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その日、歴史が動いた ドイツ WWⅡ

連合軍から「砂漠の狐」と畏怖されたドイツの英雄ロンメル ヒトラーに疑われ自ら閉じた軍人の生涯

更新日:

 

「箱の中のりんごが一つ腐っていると、周りも全て腐ってしまう」
組織の腐敗などでよく使われる表現ですが、世の中には不思議な事に、真逆の現象が起きることもあります。
世界史上で最も嫌悪されているであろうあの組織にも、敵味方から非常に尊敬された人物がいました。本日はその人の一生を追いかけていきましょう。

1944年(昭和十九年)10月14日は、ドイツの偉大な軍人の一人であるエルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルが自決した日です。

モンスター(褒め言葉)揃いの第二次世界大戦時のドイツ軍において、指揮官として才能を発揮した稀な人物でもあります。日本もよそ様のことはいえないのですが、この時期は航空機の発達もあってか、個人レベルのモンスター(ry)が多いんですね。

こう書くといかにもそびえ立つような人物を想像してしまいますが、ロンメルはドイツ人男性としては小柄で、166cmくらいだったそうですよ。
三国時代の曹操といい、軍の指揮に優れた人は小柄な傾向があるんですかね。諸葛亮は背が高かったそうですが、どちらかというと政治家ですし。

しかし、そんな英雄も最期は自決するのですが、なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。

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【TOP画像】エルヴィン・ロンメル/wikipediaより引用

 

飛行機に憧れながらも19歳で軍に入隊

ロンメルは、ドイツ中南部のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツという町で1891年に生まれました。

祖父と父は数学者であり教師でもあるという人物で、地元では尊敬されていたといいます。母も地元の名士の娘なので、ロンメルは「王侯貴族ではないがいいところの生まれ」という感じでしょうか。

小さい頃は病気がちながら、元気な時はよく走り回って遊んでいたという、ごく普通の少年でした。
勉強には熱心ではなく、10代になってからいろいろなことに興味を持ち、親友と二人で実物大のグライダーを作ったこともあったといいます。残念ながら飛べなかったそうですけど。工作の才能はなかったのかもしれませんねw
当時は飛行機が登場したばかりの時代であり、幼いロンメルも大いに惹かれたと思われます。

そのせいもあってか、ロンメルは当初、航空機関連の仕事を希望していました。
しかし父親に反対され、19歳で軍に入隊。ここで反対を押し切ってパイロットにでもなっていたら、第二次世界大戦は全く違う経過になっていたのかもしれませんね。

ロンメルは下士官として勤務した後、王立士官学校に進み、順調に経歴を重ねていきました。
この在学中に妻となるルーツィエと出会い、1916年に結婚しています。その一方で別の女性と娘をもうけたりもしているのですが……男心は複雑怪奇です。

 

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第一次世界大戦ではフランス各地を転戦す

第一次世界大戦が始まったときには23歳になっていましたので、充分に戦線へ出られる年齢でした。対フランス戦線に参加し、初めての実戦はベルギー・フランス国境付近のブレドという村だったといいます。
このときは前の日に丸一日偵察をさせられていた上、胃の調子が悪いにもかかわらず、上官に「軟弱!」と言われるのが嫌で黙っていたそうで。
どこでも根性論ってあるもんなんですね。って、軍隊でしかも戦時中なら当たり前か。

後に「砂漠の狐」と称される指揮能力を見せるロンメルも、このときはまだ新人士官の一人。
結果的には勝ったものの、体調不良で副官に指揮を任せた時もあり、自軍だけでなく民間人や牛馬を戦火に巻き込んだことで、かなり落胆したといいます。

その後は体調不良や疲労・負傷を抱えながら、フランス戦線各地を転戦しました。
この間、ドイツ軍もフランス軍も「自分から攻め込むより迎撃するほうが効果的」と判断し、塹壕戦が始まっています。教科書で第一次世界大戦のことをやるとき、絶対に出てくるアレですね。詳細を知ると悲惨すぎて、意識しなくても脳裏に焼き付くんですが、トラウマになるから授業ではやらないんですかね。

