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武田・上杉家 その日、歴史が動いた 北条家

北条、上杉、佐竹と戦い続けた小田氏治とは? 本拠地を何度奪われても諦めなかった男

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世の中には努力して得られるものもたくさんありますが、やはり持って生まれたものの影響って大きいですよね。
血筋や教育環境だったり、性格的な魅力だったり。
持っていない人からすると何ともうらやましいものですが、今回はそういう「持って生まれた何か」によって、戦国時代を生き抜いた大名のお話。

慶長六年閏11月13日(1602年)11月13日は、常陸=茨城県の戦国大名・小田(おだ)氏治が亡くなった日です。
知る人ぞ知る人気武将というか、何度でも蘇った大名として、巷では密かに人気があります。
何でかというと、負けても負けても復活するからです。
一体どんな人だったのでしょうか。

 

当サイトで実験しました

おだはおだでも「織田」じゃない

氏治は、天文三年年(1534年)、または享禄四年(1531年)生まれといわれています。織田信長と同世代ですね。同じ「おだ」でもだいぶ違う生涯ですが。

小田家は宇都宮氏一門・八田家から分かれた家ですので、本姓は藤原氏ということになります。
氏治は血筋上、室町幕府12代将軍・義晴の従弟でもあり、かなりの名門。戦国大名の前例に倣うかのようにして、氏治も10代半ばで父の死により家督を相続しました。

時折しも、関東では河越夜戦(過去記事:信玄・謙信に並ぶ名将・北条氏康 日本3大奇襲「河越夜戦」で劇的勝利を収める)があり、父の代で負け方についていたため、小田家自体の勢力が弱まっていた時期です。
そこで氏治はかつての勢いを取り戻すべく、周辺の大名と戦っていくことになります。

当初、一番の敵は結城家でした。小田家から結城家へ寝返った家臣もいて、緊張状態も続いています。
そして結城家は後北条家とも助力を得て、勢いを増していたため、小田家にとっては危機が増すばかりでした。

これに対し、氏治は佐竹家と手を結び、結城家と戦うことを決めます。
しかし、結城・後北条軍のほうが上手で、領内の城だけでなく、本拠の小田城まで奪われてしまいます。

 

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まるでフェニックス! 北条に負けても上杉に攻められても……

普通ならここで大名として滅亡まっしぐらの場面です。しかし氏治は負けません。まずは土浦城に入って再起を図ります。
運良く後北条家が「佐竹と本腰入れて戦いたいから、小田とは和解するわ」(意訳)と言い出して兵を引いたため、氏治は結城軍を追い払い、小田城を取り戻すことに成功したのです。
氏治はこんな感じのことを何回か繰り返しています。そこで現代の誰かが「不死鳥のようだ」と評し、じわじわと人気が高まったというわけですね。

また氏治は、上杉謙信の小田原攻めにも参加したことがあります。
しかし、氏治は途中で後北条方に寝返り、そのために上杉家との戦いを招いてしまいました。そして彼らとの戦いでも本拠を奪われておりますが、謙信に「城の修理はしませんので、降伏させてください」と詫びを入れて許されています。
不思議なのは、こんだけ負け続きでも領民や家臣からの人望が厚かったことでしょうか。佐竹義昭が謙信宛ての手紙の中で「小田家は最近アレだけど、鎌倉以来の名家でもあるし、氏治も優れた武将だ。良い家臣も多い」と評しているほどです。

上杉鷹山が農民の手伝いを自らした”というような具体的エピソードは残っていないので、何か目立つことをして人に感謝されたのではなく、日頃の言動で家臣や領民の信頼を得ていたのでしょう。
もしくは氏治は「この殿様を放っておいたら心配だ。私らが守って差し上げなければ」というような、庇護欲をそそるタイプだったのかもしれません。領内総モンペとか何それこわい。

 

野戦はソコソコ戦えたけど、結局は城で倍返しだ!(食らう方)

とはいえ、氏治も野戦ではたびたび勝利しています。結局は城攻めが苦手すぎて倍返しをくらうことが多かったようです。
でも自分の城が取られたときに奪い返すのは得意、というよくわからん人ではあります。まあ、自分のシマならぬ城なら攻めやすいところがわかる→だから勝てる、というのは納得できますね。

秀吉だって、大坂城について「この城を落とすには、堀を全部埋めるか、長期間に渡って兵糧攻めをするしかない」と言っていたとかいないとか……という逸話がありますし。ついでに、家康がそれを聞いて大坂の役で実行したとかなんとか。

氏治が家臣や領民に慕われたのも、「ウチの殿様は絶対に最後は勝って帰ってきてくれるんだから」と思っていたのかもしれませんね。

次に佐竹家との戦いを始めて戦線が拡大すると、さすがに独力だけでは奪われた城を取り戻すことが難しくなりました。
しかし、そのときも諦めずに本拠地・小田城を取り戻します。後北条家に仕えていた庶子の友治が「父を助けてもらえませんか」を懇願し、そしてこのタイミングで後北条家が小田家に味方したばかりか、千葉氏・相馬氏・江戸氏といった近隣大名の助けも得て、再び本拠の小田城を取り戻すことができたのです。
「仲間に助けられて強大な敵に勝った」というと、少年漫画の主人公のようですね。

 

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娘が側室となっていた結城秀康の客分として

氏治は天正八年(1580年)には出家して「天庵」と名乗るようになっていたのですが、佐竹との戦は続けています。いったい仏門とは……。
しかし、決着がつかないうちに秀吉の小田原攻めが始まってしまいました。しかも佐竹家は秀吉に臣従することを表明していたため、その佐竹家と戦った小田家は「謀反を起こした」として、領地を全て没収されてしまうことになります。

小田原攻めが終わった後、氏治は奥州へ向かった秀吉を追いかけ、会津で謝罪して命は許されましたが、大名には戻れませんでした。
その後は、娘が側室として嫁いでいた結城秀康の客分として晩年を過ごしています。秀康の義父・晴朝がかつて氏治と戦っていた事を考えると、数奇な運命ですね。

秀康が越前に転封された後も、氏治は嫡男・守治、庶子・友治とともについていきました。そのまま結城家で暮らしていたらしく、氏治が亡くなったとき、一度は越前で葬られています。その後、常陸の新善光寺に改葬されたそうです。同名のお寺が二ヶ所あり、片方は既に廃寺になってしまっているので、どちらにあるのかはっきりわからないのですが……。

氏治の経歴からすると、神式で葬られていたら、今頃浪人生や転職活動中の人から厚く信仰されていたかもしれませんね。

小田城の建造物は残っていませんが、近年堀などが整備されていて、縄張りの雰囲気はうかがうことができます。
また、近隣には元小田家臣の太塚家が帰農した後に住んでいた家が残っています。結構立派な建物です。
車でないと行きにくい立地ではありますが、続けて訪問して、小田家の在りし日の姿を感じるのもいいかもしれませんね。

長月 七紀・記
【関連記事】
◆不憫すぎる天下人の息子・結城秀康 ブサメンだから父の徳川家康に嫌われたってマジ?

参考:小田氏治/Wikipedia




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