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その日、歴史が動いた 中国

70代の父と10代の母から生まれた孔子の生涯 『儒教』はいかにして作られた?

更新日:

 

ハタから見ていると堅苦しくて『苦手だわぁ~』と思ってしまうものでも、実際に中を覗き込んでみると『あれ? 意外に面白いんじゃね?』と感じるコトがあります。
例えば学生時代に苦手だった勉強を社会人になって振り返ってみるときなんかはその最たる例とも言え、本日のテーマもそんな感じの出来事……の元ネタをまとめた教育者のお話です。

霊王二十年(紀元前551年)8月27日は、儒教の開祖である孔子が誕生した日です。

儒教といえば封建制度とセットで語られることも多く、どうにも堅苦しいイメージがありますよね。
しかし、孔子自身はそんなにクソ真面目でもないというか、割と形式にとらわれない一生を送っていたようです。

まずは、当時の中国がどんな時代だったのかというところから見て参りましょうか。

【TOP画像】孔子/Wikipediaより引用

 

時は紀元前 中国は春秋戦国時代であった

孔子が生きていた頃の中国は「春秋時代」と呼ばれる時代でした。
だいたい紀元前770~403年頃のことで、これに続く戦国時代と合わせて「春秋戦国時代」ともいいます。専門家の間でも境目ははっきりしていないそうなので、あまり細かいことは気にしなくていいんですかね。

前後の流れで申しますと、実在した中国の王朝で二番目に古い「周」が悪政でgdgdになった後、各地の諸侯が相争っていた時代のことです。日本でいえば応仁の乱~戦国前期あたりをイメージしていただけると何となくわかりやすいかも。
実際、この時代に似ているということで、日本の15~16世紀あたりも「戦国時代」と呼んでおりますしね。

周王朝は今の中国全土を支配していたわけではなく、中央の一部だけでした。
その中で14の国に分かれていて、それぞれ漢字一文字の名前がついており、後の時代に出てくる「秦」「晋」「宋」「呉」などもあります。

孔子が生まれたのは、この中の北東にある「魯(ろ)」という国でした。現在の山東半島の根本あたりです。

中央右手のLu(魯)の位置です/Wikipediaより引用

中央右手のLu(魯)の位置です/Wikipediaより引用

ここは周王朝の初代国王の弟である周公旦を開祖とする国でした。周公旦は文武両道かつ真面目な人物で、孔子も憧れたとか。
もちろん他の人にも尊敬されており、周公旦の決めた制度によって魯の国では荒れた春秋時代でも比較的礼儀が保たれていたといいます。

しかし周辺の国が勢力を増すにつれ、相対的に魯の力は衰えていきました。

大雑把にいうと、軍人が不穏な動きを見せ始め、一部の権力者による寡頭政治が行われていた……という感じです。乱世によくある構図ですね。

 

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文化系の極みなのに身長2mの超巨漢!?

孔子は、そういった情勢の中で生まれました。
父が70代、母が10代というすさまじい家庭環境だったそうです。家康もビックリですわ。

古代史によくあることで、他のことはよくわかっていませんが、身分が低かったことだけは確定のようです。
他にわかっていることといえば、長じてからの孔子は身長2m超の巨漢だったことでしょうか。トーチャンもガタイ良かったんですかね。

3歳のときに父を、17歳で母を亡くし、幼いころは相当の苦労をしました。
それでも何とか学問を修めたとされているのですが、具体的にどんな生活をしていたかも不明。周公旦のお墓に行ったときにあれこれと人に聞いたことがあるので、学校に通ったのではなく、在野の学者に質問をして学んでいったのかもしれません。

後々、弟子の一人も「先生は特定の師に学んだのではなく、どこの誰にでも話を聞いた」というようなことを言っていますし、「我以外皆我が師」という言葉があります。

孔子もそのようにしてさまざまなことを学んだのでしょうか。

 

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魯と斉を行ったり来たりで教育者に

いつの頃からか孔子は魯の国に仕官し、34歳のとき初めて弟子を取っています。

36歳のときに主君・昭公が内紛によって国外追放され、後を追って隣国の斉へ。そこで斉の主・景公に気に入られ、召し抱えられそうになったのですが、斉の宰相・晏嬰(あんえい)に阻まれました。

それが関係したのかどうかはまた不明ですけれども、間もなく魯の国に戻り、仕官よりも教育者の道を選びます。この頃に著名な弟子が多く入門したので、異国での経験で人徳が出てきたのでしょうか。

そして52歳のとき再び仕官し、割と物騒な逸話を残しています。
魯の主・定公と斉の主・景公の和議の席で、斉側の刺客を見抜き、その手足を切らせたというのです。当然景公はビビりました。
この計略は、かつて孔子が斉に仕官するのを阻んだ晏嬰によるものだったとされているのですが……自分のところで雇っておけば監視やそれ以上のことができただろうに、下手を打ったものですね。

この功績で、孔子は最高裁判官兼外交官に任じられています。めっちゃ忙しそう(小並感)

 

旅からの帰国後に古典研究&整理を進める

職責の重さは孔子の望むところではなかったようで、54歳で辞職、弟子たちと諸国漫遊の旅に出ました。

自分の考えをわかってくれる主君を求めて……ともいわれていますが、13年後に魯へ帰国するまで、どこにも仕官していません。孔子のお眼鏡に適う人がいなかったんでしょうかね。帰国した年には息子に先立たれているので、どこかから息子の体調不良を聞いて戻ってきたという可能性もありそうですが。

その後は亡くなるまで、古典研究と整理を行っていたといわれています。実は儒教の多くは孔子以前にあった習慣や格言などをまとめたものなんですね。

その中でも、孔子と弟子たちのやりとりをまとめたのがかの有名な「論語」という本です。
いかにも堅苦しそうなイメージがありますが、実は論語他、儒教の書物は日本人が知っていることわざや四字熟語の出典であることが多かったりします。

ざっとまとめるとこんな感じです。

・論語

過ぎたるはなお及ばざるが如し
義を見てせざるは勇無きなり
温故知新

「論語読みの論語知らず」「犬に論語」など、論語そのものがことわざに入っているものもありますね。「論語」がゲシュタルト崩壊しそうです(´・ω・`)
また、孔子の時代から1世紀ほど後に、儒教の考えをより進めた孟子や荀子が現れました。
この二人が著した書物にも、日本で有名な格言が多く含まれています。

・孟子(性善説の人)

往く者は追わず、来る者は拒まず
匹夫の勇
自暴自棄
五十歩百歩

孟子本人の教えではありませんが、「孟母三遷の教え」「孟母断機の教え」という故事成語も有名ですよね。孟子のカーチャンすげえ。

・荀子(性悪説の人)

越人は越に安んじ、楚人は楚に安んず(住めば都)
青は藍より出でて藍より青し(出藍の誉れ)

孔子の弟子だけで数千人いたといいますし、更にそこから分化した教えとなると、それこそ気の遠くなる話なので、ここではこの辺にしておきましょう。
好きな格言がある方は、出典を調べてみると儒教の書物に行き着く可能性がありますから、そうやって自分の好みに合う本を探すのもいいかもしれません。

今ではあまり使わない言い回しも多くありますが、知っておくと困ったとき・悩んだときに支えになるようなものも存在します。技術や生活習慣は変わっても、人の考え方や悩み事はそう変わらないということでしょうか。

たまには「温故知新」ということで古い本に触れてみるのも良さそうですね。もう少しで読書の秋ですし。

長月 七紀・記

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参考:孔子/Wikipedia

 





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