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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

大正三美人と称された才色兼備の九条武子 西本願寺生まれのお嬢様が辿った道は……

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歴史は勝者のものであり、身分の高い人たちのものでもあります。
しかし、近代社会になって身分制度の差が弱まると、高貴な生まれの人でも「何をどう考えてこうしたのかサッパリわからん(´・ω・`)」ということがままあります。
それがプライベート性の高い点ならなおさら。本日はそんな感じの、とある貴婦人の生涯をお話しましょう。

明治二十年(1887年)10月20日は、九条武子が誕生した日です。

といってもこれは結婚した後の姓で、彼女の生まれは大谷家でした。あの西本願寺の法主を代々務めてきた家柄です。
お寺で「お嬢様」というのも何だか違和感がありますが、良い生まれ育ちであることは間違いないですね。

九条武子/wikipediaより引用

九条武子/wikipediaより引用

 

美貌と賢さを併せ持ち、京都女子大学も設立

幼い頃から仏の教えを間近に聞いて育ったであろう武子は、美貌と賢さを併せ持つ女性になりました。
義理の姉(兄嫁)とともに仏教婦人会を創設したり、京都女子専門学校(現在の京都女子学園・京都女子大学)を設立したりしています。
その頃、女性の高等教育機関はキリスト教関係のものが多かったため、西本願寺出身の武子としては「仏教に基づいた女子教育が必要」と考えていたようです。

また、歌人の佐佐木信綱に和歌を学び、自分の詩集も出していました。
美貌のほうも「大正三美人」とまで呼ばれるほどでしたので、文字通りの才色兼備というやつです。

それだけに婿選びは慎重に行われたらしく、明治四十二年(1909年)に九条家の良致と結婚しています。武子はこのとき22歳ですから、当時としてはやや遅めの結婚ですね。
良致は貞明皇后(大正天皇の皇后)の異母弟でもあり、皇室を除けばこれ以上ないほどの家柄と言っても過言ではありません。

 

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渡英した夫はそのままロンドンに10年滞在する

しかし、新婚三ヶ月後に夫が突如「ヨーロッパで天文学を学びたい」と言い出し、ケンブリッジ大学に通うこになったため、武子も共に渡英することになります。
一応ロンドン郊外で同居はしていたそうなのですが、義理の姉と共に地中海周辺を旅行していたり、武子だけ先に帰ってきたりと、なんだか怪しげな感じです。

さらに、良致はよほどイギリスが気に入ったらしく、そのまま10年も滞在。武子はほぼ8年間夫に放置されてしまうのです。
現代だったら真っ先にゴシップ誌のネタにされたり、性格の不一致等々で離婚になるでしょうね。

周りから離婚を勧められてもおかしくないところですが、武子はそのつもりがなかったらしく、夫の帰国を待っていました。その間の和歌には、今か今かと夫を待っている節がうかがえるものが複数あります。
一方、良致からの手紙は8年間でたった二通だったとか……百歩譲って「本当はもっと出していたが、郵便事故で届かなかった」と考えても少なすぎますよね。

といっても、前述の学校設立に取り掛かったのが良致の不在中のことなので、仕事が慰めになったかもしれません。
あるいは、下田歌子(過去記事:昭憲皇太后にも愛された下田歌子 「提灯袴にブーツ」姿も考案した女子教育の先駆者とは? )のように、直接ヨーロッパの女性たちを見て、「日本の女性もこのようにしっかりした教育を受けたほうがいいのでは」と考え、夫と相談の上で先に帰国した可能性もありますね。
こちらのほうが辻褄が合う感じはしますし、少なくとも不幸な人がいないことになるので、そうであってほしいところです。

 

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関東大震災で救済事業に取り組んだ5年後……

良致が帰国したのは、大正九年(1920年)の年末でした。
ちょうど同じ年に武子が創立に関わった京都女子学園が開設されていましたが、夫の帰国後は武子も東京に来て、築地本願寺の付近で一緒に暮らしていたといいます。
このため、武子と良致の夫婦仲については「渡英前から険悪だった」「武子には他に好きな人がいた・離婚したがっていた」「良致はイギリス滞在中に浮気し、子供も作っていた」などなど、さまざまな説があります。
当人たちによる否定や肯定が残っていないのが、また判断に困るところです。

ただ、武子は自らも関東大震災で被災しながらも、築地本願寺の再建や負傷者及び孤児の救済事業に取り組んでいますので、深い慈愛の心を持った人であったことは間違いありません。
そういう人が、自分の夫にだけ冷たい……というのは、なかなか想像しにくいですよね。だからこそ、というパターンもありますが。

しかし、その慈愛が彼女の寿命を縮めてしまったのかもしれません。
関東大震災から五年経った昭和三年(1928年)に、敗血症で亡くなってしまったのです。まだ42歳でした。

敗血症は傷口からの細菌感染によって発症する病気でもありますが、免疫力が落ちているときには、自分の体内にいる常在菌からも起こることがあるそうです。
おそらく、武子は過労がたたって発症してしまったのでしょうね……。

 

結婚には当事者同士が理解し合うことが一番必要

幸せだったのかどうか、外から見てもわかりにくい武子ですが、本人は一体どう思っていたのでしょう。

その手がかりになる……かもしれないのが、晩年に書いた知人の娘の結婚相手について、相談を受けたときの手紙です。

この中で彼女は
「結婚には当事者同士が理解し合うことが一番必要だと思います。債券じゃないのですから」(意訳)
と書いています。

果たして武子と良致は理解し合った上で別居を乗り越えたのか、理解したからこそ気持ちが冷めきっていたのか……どっちでしょう。
行間を読めば良くも悪くも取れるだけに、真意が気になるものです。冷静に考えていたことは間違いなさそうですけども。

長月 七紀・記

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参考:九条武子/wikipedia

 





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