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その日、歴史が動いた 島津家

島津四兄弟の中で最もキテレツ・島津歳久 戦の神だけでなく安産の神として祀られる不思議な魅力とは?

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日本では、どんな場面でも素直で従順な人が好まれますよね。異性関係や先輩…後輩、職場の上司と部下など、これがあてはまるケースは多いでしょう。

しかし、日本人の大多数が従順なのかというと、そういうわけでもありません。歴史においては、そんな人はほとんど名前が残りませんし。
とはいえ、反骨精神にも限度というものがあるわけで……本日はそんなツッコミを入れたくなるような、とある戦国武将のお話です。

天文六年(1537年)7月10日は、島津四兄弟の三男・歳久が誕生した日です。

この兄弟は皆それぞれにファンがいますし、島津家全体が好きという方も多いので、今更という感もありますが……まあ、ビギナーの方がいるという体で話を進めましょう。
といっても、歳久の小さいころの逸話はあまり伝わっていません。後述のように、長じてからの逸話にインパクトの強いものが多いので、そのせいでしょうかね。

 

農民から関白にまでのし上がった秀吉とは和平すべきだ!

島津歳久の初陣は17歳で、長兄・義久及び次兄・義弘と同じでした。父がやり残した九州南部の平定に向け、薩摩周辺をはじめとした各所の戦に参加しています。
若いころは割と体当たりな戦い方をする人だったようで、敵の包囲を突破する際、大怪我を負ったことも。三男ということもあり、跡継ぎのこともあまり気にしていなかったようで、娘や側室はいても、正室はいないのではという説もあります。

しかし、マイペースでいられたのも、秀吉の九州征伐までのことです。

当時島津家では「どこの馬の骨ともしれないヤツが勝手に関白を名乗ってるだけで、大したことはないだろう。ホイホイ従ってたまるか!」という考えが主流でした。島津家は鎌倉時代からこの地にいるので、名家としての実力もプライドもあったからです。
ただ一人、歳久は「いやいや、もし本当に農民から関白にまでのし上がったのなら油断はできない。和平すべきだ」と言っておりました。

かくして歳久の見方は当たり、秀吉の物量に押し切られる形で島津家は降伏することになります。
が、家中が降伏モードに入ったところで、歳久は「今、和睦を申し出るのは良くない」と言い出しました。な、何を言っているのか(ry

 

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秀吉暗殺のため駕籠に矢を射かけさせたが……

歳久は二人の兄が降伏した後も戦い続け、家臣に秀吉をおびき出させて、駕籠に矢を射かけさせたことまであります。

用心のために空の駕籠を用意していたため、秀吉に大事はありませんでしたが、これが成功してたらだいぶ歴史が変わっていたでしょうね。

ちなみに、歳久には別の逸話からも、周りとかなり違った考え方をしていたことがうかがえます。

ある日、島津四兄弟は揃って馬で出かけました。一休みしながら馬を眺めていたとき、歳久は「馬の毛色はだいたい母に似ていますね。人間も同じでしょう」と言いました。

この発言だけなら、問題ないように見えますが……実はこの四兄弟の中で、末弟・家久だけが腹違いなのです。つまり、悪気があったにしろなかったにしろ、歳久はかなりドギツイ発言をしたことになります。

幸い、この時はすかさず義久が「母に似ることも父に似ることもあるだろうし、人間は獣と違って学問をして徳を積むことができるのだから、生まれだけで全ては決まらないよ」と言ってくれたことで、丸く収まりました。

家久は長兄の言葉を励みにし、それ以降文武を磨いて優秀な将になったといいます。

結果オーライではありましたが、下手をすればここで一家分裂の危機でしたね。
……というわけで、一歩間違うとただのひねくれ者もしくはKYということになってしまうのですが、歳久の最期を見るとそうとも言い切れない……かもしれません。

 

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切腹の途中で「女性の出産は大変だから救ってやりたい」

歳久は秀吉が関白になっても、太閤になっても、朝鮮出兵を命じられても従おうとはしませんでした。

本人は「中風を患ったために自由に動けず、そのために謀反の疑いを受けるのは心外である」というような手紙を書いているのですけれども。
歳久は酒が好きではなかった義久に代わって宴で盃を受けることが多く、そのために中風になったといわれているので、本当のことだったかもしれませんが。
日頃の行いって本当に大事ですね。

そんなわけで秀吉は疑いを解くことなく、「身内のことは身内でカタをつけんかい」ということで、義久に歳久を討たせようとします。
歳久はこれを見て、これ以上島津家に迷惑はかけられないと判断。自ら腹を切って果て……ようとしたのですが、ここでも中風が彼を苦しめます。
中風は脳出血などの後遺症で手足のしびれ・麻痺が出る状態ですから、腹を切ろうとしても手が震えて、うまく刀を握れなかったのです。そのため、近くにあった石を使って何とかしようとしたのですが、これもうまくいきませんでした。

普通ならここで家臣に首を打たせておしまいでしょうが、事ここに至って、歳久の意識は全く別のことに向かいました。

「ただの腹痛でさえこんなに苦しいのに、女が子を産むときの苦しみはいかほどであろう。自分はその苦しみを救ってやりたい」

これから死のうというときに、よくそんなことを思いついたものですね。

これにより、歳久は地元では「戦の神」だけでなく「安産の神」としても祀られるようになりました。神功皇后ゆかりの宇美八幡宮といい、九州には著名な人物本人が関わる安産の神様が多いんですかね。ご利益のほうはどうなんでしょうか。

歳久の死によって、島津家が豊臣家から睨まれることはなくなりましたが、このような解決方法では、義久も義弘も不本意だったでしょうね……。

長月 七紀・記

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参考:島津歳久/Wikipedia 島津義久/Wikipedia

 





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