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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

美しき檀林皇后(橘嘉智子)の恐るべき終活 「私の遺体は道端に放置せよ、鳥や獣を養うために」

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幼い頃、学校の先生や親に「人に優しくしなさい」と言われたことがある人は多いでしょう。
しかし、時と場合によって「優しさ」の定義が異なりますから困ったもんです。
”Aさんが良かれと思ってやったことが、Bさんにとっては大きなお世話だった”なんて話はよく聞きますよね。
本日はそんな感じの、「優しさの定義」をちょっと考えたくなってしまうようなお話です。

嘉祥三年(850年)5月4日は、檀林皇后(だんりんこうごう)が薨去した日です。

本名は橘嘉智子(たちばな かちこ)といい、嵯峨天皇の皇后でした。また、史上唯一の橘氏出身の皇后でもあります。
橘氏は「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と数えられる姓のひとつですが、他の三つの姓に連なる家があまりにも勢力を持ち続けたため、歴史の表舞台にはあまり出てきません。

しかし、古代には橘諸兄(橘氏に臣籍降下した元皇族)や藤原不比等の正室、今回の檀林皇后のように重要な立場になった人もいました。
天皇と同じく、皇后としての名前も死後に贈られる諡号(しごう)なのですが、例によって立場がわかりやすいほうのお名前で統一させていただきます。

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【TOP画像】橘嘉智子/Wikipediaより引用

 

あっちこっちに子供のいた嵯峨天皇の妻として

檀林皇后は、嵯峨天皇の即位前に嫁ぎました。
嵯峨天皇の即位翌年に立后(皇后になること)したのはまあいいとして、二男五女をもうけるという夫婦仲の睦まじさです。
といっても嵯峨天皇は檀林皇后一筋だったわけではなく、他の妃や婦人も数多く抱えている上に、女官にも多く手を付けてあっちこっちに子供が生まれているので、おそらく嵯峨天皇のほうが子供ができやすい体質だったのでしょうね。
新生児の死亡率が極めて低かったであろう古代においては大きなメリットですが、これがもう少し後の時代だったら、かなり大きな問題になっていたことでしょう。江戸幕府十一代将軍・家斉とタメを張るネタで有名になっていた事は間違いありません。

檀林皇后本人は、当時その美しさで世に知られた人でした。……そんな美人を第一の妻に持って、さらに他の女性に目が向くというのも不思議なものですが、「美人は三日で飽きる」ってことなんですかね。それとも檀林皇后が身ごもっている間に……とかでしょうか。

嵯峨天皇/Wikipediaより引用

 

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仏教に惹かれ、仏教に帰依したからこその遺言?

それでいて檀林皇后は嫉妬に狂うことも、美しさや立場を笠に着るようなこともせず、篤く仏教を信仰していたそうです。「檀林」という諡号も、彼女が檀林寺というお寺を創建したことからきています。

優しい人だからこそ仏教に惹かれたのか、仏教に帰依したからこそ生きとし生けるものに慈悲の心を向ける気になったのか……。その辺は判然としませんが、志が死後にまで向けられていたことは、彼女自身の遺言に表れています。
……と、その前に少々注意事項を添えさせていただきますね。
話の腰を自ら折るようでビミョーな気分ですけれども、以下のお話は今までの当コーナーで一・二を争うグロテスクな話です。
その手の話題が苦手な方、想像力に優れすぎている方はここまでで読むのをおやめいただいたほうがよろしいかと思います。

具体的な表現を避けて表すとすれば、「ある意味、戦場のカラー写真よりキツイ」。もう少し近づけた表現でいくと、「捨身飼虎図」あたりが的確かと。
そろそろどういう方面か見当がついた方も多いと思うので、本当にダメな方はこの先をお読みになるのはやめてくださいね。
後から訴訟とか謝罪・損害賠償の請求をされても対処はいたしかねます(キリッ)。

 

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「私の遺体は鳥や獣を養うために道端に放置しなさい」

さて、そろそろ本題に入りましょう。
檀林皇后の遺言とは、「私の遺体は墓に葬らず、鳥や獣を養うためにそのまま道端に放置しなさい」というものだったといわれています。
つまり、皇后という尊い身分でありながら、自らの身体を野鳥や野犬の餌にしろ、命じたのです。

この遺言がそのまま実行されたのかどうかについては説が分かれるところですが、その様子を表したとされる絵は存在しています。「九相図」というもので、檀林皇后だけでなく、小野小町にも同様の絵が描かれました。
亡くなった直後の状態から、放置されて遺体が徐々に変化していく様子、そして野犬や野鳥に食べられて、やがて跡形もなくなり、名前だけがつたえられるというさまが克明に表されています。

……これ以上の表現は自重しますが、見たい方はググる先生に「檀林皇后 九相図(画像検索の結果はコチラから)」でお尋ねすると出てきますので、各自お調べください。古代の絵特有の「デフォルメとリアリティが混ざった画風」がよりいっそう不気味でグロテスクなので、耐性のある方以外にはオススメできません。

檀林皇后と小野小町の二人に共通するのは、「絶世の美女だった」ということです。小町がどのくらい敬虔な仏教徒だったのかははっきりしませんが……。
九相図は”「どんな美女でもいつか肉体は消えてなくなるもの」ということを表し、「僧侶の煩悩を断ち切る」ために描かれるようになった”ともいわれているので、後世になってからこの二人のような「名だたる美女を描いた」ということにされたのかもしれません。
古代の女性は人前に顔を晒さないのが常識ですし。

 

かつて皇族は「殯(もがり)」という非常に長い葬儀をやっていたが

ただ、その場合、檀林皇后の遺言の真偽も気になるところです。

たとえ真実であったとしても、息子である仁明天皇が遺言の通りに、母の遺体を自然に任せたとは考えにくいような気もします。
この辺は母への敬慕故に遺言に従ったのか、敬慕故に母の遺体を自然に任せるのを忍びないと感じたのか、仁明天皇の心の内によるでしょうけれども。

遺体を自然の分解に任せる「風葬」や「鳥葬」という葬儀のやり方はありますが、これが皇族にまで適用されたかというと微妙なところ。
皇族は「殯(もがり)」という非常に長い時間をかける葬儀をやっていたのですけれども、檀林皇后の時代は「皇族を含めて、葬儀を簡略化しなさい」という法律(過去記事:古墳時代オワタ…大化の改新で発令「お墓はシンプルにね」【その日、歴史が動いた】)が出てだいぶ経った後ですので、これもまた違う気がします。

檀林皇后の陵(みささぎ・皇族のお墓のこと)は京都市右京区にありますので、学術調査をすればどのような葬り方をしたのかわかるでしょうが、宮内庁が「陵の調査はダメ」(超訳)という方針を貫いているため、直接の解明は難しそうです。何か他の手がかりが見つかれば良いのですけれども。

でも、広い範囲の生き物に慈悲を向けるのは尊いにしても、より身近な人の心を慮らないやり方というのはどうなんでしょうね。

長月 七紀・記

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参考:橘嘉智子/Wikipedia 九相図/Wikipedia

 





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