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その日、歴史が動いた 豊臣家

片桐且元、大坂の陣での決断 徳川家康にハメられたのではなく少しは期待もされていた!?

更新日:

 

時の流れは止められない。
常に動いているゆえに、権力者たちは多大なる苦労を払ってその流れをつかもうとし、そして運を引き寄せた者だけが頂点へと上り詰めていくものです。
逆に言えば、いったん動きが止まってしまうと更なる変化には対応できず、場合によっては滅びゆく運命となるわけで……。
本日は一つの家の終わりが見え始めた、あの出来事です。

慶長十九年(1614年)10月10日は、徳川家康が大坂冬の陣に向けて駿府を出発したとされる日です。11日とする記録もあるようですが、今回はとりあえずこの日のこととして扱います。

大河ドラマ「真田丸」でもクライマックスとなるであろう、大坂の役が実質的に始まった日……と見てもいいでしょう。実はこの戦いは、直前の徳川と豊臣のヤリトリが興味深く、特に片桐且元と家康における交渉が色々と鍵を握っておりました。

では早速本題……の前に関が原の戦いからおさらいしておきましょう。

大坂夏の陣図屏風/Wikipediaより引用

大坂夏の陣図屏風/Wikipediaより引用

【TOP画像】片桐且元/Wikipediaより引用

 

7行でまとめる豊臣家vs徳川家の決着

関が原の戦いは1600年。対する大坂の陣は1614年と1615年。まずは、それまでの経緯をざっくりと確認しておきたいと思います。

①慶長五年(1600年) 関が原の戦い

②慶長八年(1603年) 家康が征夷大将軍になる・千姫が秀頼に輿入れする

③慶長十年(1605年) 家康、秀忠に征夷大将軍を、秀頼に右大臣を譲る

④慶長十六年(1611年) 後水尾天皇即位のお祝いに合わせ、家康が二条城で秀頼との会見を申し込む

⑤慶長十九年(1614年) 方広寺鐘銘事件→大坂冬の陣

⑥慶長二十年(1615年) 大坂夏の陣

⑦慶長二十一年(1616年) 家康死去

日本史の重要な出来事の中でも、上記のように「年号が変わらない間に始まってケリがついた」というのは、なかなか珍しい気がします。
年数で見ると16年間ですから、決して短くはないのですけども。

何となく話の流れがわかったところで、もう少し細かい話に入りましょう。この辺は戦の話より政治的な話になるので、苦手な方にはちょっと退屈かもしれませんが、ご勘弁ください。

 

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徳川家の実権がキッチリ長く続くようにせねばならん

「家康は関が原の戦いで勝ってから、トントン拍子に幕府を開いて豊臣家を滅ぼした」
そんなイメージをお持ちかもしれませんが、実際はかなりの手間をかけています。
なぜそうしたのかというと、家康は「誰の目にも正当な方法で、自分の子孫が実権を握り続けることができる仕組みを作りたかったから」だと思われます。

そのためには、できるだけ穏便な方法で豊臣家から政権を譲り受けなければなりません。
関が原の時点では、実権はともかく、名目上は家康が秀頼の家臣。ここで主筋の秀頼をすぐに処分しては、世間や朝廷から「元からそのつもりだったのか」と思われてしまうわけです。
仮に、そこで豊臣家から政権を奪ったとしても、また別の家の誰かに力尽くで奪われて、戦国時代が延々と続いてしまうおそれがありますよね。

ですから家康は、「秀頼では武家のトップに立つのは無理だ」ということをわからせるために、14年間かけて徐々に態度を強めていきました。

その第一歩が、自ら征夷大将軍になったことです。
古来からこの官職は武家の棟梁がなるものとされていますから、勘が良い人であればこの時点で「もう豊臣家が武家の中心になるのは無理だ」と気付いたかもしれません。
この点については、むしろ当事者であるはずの豊臣家よりも、他の大名たちのほうがよくわかっていたような感がありますね。

 

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公家としてならば豊臣も十分に生き残れた

なんとなく「家康は何が何でも豊臣家を叩き潰すつもりだった」というイメージが強いですが、そうとも限りません。
秀吉は武家の職である征夷大将軍ではなく、公家の職である関白になっていましたから、「公家として豊臣家を残す」という手段はありました。いろいろと面倒な点はあるものの、豊臣家側にその気があれば、家康も乗ったでしょう。
それができなくなったのは、豊臣家側にそうした駆け引きができる人材がいなかったからです。

家康が秀吉存命中からの約束である、孫の千姫輿入れを予定通り行ったのは、「そっちがきちんと対応してくれるなら、豊臣家をないがしろにするつもりはない」というアピールだったのでしょう。
まあ、既に他の大名からも一般人からも「家康は腹黒いやつだから、豊臣家のこともいずれアレコレ手を講じて、潰すに違いない」と思われてしまっていますので、信用についてはどっこいどっこいですが。
日頃の行いってホント大事ですね。