ともかくロンメルが優れた指揮能力を発揮し始めたのは、この頃からでした。

 

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ドイツ軍人憧れの「プール・ル・メリット勲章」は……

ロンメルは、戦争で最も難しい後退を僅かな損耗で成功させ、当時のドイツで下から二番目の功労賞である一級鉄十字章を受章。
その後、新たに編成された山岳部隊に転属となり、スキー訓練などを受けた後、再びフランス軍と戦いました。1916年からはルーマニア戦線とフランス戦線をたびたび移動しています。

この間一時的にドイツに戻り、ルーツィエと簡単に結婚式を挙げました。時期が時期なので新婚旅行などは出来ませんでしたが、負傷で一時休養したときは一緒に過ごせたそうです。ヒューヒュー!

そして1917年秋からはイタリア戦線に転属。
この戦いでは「最初に要所を占領した部隊の指揮官にプール・ル・メリット勲章を与える」という餌がぶら下げられたため、ドイツ軍の士気は大いに高まったそうです。

プール・ル・メリット勲章とは、ドイツ(正確にはプロイセン)の最も偉大な君主とされるフリードリヒ2世が制定した、歴史と栄誉ある勲章のこと。第一次世界大戦で多くの軍人に授与されました……というか、戦間期に廃止されてしまったのですが。

プール・ル・メリット勲章/Wikipediaより引用

プール・ル・メリット勲章/Wikipediaより引用

当コーナーに登場した人物では、帆船で暴れまわったフェリクス・フォン・ルックナー(過去記事:ドイツ海軍最強の軍人ルックナーの豪腕 これが噂の帆船ゼーアドラー号だ!)がいます。

ロンメルはこの勲章について「部下を犠牲にしてまで欲しいものでもない」とも考えていました。一方で、軍人としての能力を示すものが欲しいのもまた事実です。
そして夜間に偵察を行い、イタリア軍の隙を突いて襲撃をかけました。が、部下に無茶振りをしていた他の部隊が先に要所を抑えてしまったため、せっかくの勲章はそちらに与えられてしまうという骨折り損なことになります。
お膳立てをしたのはロンメルの部隊なのに、それが無視されてしまったのです。当然ロンメルは怒りながら、かといってスグにどうこうなる問題でもありませんでした。

 

短期間で17,000人ものイタリア兵を捕虜にする

これに対して、ある程度同情してくれたのは直属の上官。
「もうアッチとは協力しなくていいから、お前の隊で山一つ攻略してみろ」と言われます。

ロンメルは再びやる気を出し、攻略を成功させただけでなく、9,000人ものイタリア兵を捕虜にします。ロンメル自身の部隊は500人しかおらず、しかも5人の戦死者と20人の負傷者しか出さない、という素晴らしい戦果です。
そもそもイタリア軍があまりにヤル気なさすぎたとの話でもありますが、どんだけー。

しかし、一度あることは二度ある。このときも別の山を攻略していた部隊が、ロンメルの勝ち取った山と勘違いして上に報告してしまい、またしても彼はプール・ル・メリット勲章を逃します。
二回も出し抜かれて当然、激怒&猛抗議! にもかかわらず「もう決まったことだから」とはねつけられてしまいました。お役所仕事イクナイ。

それでもロンメルはなんとか気を取り直し、今度は別の場所で再びイタリア兵を8,000人も捕虜にし、やっとプール・ル・メリット勲章が与えられます。
えーと、短期間にロンメルの部隊だけで1万7000人も捕まえたことになるんですが、どういうことなの。

ロンメルの華やかな戦績・指揮能力は、やがて上の目にも留まります。第一次世界大戦末期には幹部候補の一人として参謀となり、最前線からは身を引くことになりました。

しかし、これほど優秀な軍人がいても、ドイツは第一次世界大戦で敗北を喫します。
敗戦からの帝政廃止を経てヴァイマル共和政へ移行し、ドイツは大きく変わろうとし、ロンメルは軍人であり続けました。
転属先の兵士は革命派が多く、当初はロンメルをナメていたが、やがてその人格によって団結するようになったといいます。ごく◯んかっ!

