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その日、歴史が動いた 剣豪・武術・忍者

剣豪であり文化人でもある宮本武蔵の生涯 ナゾ多き出自は『五輪書』の成立から読み解ける?

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歴史は日々作られるものですが、日々遠ざかるものになることもあります。講談や創作などによって、事実が大きく脚色されてしまうことは珍しくありません。
本日はその一人である、あの剣豪の生涯を斜めから見ていきたいと思います。

正保三年(1633年)5月19日は、剣豪として名高い宮本武蔵が亡くなった日です。

本名は「玄信(はるのぶ)」だそうですが、おそらくその名で書いても誰のことだかわからない人のほうが多いので、通例に従って「武蔵」で統一しますね。

有名な逸話が多い人ですので、本日はちょっと視点を変えて、彼の生涯を追ってみましょう。どんな点かというと、武蔵の生い立ちについてです。

武蔵のことは本人の著書「五輪書」を元に創作されている点が多いのですが、生い立ちについてはサッパリ手がかりがありません。
しかし、武蔵が長じた後の行動から、逆行して生い立ちを探ることはできそうな気がするのです。
さて、前置きはその辺にして、本題に移りましょう。

【TOP画像】宮本武蔵/wikipediaより引用

 

生まれた年を知ってることから身分の高さが窺える

武蔵が五輪書を書き始めたのは寛永二十年(1643年)のこと。冒頭でいきなり「年積もりて六十」と書いています。
つまり、武蔵は天正十二年(1584年)生まれというのが定説です。数え年で考えるので、一年ずれるわけですね。

天正十二年といえば、本能寺の変から二年後ですから秀吉vs家康(と信雄)が小牧・長久手で戦った年でもあり、一応戦国時代が収束に向かいつつあった頃です。当時はまだまだ混乱が続いていたと見ていいでしょう。

また、0歳のときの記憶をいつまでも持っている人はそうそういませんよね。ということは、武蔵は誰かに「お前は何年(ごろ)の生まれだよ」と言われたことがあるはずです。

当時は大名の子女ですら、生年がわからないということはザラにあります。
こうした状況を考え合わせると、武蔵はそこそこいい家や立場で生まれたのではないでしょうか。

五輪書によると、13歳までに剣術を修め、その後29歳までに60回以上の決闘に勝利しております。
それなりの身分に生まれていれば、幼い頃から良い師匠をつけてもらって、十代前半に一定以上の腕前になることも不可能ではないでしょう。

一応、武蔵の実父または義父だと言われている人物も何人かいるのですが、決定打がないので、ここでは考えないことにしておきますね。

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秀吉の船も座礁したほど……到着するのも難儀な巌流島

時系列順でいくと、この「60回の勝利」に入るか入らないか……という時期に、あの巌流島の決闘が行われたようです。

巌流島は正式名称を舟島といい、当時は船の難所として知られていました。秀吉が船でここを通るとき、座礁したところ毛利家に助けられたという逸話があるくらいですから、相当のものだったでしょう。
(おそらく、毛利元就の孫である毛利秀元が秀吉に気に入られた時のことだと思われます)。

そんなところでわざわざ決闘をするあたり、物好きというかなんというか……。そもそも相手の船が難破して来られない可能性だってあったはずですよね。
そんなオチになったら、もう一方が待ちぼうけをすることになっていたと思うんですが。うわあ締まらない。

次に武蔵の動きがはっきりするのは、大坂の役です。夏の陣でエクストリーム出戻り大名・水野勝成の息子、勝俊の配下となって活躍しました。
その後、水野家の家臣から武蔵の養子になった人もいるので、家全体と親密な付き合いがあったようです。

これにしたって、剣の腕だけでいきなり大名の跡継ぎにつけられる……というのは、ちょっと考えにくいですよね。まあ、勝成の気性からすると「お前強いから気に入ったわ」というのもありえますけれども。
ちなみに勝俊はものすごくいい人なんですが、父親も部下もこんな感じでインパクトが強すぎるため、影が薄くなってしまっています。カワイソス(´・ω・`)

 

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姫路や尾張にお呼ばれしたかと思ったら島原の乱にも参戦す

その後は大名の間で名が知れ渡ったものか、あちこちで働いていたようです。

姫路城主・本多忠刻(忠勝の孫)の下で町割・作庭を行ったり、尾張藩の家老に弟子を紹介してやったり、訪れた先の大名に養子を出仕させたり……と、ある意味かいがいしく活動しました。
この辺は顔の広さとフットワークの軽さ、知名度が大分上がったことがうかがえます。