征夷大将軍になって、わずか二年で秀忠に継がせたことも、世襲制をアピールし、「もう秀頼は武家のトップにはなれないんだから、ちょっと退いてくれ」ということを暗に示すつもりだったと思われます。
ここで豊臣家から何かしらのアクションがあって和解できていたら、豊臣家は公家としてずっと続いたかもしれませんね。

そしてそうなっていれば、方広寺鐘銘事件のイチャモンはなかったかもしれません。

 

方広寺鐘銘事件のとき家康はすでに71歳なワケで

「お寺の鐘に国”家”安”康”って刻んだそうですね? ワシの名前をぶった切るなんて呪詛ですか?」(超訳)

上記のように家康が豊臣家に迫ったとき、年齢は既に71歳。現代であれば「もっと長生きしてね」という歳ですが、当時としてはいつあちらの世界に行ってもおかしくない年齢です。

家康は自分が死んだ後、秀忠が豊臣家をうまく処分できるとは考えていなかったのでしょう。
そこに(苦しいながらも)豊臣家を咎め立てできるモノが見つかったので、つついてみた……というのが、方広寺鐘銘事件の実情ではないでしょうか。

このとき片桐且元という豊臣家の家臣が、駿府へ弁明にやってきます。しかし家康は直接会わず、代わりに側近の僧侶が「呪いじゃないならそれなりの誠意を見せてよ^^」(※イメージです)という空気だけを匂わせました。
個人間だったら確実に嫌がられる対応ですが、政治的なやりとりでは定石というか当たり前というか、よくある話です。

家康の言わんとすることを察した且元は、あくまで私見として、秀頼と淀殿に対応策を提案しました。
「秀頼が大坂城から出る」「秀頼が江戸へ参勤する」もしくは「淀殿を人質に出す」の三つです。

これは戦国時代であれば珍しくない話でしたが、且元は淀殿という人間を理解していませんでした。
秀吉存命中に「天下人の跡継ぎの母」として絶対的な地位になった淀殿には、今さら自分と息子が誰かの下になることなど考えられなかったのです。

真田丸徳川家康

イラスト・霜月けい

 

且元の対応次第で武力行使もやむなし

淀殿と同じように、「豊臣家は家康の家臣ではない!」と考える人々も、且元の提案を断固拒否。
豊臣家を救いたいがためにこれらの提案をした且元と、弟の貞隆は大坂城内で孤立してしまい、貞隆の居城である茨木城(現・大阪府茨木市)へ退かざるを得なくなりました。

家康はおそらく、且元が自分の意向に気づき、何らかの手を講じると考えていたでしょう。その且元が大坂城から出るということは、「既に豊臣家には、家康の意と現在の状況を解する人間がいない」ことを意味します。
加えて家康自身の寿命を考えれば、もうこれ以上の猶予はありません。

関が原の戦いからここまでにかけた時間と比べれば、方広寺鐘銘事件から大坂冬の陣までの時間は極めて短いものです。なんせ発覚したのがこの年の夏で、その2ヶ月後の10月には、家康自身が軍を率いて駿府を出ているのですから……。

おそらくは且元を大坂へ帰した時点で、家康は「この冬までに良い反応がなければ、武力行使もやむなし」と決めていたのでしょう。
豊臣家は豊臣家で、方広寺鐘銘事件の前から浪人や兵糧を集めていましたし、上方でも「いつ戦になるかわからない」といった噂が流れていたようです。
石田三成はとっくのとうに処刑されていましたが、この辺の豊臣側の動きは三成とよく似ているというか、「こう動いたら、世間や家康・幕府はどう思うか」「それが自分たちにとってどんな影響を与えるか」という視点が欠如している気もしますね。
家風といえばそれまでですけれども、もうちょっと良い形で危機を乗り越える方法もあっただろうな……と思えるだけに、残念なことです。

もしもこのとき、豊臣家が柔軟な姿勢を見せていたら、豊臣家に味方した大名や武将も、現在よりは多く生き残れていたかもしれません。
まあ、それでも家康に突っ込んでいって討ち死にを選びそうな人もチラホラいますけどね。
もしくは、のらりくらりと話を引き伸ばせていれば、先に家康が亡くなっていたでしょう。その場合は戦国時代に逆戻りするおそれもあったワケで、あまり良い方向とはいえませんね。

関が原の戦いは戦国時代の終わりを意味しました。
そこから大坂の役までの流れは「武士に政治的センスが問われる時代になった」ということになりますかね。

長月 七紀・記

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参考:大坂の陣/Wikipedia 片桐且元/Wikipedia

 





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