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織田家 その日、歴史が動いた 前田家 関ヶ原の戦い

北陸の関が原「浅井畷の戦い」とは? 前田利家と丹羽長秀、その二代目たちの争い

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戦争は最悪の外交手段……とはいえ、当事者同士、あるいは情勢の変化によっては穏便に収めることも不可能ではありません。実例はものすごく少ないですけれども。
本日は日本史上で最も有名なあの戦に絡む、そんな感じのお話をひとつご紹介しましょう。

慶長五年(1600年)8月8日は、浅井畷(あさいなわて)の戦いがあった日です。

これだけだと「何のこっちゃ?」という感じですが、関が原の前哨戦というか、地方戦のひとつにあたります。

舞台は北陸。そして中心人物は、前田利家の子・利長と、“米五郎左”こと丹羽長秀の子・長重。「二代目」同士の対決は、一体どのような経緯で行われたのでしょうか。
時を遡ること一年数ヶ月前、前田利家が亡くなった頃から話を始めましょう。

秀吉や家康のもとで改易に遭うなど苦労を重ねた丹羽長重/Wikipediaより引用

 

徳川家康に対抗できた前田利家が亡くなると……

秀吉が亡くなった後、五大老の筆頭となった徳川家康に、唯一対抗できたのが利家でした。
利家は秀頼の傅役でもあり、若い頃から秀吉と肝胆相照らしてきた仲でもあり……と、豊臣家にとってこれ以上に頼れる人はいないほどの立場です。

しかし、秀吉と年が近すぎたことだけがネックになりました。秀吉が亡くなった翌年、利家もまた寿命を迎えます。

最後の最後まで利家が危うんだのは、やはり秀頼のこと、そして豊臣家のことでした。
利家は「利長は俺の跡を継ぐんだから、秀頼様をしっかりお守りすること。三年の間は上方を離れるな。国元(加賀)は利政がしっかりやれ」(意訳)との遺言を残します。

利家死去の時点で、秀頼はまだ6歳。そこから三年経ったところで……という気もしますが、おそらく利家としては「三年の間に家康もあの世に行くかもしれない」と、希望的観測を持ちたかったのでしょう。
また、他の反家康派からも、利長に首魁となってくれるよう期待がかかります。

しかし、親家康派、もしくは家康本人のほうが上手でした。

100万石の跡取りとしてプレッシャーもキツかったであろう前田利長さん/Wikipediaより引用

 

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母・まつを人質に送り、徳川の味方をしないわけにはいかない

家康の勧めを断りきれず利長が金沢へ戻っている隙に「利長殿他数名が、家康殿の暗殺計画を立てています!」と家康に密告したのです。

家康は早速容疑者の処分を始め、特に所領の大きな前田家については、武力で潰すことも考えました。これを察知した利長の母・まつが自ら人質になると言い、利長も賛成したため、このときは何とか穏便に済んでいます。
しかし、これは同時に前田家が徳川の傘下になったも同然、という意味になりました。

こうなったからには、前田家は徹頭徹尾、親徳川を貫かねばなりません。関が原に向けて全国の諸将が動く中、利長も国元から岐阜へ向かおうと、戦支度を整えます。

ここで「前田家に出てこられるとツライ」と考えたのが、西軍の大谷吉継です。
前田家は大大名。吉継や石田三成だけでは対抗できない数の兵を出すことができますから、真っ向から戦ってはボロ負けするのも自明の理でした。

兵を使って勝ち目がないのなら、頭を使うのもまた戦の理。吉継はまず、前田家以外の北陸諸将への調略をかけて味方を増やします。
このとき西軍についた中には、信長の孫である織田秀雄(ひでかつ)、そして前田家と戦うことになる丹羽長重がいました。

 

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大谷吉継の情報戦に翻弄される前田家

周辺大名の多くが西軍に与したことを知り、利長は武力で勢力圏を取り戻そうとします。

7月下旬、丹羽長重の守る小松城(現・石川県小松市)を攻めたものの、一向に落ちなかったため標的をチェンジ、8月2日に他の西軍がいた大聖寺城(現・石川県加賀市)を落としました。

この間、吉継は伏見城攻略のため上方にいたのですが、8月3日に国元・敦賀に戻り、前田家へ対応しはじめます。

このタイミングで吉継が流したウワサというのが、この時代の情報伝達の遅さを逆手に取った、実に見事なものでした。
いわく「上杉景勝が越後を取り戻し、加賀へ向かおうとしている」やら、「西軍が伏見城を落とし、上方を制圧した」やら、「大谷吉継が金沢城の背後を突くために海路で進軍している」やら。

ほんの少しだけ事実が混ざっているところに、周到さを感じますね。
ウソをつくときは、多少本当のことを混ぜておくとうまくいくもの。吉継はさらに、とどめの一撃を放ちます。

利長の妹婿である中川光重にこんな手紙を書かせたのです。

「大坂から敦賀へ大軍が向かった。大谷吉継が、義兄上(前田利長)の留守の隙に、加賀を攻め落とすつもりらしい。挟み撃ちになったら大変だから、充分お気をつけて」

利長は義弟の手紙をすっかり信じてしまい、8月8日に金沢へリターン。これを知った長重が小松城から打って出て、前田軍と戦ったのが浅井畷の戦いです。

大谷吉継/Wikipediaより引用

 

関が原関連では珍しく「東西両者が生き残った戦い」

戦いそのものは、関が原本戦同様、一日で決着がついています。
この場所は泥沼などで足元が悪く、数で勝るはずの前田軍は戦力を発揮できませんでした。

それでも、長連龍(ちょう つらたつ)らの奮戦とド根性で、前田軍は何とか加賀へ戻っています。
長連龍は、かつてすさまじい執念で一族の恨みを晴らした人です(詳しくはこちら→【過去記事】史上最恐の「倍返し」能登の武将・長連龍の徹底的な復讐

連龍は、事が成った後は前田家に仕え、利家の遺言にも「長連龍と高山右近は必ず役に立つ」と書かれるほど頼りにされていました。
いつの時代も、信頼されればやる気が出ようというもの。このときも「なんのこれしき!!!」と思って踏ん張ったのでしょうね。

その後、前田家では利政が家を飛び出してしまったなどのトラブルもありましたが、関が原の本戦が終わった後、9月18日に長重と和議を結び、穏便に事を収めました。
そのとき前田家から利常(利家の唯一の庶子・後の加賀藩二代藩主)が人質に出されています。当時、利常は6歳でした。

庶子を人質にする、というのはアレな印象を与えても仕方のないことですが、長重は、利常に自ら梨を剥いてやったりして、気を使っていたといわれています。利常はのちのちまで梨を食べる度にこれを思い出し、周りの人々にも話したとか。
利常はどちらかというと奇抜な逸話で有名ですけれども、これはいい話ですね。

長重は一度改易されましたが、実直な人柄や大坂の役での活躍で許され、後々大名に復帰。
前田家もいわずもがな、「加賀百万石」として栄えていきます。

すったもんだはあれど、浅井畷の戦いは関が原関連では珍しく、「東西両者が生き残った戦い」といえますかね。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記 浅井畷の戦い/Wikipedia

 





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