敗戦国となったドイツには、これまた教科書でお馴染みの「膨大という言葉が生ぬるいほどの賠償金」の他、さまざまな罰が課せられました。
その中には領土と軍の縮小も含まれており、将校(指揮官を務められる人)は6人に1人しか残れないほどの厳しい減らし方をしております。ロンメルはこの1人として選ばれています。
戦間期にはドレスデン歩兵学校の教官を務めたこともあり、彼の講義はわかりやすさと臨場感で人気を博したそうです。後に執筆活動などもしていますし、話が上手かったんでしょうね。

 

警備体制をめぐり、ちょび髭のSSと真っ向勝負!

さて、その後、悪夢の独裁者・チョビ髭とその政党が同国内で台頭してくると、ロンメルも党是の反共主義・軍拡に賛成し、支持者の一人になりました。
日本ではユダヤ人関連のイメージが強いですが、ちょび髭党が当時熱狂的に支持されたのは、賠償でボロボロだったドイツをたった数年で立て直し、再び先進国に押し上げたからです。そうなると当然、軍隊も以前の規模に!となりますよね。

ロンメルは生涯をかけての党員にはなっておりません。これは他の政策に頷けない部分も多かったからだと思われます。

実際にちょび髭と対面したのは、ロンメルが所属する連隊がいたゴスラーという町でのことです。ちょび髭がここでの収穫祭にやってきたとき、SSとロンメルが警備編制を巡って口論したことがありました。
SSは「ウチが最前列を務めるべき」と主張しましたが、これは地元の軍を信頼していないも同然の発言。当然ロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は出席しない」とはねつけました。当然騒ぎになり、SSのトップに直接謝罪されています。
この話を、ちょび髭は好意的に受け取ったそうです。

その後、ロンメルは第一次世界大戦での経験と、教官時代の講義をまとめた「歩兵攻撃」という本を出版しました。
ちょび髭は同大戦で歩兵をしており、現実に即したこの本を絶賛。ロンメルに絶大な信頼を置くようになります。ロンメルもまた、ちょび髭を信奉するようになっていきました。
まあ、帝政時代にあれだけ功績を蔑ろにされていれば、「今度の上司はちゃんと評価してくれる!」と大喜びするのは当たり前の流れですよね。

ロンメルが貴族出身でなく、他人を見下すような態度がまったくなかったことも、ちょび髭の好感度を大きく上げました。これによってちょび髭の警備を任されるようになり、1939年にドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まっても、しばらくそのままでした。……とはいえ、歩兵の指揮に優れていて、実戦経験も豊富な人を国内に置いておくのは戦略としてどうよという気はしますね。

ちょび髭は当初「ポーランドを落とせば英仏は講和を選ぶ」と思っていましたが、そうはならなかったため、フランス侵攻を決めます。
「あっちのほうが戦備が整ってるいるのに攻め込むのは無理っしょ」と言われていたの強行したあたり、政治的才能と軍事的才能の両立は難しいということがわかりますね。

ともあれ、ロンメルはこの戦線拡大路線によって、再び前線に戻ることになりました。

 

ほとんど戦車の知識はないにもかかわらず……

新しく編成された部隊は機甲師団の一つ。機甲師団とは、戦車を中心とし、自動車が随伴する師団(軍隊で三番目に大きい規模の組織)のことです。
ロンメルはこれまで機甲師団や戦車の知識がほとんどありませんでしたが、この配属で一気にやる気が出たらしく、すぐに運用法を見に付けたそうです。

ロンメルがフランス侵攻作戦に参加した時点で、戦車の数はドイツ2800両に対し英仏軍4000両。
数の上では不利な状態にありながら、ロンメルの師団は異様なほど進軍速度が早く、ドイツ国内では「最も西にいる師団」と呼ばれ、敵からは「いつの間にか防衛戦をすり抜けている、あいつらは幽霊か!」と恐れられました。