その後、一度江戸に出てきていたようですが、そこで何をしたのかは具体的にわかっていません。吉原の遊郭を作った人の記録に「島原の乱に行く前は江戸にいたんだってよ」(意訳)という記録があるだけなので、何か目的があって江戸に来たわけではなかったのかもしれません。
吉原のお偉いさんの一人が武蔵の弟子だったらしいので、それに関連してのことでしょう。

島原の乱では、養子の出仕先である小笠原忠真の下について、討伐軍に加わりました。忠真の甥・長次の後見役ということですから、武働きよりも戦略・戦況に関するアドバイザーとしてつけられたものでしょうか。
戦後、「一揆軍の投石で怪我しちゃいました」(意訳)という手紙を有馬家に送っているので、完全に後方にいたわけでもなさそうですが。

 

細川藩で七人扶持・合力米(こうりょくまい)300石

その後、九州の雄となった細川忠利(過去記事:名門細川家が生き残れたのは細川忠利が賢かったから!? 父は忠興で鳶が鷹かも…【その日、歴史が動いた】)に招かれ、かなり良い待遇を受けています。
七人扶持・合力米(こうりょくまい)300石というものです。

「◯人扶持」というのは、一日あたりに与えられる米の量を指します。一人一日5合で換算しますので、武蔵は一日35合=3.5升もらっていたことになります。日払いではないので、実際にはもっとまとまった量でもらうのですけれども。
これだけあれば人を雇うことも可能なので、「◯人扶持」=「◯人の家来を持つ身分」と考えることもあります。

合力米とは、不幸やお祝いなどで臨時に物入りになった際に与えられるボーナスのようなものです。
というわけで、武蔵の場合は「定期収入は概ね七人扶持分のお米で、何かあった時に合力米300石ももらえた」ということになります。

また、この他に屋敷と鷹狩りの許可ももらっています。忠利気前良すぎ。
父の遺志を反映して、忠利の子・光尚も同じ待遇にしたとか……細川重賢(過去記事:神をも恐れぬ超合理的主義者・細川重賢 「肥後の鳳凰」が藩の財布を建て直す)が聞いたら「ソレ、将来のために貯金しといてよ」と言いそうですね。

いや、武家として達人にそれなりの待遇をするのは当たり前でしょうか。

 

五輪書は前書きと「地・水・火・風・空」の五章で成立

厚遇を受けたからなのか。それともそろそろ腰を落ち着けようと思っていたのか。

亡くなるまで武蔵は熊本藩内で過ごします。絵画に手を出したり、五輪書の執筆を始めたのもこの頃です。それまで武一辺倒だった人にいきなり絵心が芽生えるとも思えませんし、五輪書の章のタイトルも武蔵の教養の高さがうかがえます。

ご存じの方も多いと思いますが、五輪書は前書きと「地・水・火・風・空」の五つの章で成り立っています。
現代人、特にゲーマーからすると何の違和感もありませんが、武蔵の生きていた時代からすると割と斬新なタイトルなのです。

というのも、「地・水・火・風・空」はインドのヴァーストゥ・シャーストラという学問にある考え方なのです。
よく似たものに中国の五行(木・火・土・金・水)がありますが、よく見ると2つしか共通していません。まあ、土=地ととらえることもできますが、その辺はとりあえず置いておきましょう。

ヴァーストゥ・シャーストラがいつ頃日本に伝わったのかは定かでないのですが(調べが甘いだけだったらスミマセン)、もしも武蔵が本当に「出自が全くわからない一般人」として生まれていたら、どこでそんな知識を得ることができたのでしょう?

そこから考えると、武蔵が自分の出自に関して全く書き残していないことが、とても怪しく思えてきません? となると、何らかの理由で自分の出自を隠したかったのでは……という可能性も無きにしもあらず。

その理由が何なのか、本当の出自がどんなものなのかまではわかりませんが、そういう視点があってもいいのではないかな、と思ったので、今回はこのように書いてみました。

なんせ近い時代の史料ですら矛盾する点が多々あるという人なので、今後研究が進むかどうかはわかりませんが……何か新しい史料が見つかったら面白い人の一人でしょうね。

一番ありえそうなのは「実は大名の落胤でした」というパターンですけれども、はてさて。

長月 七紀・記

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参考:宮本武蔵/wikipedia ヴァーストゥ・シャーストラ/wikipedia 五輪書 宮本武蔵の名言

 





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