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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代 合戦

延暦寺と日蓮宗のしょーもないガチバトル「天文法華の乱」で京都の街は大焼失

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争いを収めるのは難しいものです。
小学生同士なら親や先生が間に入ることもできますが、大人同士の場合「ここで謝ったら負けだ!」というプライドが邪魔をして、なかなか矛を収めることができない人も多いですよね。それが自分にとって大切なものに関するもめ事であれば、なおさらのことです。
本日は中世日本のそんなお話を一つご紹介しましょう。

天文五年(1536年)7月26日は、天文法華の乱が起きた日です。

何やらよくわからん字面ですが、大雑把に言うと「日本史で一・二を争う宗教戦争」です。
宗教戦争というとヨーロッパや中東の話になることが多いですが、日本でも宗教同士の争いはあったんですね。
では、どんなものだったのか見ていきましょう。

 

日蓮宗の勢い増し増し ついに延暦寺へ喧嘩を売る

この頃、京都では日蓮宗が広く信じられるようになり、勢力を増しておりました。

面白くないのは、より古い宗派の人々です。日蓮宗の人も、「ウチの教えのほうが正しいんだから、古い宗派なんて意味なし!」という態度でしたので、余計に対立は深まるばかり。
天文元年(1532年)には、「浄土真宗の信者が一揆を起こすために京へやってくるぞ!」という噂により、日蓮宗側が山科本願寺などを焼くという暴挙を働くまでになっております。
このため、浄土真宗は石山本願寺へ本拠を移すことになりました。

また、日蓮宗は「ウチはここからここまで自治してるんで、お上に税金は払いません」というわけのわからん理屈で地子銭という税金を拒否するなど、外から見ればケンカを売っているも同然でした。
信者が増えているので、強気になられたのでしょう。日蓮宗はどんどん態度をデカくしていきます。
そして天文五年(1536年)の2月、ついに延暦寺に対して宗教問答を仕掛けました。

「問答」とは単なる一問一答のことではなく、教義について違う宗派の人同士が議論するものです。現代風に言えば「ディベート」が近いでしょうか。
このときの問答で、延暦寺のお偉いさんが日蓮宗のヒラ信者にものの見事に負けてしまったのが火種になり、しばらく尾を引くことになります。

 

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幕府へ訴えるも退けられて、なぜかショバ代を請求

最澄以来数百年の歴史とプライドを持つ延暦寺。彼らは、自分たちの半分程度の歴史しかない日蓮宗に負けたことを認められませんでした。

学問や議論で、再び勝負を挑めばいいものを「このままじゃウチの面子が潰れっぱなしだ!」と考え、室町幕府へ訴えたのです。
その内容は、「アイツらだけが法華経を使ってるわけじゃないんで、『法華宗』と名乗るのをやめさせてください」というもの。延暦寺=天台宗の別名にも「天台法華宗」がありますしね。
何をどうしたら、それで自分たちの威厳が保たれると思うのか不思議でなりません。

しかし、この訴えは退けられてしまい、延暦寺はついに物理的な手段に出ます。
全山総出で京都の日蓮宗のお寺に「ショバ代寄越せ!」と迫ったのです。もう仏法も面子も関係ありません。

もちろん日蓮宗の人々は断固拒否。そりゃあ、ワケのわからん理由でヨソの宗派にショバ代払うぐらいなら、自分たちや信徒のために使いますよね。

 

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総計約6万ほどの僧兵・信徒・六角軍が日蓮宗のお寺に焼き討ち

すると延暦寺は、ときの天皇である後奈良天皇や幕府に「日蓮宗のヤツらフルボッコにしますんでお許し下さい」と“お願い”し、朝倉家や他の宗派にまで協力を求めました。

何をどうすれば、そんなワガママにこれほど広範囲の人が付き合ってくれると思うんでしょうね。これじゃお釈迦様も最澄も草葉の陰で激怒していたに違いありません。何で仏罰が当たらないんや。

ちなみに、後奈良天皇は般若心経を書写した際、最後に「私が不甲斐ないばかりに、民が疫病で苦しんでいるかと思うと申し訳ない」といった感じのことを書くほど慈悲深い方でした。
なのに、もっと衆生に近い場所で慈悲を説くべきであるはずの、しかも一番権威を持っていたお寺がこのありさまです(´・ω・`)

朝廷も幕府も朝倉家も他宗派も「ウチは関わらないよ」という返事でしたが、ここで近江の六角家が延暦寺につきます。
そして総計約6万ほどの僧兵・信徒・六角軍が日蓮宗のお寺に焼き討ちをかけました。

犠牲者は数千から1万人ほどだといわれています。
しかも火を使ったせいで下京全域&上京(※御所があるエリア)1/3が焼けるという大惨事。一説には、応仁の乱よりもこのとき延暦寺が焼いた面積のほうが広かったとも言われます。ひでぇ。

現代で置き換えると、「高校生がディベート大会で負けて後日いろいろとイチャモンをつけ、最終的に対戦相手の学校を丸ごと放火した」みたいな感じですかね。

抵抗しようにもお寺が焼けてしまっては、日蓮宗の人々もどうにもなりません。
やむなく京都から立ち去り、再起を待つことになります。

 

信長の延暦寺攻めより、被害が大きかったんでは?

ここから6年ほどの間、京では日蓮宗が禁じられました。

が、すぐに勅許で禁が解かれ、焼き討ちに一枚噛んだ六角家が仲介するというワケワカメな形で延暦寺と日蓮宗の和議が成立。また、この騒ぎで焼かれたお寺のうち、半分以上は再建されました。まったく、どういうことだってばよ!

オチを知ってしまうと、「一時的にめちゃくちゃムカついたから焼いただけなんじゃ……?」と思ってしまいますね。

そしてこの件から35年後、今度は延暦寺自身が新興勢力の織田信長に焼かれるという、まさに因果応報なのが何とも。というか、規模からすると延暦寺が京を焼いたときのほうが経緯も結果もよほどヒドイような……。日蓮宗も「ゑ???」と思うようなことはたくさんしていますけどね。

日露戦争でロシアが負けたとき、ロシアの人々が日本を恨み、18年後に関東大震災が起きたため、「ロシアの呪いは18年かかる」という笑えないジョークが生まれたことがあります。
仏罰も、事が起きてから35年かかってようやく当たるんですかね。地獄の刑期がまさにケタ違いであることからしても、地獄や極楽浄土の時間軸では35年なんてあっという間なのかもしれませんけども。

長月 七紀・記

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参考:法華一揆/Wikipedia 日蓮宗/Wikipedia 浄土真宗/Wikipedia 天台宗/Wikipedia 法華経/Wikipedia

 





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