作戦開始の半日後にはベルギーに侵攻し、この地点にいたフランス軍は一時は抵抗しようとしたものの、奇襲を受けてすぐに撤収。このように目覚ましい活躍をしたロンメルですが、ときには味方の資材を盗んで使ったり、上からの命令を無視するなど、「それどうよ?」という行動もしています。

もちろん、ときにはそういう非常識的な行動もしなければならないでしょうし、特にロンメルは「戦争は司令部で起きてるんじゃない、戦場で起きてるんだ!」(超訳)というポリシーを持っていたので、きちんと結果も出しています。
そして、ちょび髭もロンメルを「英雄」にしたかったので、この辺のことは不問にしています。

一方で、ロンメルのこうした行動は、他の部署やちょび髭以外のお偉いさんとの軋轢を生むことにもなりました。

 

本の執筆だけでなく映画撮影まで自ら行う

多くの捕虜と兵器・物資を得ながらロンメルたちの師団は戦場をひた進み、その後ドーバー海峡沿岸での戦いで、空軍の爆撃による協力を得て多くの英仏軍を降伏させました。

戦闘の前には部下とともに海水で遊んだ、というちょっと微笑ましいエピソードも残っています。ドイツはほぼ内陸国ですし、ロンメルの地元も内陸ですから、海が珍しかったのかもしれませんね。そういう無邪気な人間が殺し合うのが戦場の悲哀ですが……。
ちなみに、ロンメルたちが沿岸部で勝利を収めた頃、パリが無血占領されていました。ドイツから見て、この時点での西部戦線は順調だったということになります。

フランス戦後、ロンメルはすぐにイギリス上陸を予期しておりました。が、イギリス上空の制空権を取れていなかったため、しばらく休息を取ることができました。勤務時間の他には狩猟や本の執筆、宣伝のための映画撮影などを行っていたそうです。
特に映画撮影は面白かったらしく、部下や捕虜への演技指導まで熱心にやっていたとか。
映画出演によって、ロンメルはドイツの英雄として抜群の知名度を得ることになります。後々一度だけ社交パーティーに出たときも、顔が知られていたため、女性たちにモテモテだったとか。

 

国際条約に基づき捕虜を丁重に扱う騎士道精神

ゆっくりできたのもほんの束の間。1941年から、今度は北アフリカ戦線で英米軍と戦うことになります。
日中は40度を超える一方、夜は氷点下にまで冷え込む上に、天候も不安定な砂漠地帯。病気や脱水症状も起こりやすいという過酷な環境に苦しめられました。その上、彼我の物量差を戦術でカバーしなければならないというハードモードです。

しかし、戦場が砂漠であったために民間人の犠牲者は少なく、SSが来なかったためにユダヤ人虐殺もありませんでした。上からそういった命令が来ても、ロンメルはその部分だけは部下に伝えなかったそうです。
また、ロンメルは捕虜を国際条約に基づいて丁重に扱いました。これらの点から、ロンメルは騎士道精神に忠実な指揮官として認識されています。
その「騎士道の国」の一つであるイギリス軍はといえば、ドイツ軍捕虜をかなり手荒く扱っていたといいます。イギリス軍の捕虜対応マニュアルを見てロンメルは激怒したそうですから、よほどだったのでしょう。

その後、イタリアがろくな準備もせずエジプトを目指して進軍したため壊滅し、ドイツに助けを求めてくるというgdgdな事態が起きます。
これにはさすがのちょび髭も苦笑いどころではありませんでしたが、「あの辺ほっとくとウチの作戦にも支障が出る」として、イタリア軍支援を決めました。
その中にロンメルも選ばれ、一度ベルリンに戻ってから再び北アフリカへ向かい、イタリア軍の司令官と相談して戦況打破に動きます。

 

士気が落ちている今こそ絶好の機会だろ

ロンメルは物資や兵器の輸送を急ぎましたが、戦闘の状況から「イギリス軍は積極的に攻めるつもりではない」と考えました。この頃チャーチルの意向で北アフリカのイギリス軍はギリシャに戦力を割かれており、前線維持が目的だったと思われます。
また、同時期にイギリス軍の司令官が砂漠に不慣れな人物に交代していたことも影響したのでしょう。

