としながら、力尽きて亡くなります。しかも、遺体は一度埋葬された後で暴かれるという、不名誉な扱いを受けました。

このとき忠通が後白河天皇方についたのは、上記の通り自分の娘と崇徳天皇の間に子供ができなかったからという説もありますね。授かりものは仕方ないやろ(´・ω・`)という気もしますが。
勝った忠通は再び摂関家の当主になろうとしましたが、朝廷から「前任がいきなり死んじゃったし、しょうがないからその地位にしてあげるね^^」的な扱いを受けています。
もう少しで所領も取り上げられるところでしたが、これは忠通がゴネて何とかなりました。
たぶんこの機に乗じて摂関家そのものを潰そうとしていた人が多かったんでしょうね。敵はどこにいるかわからないものです。

 

職位を行ったり来たりした末に、法性寺で出家したから

こうして政治的にも物理的にも生き残った忠通。

やがて平治の乱につながる政争に敗れ、後白河天皇から「お前クビ」(超訳)といわれて失脚しました。

が、平治の乱でお偉いさんが軒並み討ち取られたり配流された結果、「あれれー、おかしいなー? 政治をやれる人がいないぞ―?」という状態になってしまったため、一時的に返り咲きます。

その後の余生は藤原氏ゆかりの寺・法性寺で出家しました。
職位を行ったり来たりした末に、法性寺で出家したので、百人一首では「法性寺入道前関白太政大臣」という長ったらしい名前になったわけです。

小倉百人一首79番「法性寺入道前関白太政大臣」/Wikipediaより引用

 

さすがにここまでくれば、「その後は穏やかに過ごしました」……と言いたいところですが、なんともう一悶着ありました。
お気に入りの女房(女官的な意味のほう)が別の男と密通していることがわかり、ショックで寝込んで亡くなってしまったのです。
忠通は66歳になっていましたので、当時の感覚でいえばまれに見る長寿だったはずですが……生涯現役だったのかもしれません。
政争で疲れ果ててやっと穏やかに暮らせると思ったところに、信頼していた側仕えに裏切られたことが、よほど老体に堪えたのでしょうか。

その代わり?に、彼の子孫は繁栄を極めます。これ以降、明治維新までの摂関職は、忠通の子孫が独占しているのです。道長の子孫でもありますが、こまけえこたあいいんだよ。

武家同様、公家も家を残すことが第一ですから、その意味では忠通が最高の勝ち組といえるでしょう。最期まで捕まったり処刑されたりもしていませんしね。
こういう人を「悪運が強い」というのでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:藤原忠通/Wikipedia

 





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