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その日、歴史が動いた アジア・中東

不滅の都市・コンスタンティノープル(現イスタンブール) 破壊と再生を繰り返し2000年以上の栄華は続く

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「古都」という言葉は、それだけでロマンがありますよね。
日本では京都や奈良を指すことが多いですが、もちろん他の国にも千年単位の歴史を持った街は多々あります。
本日はそのひとつ、何度も苦難にみまわれながらも、今日までその姿を残しているあの街のお話です。

330年5月11日は、コンスタンティノープルが東ローマ帝国の首都になった日です。現在イスタンブールと呼ばれているところですね。

本日は世界史上屈指の長きに渡って栄えてきた、この町の歴史を最初から見ていきましょう。

【TOP画像】東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル/wikipediaより引用

 

最初に人が住み始めたのは紀元前7000年!?

この地に人が住むようになったのは、紀元前7000年ごろのことだといわれています。
本格的な街ができたのは、紀元前660年ごろ。ボスポラス海峡のアジア側にカドゥキョイ(カルケドン)という町ができました。

ほぼ同時期にギリシアにあった国のひとつ・メガラからの植民者が、海峡のヨーロッパ側にビュザンティオン(ビザンチウム)という町を作り始めています。
海峡を挟んで反対の位置、しかも同じ頃、後に同じ街となるものが作られ始めた……というのは面白い偶然ですね。

アケメネス朝ペルシア(中東~中央アジアにあった大帝国)やアテナイに占領されたこともありましたが、紀元前4世紀に一度自治を回復し、ビュザンティオンは発展を続けていきます。
その後、マケドニア王ピリッポス2世(アレクサンドロス大王のトーチャン)に攻められるも、ペルシア・アテナイの協力を得て撃退しました。

 

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「ノウァ・ローマ(新ローマ)」では結局浸透せず

その後ローマ帝国の版図となりましたが、2世紀にローマ皇帝セプティミウス・セウェルスとの政争の結果、破壊されています。その後再建され、さらに330年にローマ皇帝・コンスタンティヌス1世がこの地に遷都したことで、この地は本格的に繁栄していくことになりました。

コンスタンティヌス1世はビュザンティオンをローマ帝国の首都にふさわしい都市にすべく、大規模な建設を始めます。
創建者の名をとって「コンスタンティノープル」と呼ばれるようになったのはこれ以降のことです。コンスタンティヌス自身は「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と呼んでほしかったらしいのですが、浸透しませんでした。カワイソス(´・ω・`)

むしろ、後世には旧称であるはずの「ビュザンティオン」からとって、東ローマ帝国を「ビザンツ帝国」と呼ぶようになっていきます。
コンスタン帝国とかでもいい気がしますが、それはそれで言いづらいですね。

この時点でアヤソフィアなどの大規模な建築物が作られ、何万もの観客が入れる競馬場など、娯楽施設も築かれたといいます。
しかし、1202~1204年の第4回十字軍により、コンスタンティノープルは宗派が違うとはいえ同じキリスト教なのに略奪に遭い、住民の多くが殺害や性的暴力によって傷つけられました。
西ヨーロッパで広く信じられていたカトリックから見ると、東ローマ帝国のギリシア正教は「同じ宗教の違う宗派」ではなく、「異教」だったからだともいわれていますが……それで済ますのもなにか違いますよね。

このため、コンスタンティノープルを含めた周辺に一時「ラテン帝国」という別の国ができました。
しかし、脱出に成功した皇帝の一族によって東ローマ帝国が盛り返したので、ラテン帝国は短期間に終わり、もうしばらくコンスタンティノープルはローマの末裔として存続することになります。

コンスタンティノープルに侵入する十字軍/wikipediaより引用

 

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中世から近代までオスマン帝国の首都となった

それから200年ほど経った14世紀、今度は勢力を広げつつあったオスマン帝国に攻略され、東ローマ帝国は終焉を迎えました。
以後、20世紀初頭までコンスタンティノープルはオスマン帝国の首都となります。

現在も使われている「イスタンブール」という名前は、オスマン帝国の頃から使われていたようです。といっても当初は固有名詞ではなく、「都心」という意味で使われていた一般名詞だったのだとか。
周辺にイスタンブールに匹敵する都市がなかったからでしょうね。

オスマン帝国皇帝である代々のスルタンは、東ローマ帝国の作った水道施設など、既にあるものの補修を行いながら、自分達の王宮や屋根付きのバザール、モスクや学校・病院・共同浴場といった新しいものも作っていきました。
ムスリムの富裕層を強制的に移住させたり、ヨーロッパ各国から商人などを招き入れたこともあり、東ローマ帝国時代に一度減ってしまった人口が回復し、どんどん大きな都市として進化していきます。
18世紀には57万もの人が暮らしていたといいます。これは現代の日本の法律で政令指定都市になれるほどの人口ですから、当時としてはかなり大きな歳だったことがうかがえます。

ソフィア大聖堂/wikipediaより引用

 

破壊と再生を繰り返しながら、2000年以上も存続

19世紀になるとオスマン帝国自体はどんどん弱体化していきますが、ヨーロッパと鉄道で繋がったことで、イスタンブールの繁栄は続きました。アガサ・クリスティーの小説で有名なオリエント急行も、イスタンブールに乗り入れています。

オスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国ができてからは旧時代の影響を避けるため、首都ではなく一都市となりました。
とはいえ、歴代の帝国が遺した数々の文化や建築物により、今もトルコ随一の都市として賑わっています。
また、20世紀中頃からは道路が整備されたり、郊外に工場ができたりして人口が増え、さらに発展することとなりました。
破壊と再生を繰り返しながら、2000年以上も存続しているわけです。

これではまだ100年くらいしか経っていないトルコの首都・アンカラの影が薄くなってしまうのも無理のない話ですね。

まあ、歴史はこれからも作られていくものですし、優劣を競うものでもないですが。

長月 七紀・記

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参考:コンスタンティノープル/wikipedia イスタンブル/wikipedia ビュザンティオン/wikipedia

 





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