ロンメルはこうして厳しい状況の中、北アフリカ戦線を維持することに成功しました。
しかし、ドイツ本国では独ソ戦に注力するため、そしてロンメルを嫌う人々の讒言により、その働きが認められることはありませんでした。そればかりか、「アフリカは適当にやっておけ」と言われてしまいます。
……あのナポレオンですら、イギリス攻略を後回し&ロシアを攻めて大失敗してるんですが、ちょび髭はナポレオンより自分のほうが上だとでも思ってたんですかね。

しかし、現場を知っているロンメルにとっては、イギリス軍の士気が落ちている今こそ絶好の機会でした。
そのため、命令を無視して進軍し、イギリス軍が二ヶ月かかって占領したキレナイカ地域を10日で奪い返すという快挙を成し遂げています。
その後も北アフリカ戦線で活躍したものの、妻への手紙の中で「イタリア軍が上も下も全くアテにならなくて困る(´・ω・`)」と愚痴も書いていました。さすがヘタリア(「ヘタ」レなイタ「リア」軍の略)。

中央からすれば、命令を無視する・多くの損害を出すロンメルは歓迎できない存在でした。それでも戦況判断の点において、ロンメルは非常に優れていたため、プラマイゼロと評価されていたようです。
例えば、敵の旅団間の連携がうまくいっていないことを見抜き、そのつなぎ目を断つようにしてイギリス軍の背後に回りこむことに成功しています。当然のことながら背後を突かれたイギリス軍は大混乱に陥り、お偉いさんが視察に来たときには敗走中だったとか。笑えない話ですね。
しかも、このとき物量や制空権を握っていたのはイギリス軍のほうです。指揮系統が崩れた軍は烏合の衆になる、という実にわかりやすい例です。

この戦果にちょび髭とムッソリーニは大喜びし、イタリア軍の一部もロンメルの指揮で動かせるようになりました。
自軍だけでなくイタリア軍からもロンメルの人気は高まり、一気に士気と練度が上がったといいます。やはり「強い男」は男のやる気を引き出すものなんでしょうか。現代でも、仕事も性格的にもデキる上司は良い目標になりますものね。

 

リビアのキレナイカをめぐって激しくなる英軍とのバトル

一方、チャーチルは自軍の不甲斐なさに(#^ω^)ピキピキし、司令官を交代させていました。そりゃあ、なぁ。
ちなみに、この数ヶ月後にチャーチルの大のお気に入りだった戦艦プリンス・オブ・ウェールズも日本軍の攻撃で沈没しています。西洋人にも厄年ってあるんでしょうかね。

とはいえ、独伊軍にとって悩みのタネである北アフリカの補給線は未だ改善できていませんでした。そのためイギリス軍から物資を奪おうとしたものの、空襲のためなかなかうまくいかずに終わっています。
この間、イギリス軍はロンメルの誘拐・暗殺計画まで立てていたとか。まぁ、砂漠で敵軍に忍び込むのは難しいでしょうけどね。やるならベルリンに戻ったときが一番だと思うのですが、さすがに当時の情報網では難しかったようです。

また、イギリス軍は沿岸部からの侵攻で失敗したため、内陸部からキレナイカ(リビア東部)奪還を計画しました。

この日ロンメルはたまたまローマに出かけて戻ってきたばかりで、当初まともに指揮が取れなかったといいます。そのため一時は独伊軍が劣勢になりましたが、イギリス軍自身の割と洒落にならないミスで、(独伊軍が)状況を改善しました。棚ぼたにも程がある。

しかしその後は一進一退。物資などで不利な独伊軍が先に壊滅しかねない状況にまで陥ります。ロンメルの参謀が独断で撤収を命令するほどでした。

これにはロンメルも、一度は激怒したものの「やつの判断が正しい」と認識を改めて後退を選んでいます。
自分も上の命令を無視することが少なくなかっただけに、相手が正しければ部下の命令違反を咎めようとはしなかったようですね。

