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織田家 その日、歴史が動いた 豊臣家

堀秀政(名人久太郎) 信長に寵愛されたエリート武将は秀吉にも気に入られながら最期は不審死

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残念なことに、日本は自殺が多い国だといわれています。
しかしその中には、「それ明らかに自分じゃできないよね?」という件も含まれているのが事実です。未解決事件に数え直したら、一体どんな数値になるのでしょうね。
現代ですらそうですから、昔はもっとアヤシイ死に方をした人が多かったでしょう。

本日は、一応穏便な死に方をしたことになっているものの、どうにも疑念が拭えないとある武将のお話です。
天正十八年(1590年)5月27日は、その器用さから「名人久太郎」と称された堀秀政が亡くなった日です。

何でもそつなくこなすから、ということでこの呼び名がついたそうで。同じく織田家臣には内政でも軍事でも欠かせない存在として「米五郎左」こと丹羽長秀もおりますが……。

一体、久太郎とはどんな人だったのでしょうか。

太平記英勇伝七十七:堀久太郎秀政/wikipediaより引用

 

小さい頃から頭も顔も良く、信長に寵愛された

秀政は、天文二十二年(1553年)に生まれました。毛利輝元と同い年、年の近い大名としては高山右近や上杉景勝などがいます。
戦国武将としては若いというか、戦国時代の後半生まれですね。

父は堀秀重という人で、斎藤道三の次に織田信長へ仕えていました。
秀政は小さい頃から顔も頭も良かったので、信長から寵愛されたといわれています。最初、豊臣秀吉に仕えていたのを、「その綺麗な子ワシによこせ」(※イメージです)と言われて信長の元へ移ったともいわれているので、えーと……その先はノーコメントで。

何はともあれ、信長に仕えるようになって三年目・16歳で足利義昭の仮住まい普請を任されていますので、俊才であったことは間違いないでしょう。

20代に入ってからは越前一向一揆や雑賀衆討伐などに参加し、武働きもするようになっていきます。
1582年本能寺の前、光秀が秀吉の援軍に向かった後には、丹羽長秀と共に徳川家康の接待役を務めました。

たぶん長秀が「米五郎左」と呼ばれたように、秀政も何か一点に偏ることなく、戦場でも工事でも外交でも役に立つ器用な人だったから「名人」と呼ばれるようになったのでしょうね。
「堀家で”荷物を運ぶ役と荷物を手配する役、どちらがエライか”という論争になったとき、自ら荷物を担いで歩き、双方を納得させた」というような、部下の人心掌握に関するエピソードもいくつかあります。

米五郎左こと丹羽長秀/wikipediaより引用

 

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中国大返しで秀吉に合流 明智秀満を自害させる

さて、家康の接待を無事終えた秀政は、秀吉の援軍のため中国へ向かいました。

しかし備中(現・岡山県西部)で本能寺の変と信長自害の知らせを聞き、大返し中の秀吉に合流。山崎の戦いでは高山右近らとともに先陣を務めています。
さらに、光秀の親族・明智秀満を坂本城に追い込んで自害させました。

この功績もあってか、清州会議の後は三法師(後の織田秀信)の代官・守役となります。秀吉の信頼は絶大で、血縁者以外で初めて「羽柴」姓を名乗る許可をもらったといわれているほどです。

その後も柴田勝家(北ノ庄城攻め)や家康(小牧・長久手の戦い)に参加し、秀吉が関白になってからは正式な官位ももらい、ますます忙しくなっていきました。
秀政が留守の間は父や弟が城を預かっていたとか。

九州征伐でも先鋒を務め、当然のように小田原征伐にも参加したのですが……その陣中で、突如病気になって亡くなったといわれています。
こんなにデキる人の最期としてはあっけなさすぎるというか、ハテナが飛び交いますよね。

 

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バリバリ働いていた屈強の武将が突然死……

堀家では「(秀政から見て)親の秀重は長命だったのに、息子の秀治も孫の忠俊も若くして亡くなっている」という摩訶不思議な状態になっています。戦国時代後半~江戸時代初期という時代背景を考えても、ちょっと不自然すぎやしませんかね……。

秀政みたいに信長時代からバリバリ働いてた人が、戦場でいきなりぱたっと死んでしまうものでしょうか。感染症であれば、もっと病死者が多くなって記録も残るでしょうし。
「北条から刺客を送られた」とか「何者かに毒を盛られた」というほうが、よほど自然な気がします。

もしくは、秀吉政権の中核になることを危惧した誰かが……というのもありそうですね。
この頃には秀長(大和大納言)は病がちになっていますし、秀吉にはまだ鶴松が生まれたばかりで、他に子供はいませんでした。秀次は小田原征伐の副将を務めていたものの、他に政治も軍事も担えるような人がいるかというと、少々人材不足な面は否めません。

秀吉の子飼いたちはまだ30歳前後で、経験や外部からの信頼という点でやや懸念が残ります。他の大名家からすれば、秀政さえ……と見ることもできたでしょう。

 

堀家の子孫たちは生き残った

実際に、この後、秀吉は鶴松を失い、秀次とは最悪の結果に……。

その後秀頼が生まれたものの、信頼できる後見役が前田利家一人になってしまい、その利家すら秀吉の死からさほど時を置かずして亡くなっているわけですから、もし秀政が他の大名に(ピー)されたのだとしたら、そうさせた人物は驚くべき慧眼の持ち主ですね。

こう書くと一人しか当てはまらない気がしますが、その名とは、い、い、いえ、いえや……ゲフンゴホン。

まぁ、邪推ですね。後世から見ているからこそそう思うだけで、実施は運命の悪戯なのかもしれません。

堀家自体は子孫が他の家に仕えたりして残っていますしね。

長月 七紀・記

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参考:堀秀政/wikipedia

 





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