愛宕百韻(愛宕山連歌会)

明智光秀/wikipediaより引用

明智家

本能寺の前に光秀が詠んだ愛宕百韻~ときは今 あめが下知る 五月かな

天正十年(1582年)5月28日、愛宕山連歌会が開かれました。

そこで詠まれた連歌が「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」と呼ばれ、明智光秀本能寺の変前に、その本心を語っていた――なんて歴史ミステリーではたびたび話題になります。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」というやつですね。

大河ドラマ『麒麟がくる』では触れられず、『どうする家康』では高々と声にしていましたが、光秀は本当に謀反の心境を読みたかったのか?

万が一、バレたらどうすんのよ?

そんな疑問を解消するため、本稿では歌と同時に、愛宕山連歌会や当時の様子を時系列順に見ていきましょう。

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家康の接待役を外され、秀吉の援軍へ

愛宕山連歌会が開かれた当時の光秀は、徳川家康の接待役から外され、豊臣秀吉の援軍に向かうことになっていました。

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「中国攻めがなかなか進まないので、援軍をいただけるとありがたいのですが(´・ω・`)」(※イメージです)という要望が秀吉から織田信長へ届けられ、その先鋒という形で光秀が出陣を命じられたのですね。

そこで安土城からいったん居城の丹波亀山城(現・京都府亀岡市)へ帰陣。

新たに兵を整えると、そのまま中国地方へ出発するのではなく、5月27日、近所の愛宕神社に登りました。

愛宕神社は軍神として武家に信仰されており、光秀もまた自らの武運を祈願するために訪問したのです。

そしてその翌日、連歌師の里村紹巴たちと連歌会を開きました。

里村紹巴/wikipediaより引用

 


「ときは今 あめが下知る 五月かな」

連歌会は当時の社交習慣として行われていたものです。

ゆえに、それだけなら特筆すべきことはありません。

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問題は、ここで光秀が詠んだ歌です。

連歌なので、正しくは発句ですね。

発句とは、連歌の始めの【五・七・五】のこと。つまり歌の方向性を決める大切な役目でもあります。

このとき光秀の詠んだ発句が、有名なこちらです。

「ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな」

現代ではこんな風に解釈されたりします。

「とき」→「土岐氏=光秀の出身」

「あめ」→「天=天下」

「下知る」→「命令」

要は、土岐氏出身の明智光秀が「天下」に向かって命令をくだす=「ワシが天下人になる!」ということ。

つまりは信長に代わって天下人となる「謀反の予告」ということで有名になったのです。しかし……。

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