 

マルタ島への空襲で北アフリカへの輸送状況は改善する

ロンメルは兵を激励して心情的にも立て直し、部隊の再編成を行いました。
1942年のはじめには新しく戦車や装甲車が届き、さらにやる気を高めています。
独伊軍の立て直しはイギリス軍の予想よりも早く、キレナイカ地方のほとんどを奪還することに成功しました。

独伊軍の補給が厳しかったのは、イタリアからの輸送船のおよそ半分がイギリス領マルタ島の英軍によって沈められていたからです。
しかし、独伊空軍によってマルタ島への空襲が行われたため、北アフリカへの補給状況が改善し、戦況にも余裕ができました。
これを踏まえて、ロンメルは今度こそキレナイカ地方を完全に奪うべく作戦を立てます。

戦略的には後手に回ったイギリス軍でしたが、アメリカの工業力により戦車や新型対戦車砲を導入でき、またしてもドイツ軍が追い詰められることになりました。
一時は水が枯渇するまでになったといいますから、戦闘以前の問題です。

そのため、補給線維持を重視して、しばらくビル・ハケイムという町を巡って戦うことになりました。
ここは自由フランス軍が守備しており、その構成員はちょび髭等の迫害から逃れてきたユダヤ人が多かったそうです。そのため、ドイツ本国からは「殲滅しろ。捕虜にしてしまった場合は秘密裏に殺せ」という命令が来ていたとか。
しかしロンメルは「ユダヤ人問題の最終的解決」には反対だったので、その部分は部下に伝えなかったそうです。冷静に考えれば、物資に余裕がない状況で余計なことに労力や武器を使っている場合でもないですよね。

 

砂漠の狐と賞され、史上最年少の陸軍元帥にも任じられる

ビル・ハケイムはやがて独伊軍の手に落ち、この地域の要衝である港町・トブルクも同様に独伊軍へ降伏します。
これは英軍にとって大きな痛手となり、チャーチルも問責決議案を出されるほどでした。

ちょび髭はこの戦果に感動し、ロンメルを史上最年少の陸軍元帥に任じています。
敵である連合国からも「砂漠の狐」と賞されたが、何度も煮え湯を飲まされているチャーチルは「天才的な能力を持った男だ。だからこそ奴を倒すことが最重要」と述べたとか。

しかし、この後エジプトへ侵攻すると、イギリス軍の中のインド旅団に苦しめられました。各地での劣勢により、インド本国でのイギリスの影響力は衰えはじめていたのですが、少なくともエジプト戦線では違ったようです。
また、ニュージーランド師団も激しく抵抗しています。腐っても大英帝国といったところですかね。

また、再び独伊軍への補給が英軍に空と海から妨害されるようになったり、暗号解読でも後れを取ったりと、ロンメルの力ではどうにもならないところで差がつき始めました。
さらに、この頃からロンメルは体調を崩しがちになりました。これも暗号解読によってイギリス軍にバレており、少なからず戦況に影響したと思われます。

それを予期してか、イギリス軍が補給を完了する前に決着をつけなければならないと考えたロンメルは、再び侵攻を開始しました。
しかし、地雷が予想より多かったことや砲火の激しさ、空襲によってなかなか思うように進まず、優秀な部下が次々と離脱してしまい、さすがのロンメルも動揺します。
参謀長の「今この作戦をやめたら、多くの兵の死が無駄になります」という諫言で無闇な作戦中止はとりやめたものの、その後も戦況打開はできませんでした。

病気のためか、ロンメルの能力や精神状態に限界が近づきつつあったのです。

 

追い込まれ怒鳴り散らすちょび髭にショックを受け

英軍も多くの戦車を失うなど、損害はありました。しかし「砂漠の狐を追い返した」という点はその士気を大いに回復させます。

一方ロンメルは、自分の状態を自覚したのか、病気療養のため一時ドイツに戻ることを決めます。もちろん後のことも考えており、部下が戦線を保てるよう、自軍の正面に44万個もの地雷を埋めさせました。
しかしロンメルの体調が回復しきる前にイギリス軍の再攻勢が始まった上、代わりに指揮を任せていた部下が亡くなり、ロンメルは一ヶ月もせずに北アフリカへ戻らなければならなくなってしまいます。

病身を押して戻ったものの、北アフリカの戦線維持は既に厳しい状況。現場の状況を理解していない、ちょび髭の命令は「絶対死守」で、独伊軍の被害は広がるばかりです。合わせて3万人近くの死者・行方不明者を出す惨敗となりました。

この頃になるとどこの戦線でもドイツ軍の不利になっており、ちょび髭はどの部下にもヒステリックな罵声を頻繁に浴びせるのが日常茶飯事でした。
しかし、ロンメルは今まで褒められたことしかなかったので、かなりのショックを受けたといいます。優秀な人が挫折するとぽっきり行くもんですよね。

 

もう、どうにもならない……そして使者が持ってきた毒を……

うまくいかない戦況、提案をまるで飲まない上司、使えない友軍、勢いを増す敵軍……。
にっちもさっちもいかない状況で、ロンメルは心身ともに疲れ果ててしまいました。無能な上司が有能な部下を潰す典型例ですね。

運良く(?)ロンメルは完全にぼろぼろになる前にベルリンに呼び戻され、しばらく療養の後に西方軍に転属となりました。
北アフリカ戦線での経験上、「米英軍は制空権を掌握してから攻撃してくるだろう」と考え、上陸時に水際で迎撃する作戦を立案していたのです。

しかし、西方軍の総司令官ルントシュテットは、航空戦力の脅威を認識しておらず、「わざと上陸させてから機甲師団で叩くほうがいい」と主張しました。
上の意見がこれでは部隊がまとまるわけもなく、緊張した状態で時が流れていきます。

そして1944年6月6日。
フランスでノルマンディー上陸作戦が展開され、状況は一気に変わることになります。

この時ロンメルは妻の誕生日のためにベルリンで休暇を取っており、戦線には不在でした。
しかもルントシュテットは相変わらず制空権の重要さを理解していなかったので、ドイツ軍は有効な反撃ができなかったとされます。もしもロンメルの作戦が容れられていたら、ノルマンディー上陸作戦は今日伝わっているほどの成功にはならなかったかもしれません。
まあ、このときの連合軍側もアレなエピソードはあるんですけども。

ロンメル自身は上陸作戦の約一ヶ月後に機銃掃射によって負傷し、入院しています。
その直後、何度めかのちょび髭暗殺未遂事件が発生し、実行犯の一人が自決しようとしたときにロンメルの名をつぶやいたため、同時に関与を疑われてしまう始末です。
ロンメルはまだ自宅療養中でしたが、「反逆罪で裁かれるか、自決するか」を選ばされることになります。

裁判になってもどうせ死刑になる上、その場合、家族も危なくなることが目に見えていました。
もう、どうにもならない……。
覚悟を決めたロンメルは、使者が持ってきた毒薬で自決を選び、この日に亡くなります。

ロンメルの死は戦傷によるものと発表され、「英雄」として盛大な葬儀が営まれました。実際に負傷のためドイツへ戻ってきたわけですから、極めて自然な理由に見えたでしょう。
しかし、英雄の国葬としたわりに、ちょび髭は参列していません。後ろめたさがバリバリです。

このタイミングで自ら優秀な人材を殺してしまったことや、指揮官同士のいざこざを解決できなかったあたりに、やはりちょび髭のアレっぷりが見えますね。
まあ、他正面作戦をやった時点で十二分なのですが。マイナスの方向に。

長月 七紀・記

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参考:エルヴィン・ロンメル/wikipediaより引用

 





1位長篠の戦い 注目すべきは…


わろてんか伊能栞
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小林一三とは?


2位 西郷隆盛49年の生涯!


3位 史実の真田幸村とは?


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
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黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
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◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
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わろてんか あらすじ&感想レビュー

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