日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

イラスト:富永商太

スポンサーリンク

織田家 その日、歴史が動いた

伊勢の名門・北畠を謀略で乗っ取れ! 戦ばかりではない織田信長の版図拡大戦略

更新日:

「戦国大名」というと、いかにも常に戦をしていそうな気がしますよね。
しかし、常に力尽くの戦いばかりをしていたわけではない人のほうが多数派です。戦をすれば大なり小なり人的・物的な損耗は出ますから、合戦ばかりに没頭していると、いわば赤字になってしまうわけです。
それを防ぐために、いろいろな工夫が必要になってきます。
諜略をしかけたり、政略結婚を持ちかけてみたり、あるいは同盟を持ちかけたり……いずれも、「いかにコストを下げて、敵の脅威を減らすか」「どうやって自分の家を優位にするか」という視点で行われるものです。
あの乱暴なイメージがある戦国大名も、戦だけでなくいろいろな手段を使って勢力を拡大していました。
本日は一つについてのお話です。

天正四年(1576年)11月25日は、三瀬(みせ)の変で北畠具教(とものり)らが殺害された日です。

戦国時代ということを考えても物騒な話ですが、どのような経緯でこうなったのでしょうか。
まずは「北畠家ってどんな家?」というところからいきましょう。

武将

 

ピンチに陥った信長に巻き込まれるワケにはいかない

北畠家とは、伊勢(現・三重県)の大名です。
村上源氏の流れをくみ、南北朝時代には南朝方で後醍醐天皇を助けたという勤王の家でもありました。
「神皇正統記」を書いたのも、北畠親房というこの家の人です。この頃から伊勢の国司(県知事みたいなもの)に任じられ、地元では尊ばれる家となりました。

そんなわけで、室町幕府とは一悶着あったのですが、応仁の乱では京から逃げてきた足利義視(義政の弟)を保護したことがあります。京都に行って戦うことこそありませんでしたが、義理堅いというか、尾を引きずらないというか。

戦国時代には、領土拡大を狙う織田信長とたびたび戦をし、信長の次男・信雄を婿養子に迎えるという条件で講和していました。当主の具房(ともふさ)には男子がいなかったので、家を残すためであれば、悪くはありません。

しかし、この時期の織田家は後世でいうところの“第三次信長包囲網”が敷かれていました。
つまり、北畠家から見れば「もうすぐ滅びるかもしれない家と縁ができたところで、こっちもまとめてやられかねない」わけです。そうでなくても、婿養子を迎えるというのは、よほど妻側が力を持っていない限り、婿側の家に家を乗っ取られる危険があります。

そんなわけで、具房の父である具教は、いつまで経っても信雄に実権を渡さずゴネていました。

 

スポンサーリンク

緊張状態の中で軍事拠点を作るということは

いざ婿に迎えて何もさせなければ、当然、信長の印象が悪くなります。
そうした中で、具教が「よーし、パパ隠居するために新しく城造っちゃうぞ☆」(超訳)と言い出し、工事も始めてしまったので、信長としても放置できなくなりました。
この状況下で城を建てる=軍事拠点を作る=ケンカを売るも同然です。ただの隠居所であれば、適当な土地を選んで、ちょっと良い屋敷を作ればいいのですから。

これにより「あの野郎、まだワシとやりあう気か? そっちがその気なら先に殺ってやんよ!」(超訳)と判断した信長は、具教一派を始末することに決めます。
とはいえ、この頃の信長は長島一向一揆(1574年)で親族を含む多くの将兵を失っており、また長篠の戦い(1575年)で鉄砲を大量に用意していたため、いろいろな意味で良い状態とはいえませんでした。
つまり、戦で北畠家を叩き潰すのは下策ということになります。

そこで信長は、もっとコストの少ない方法を選びます。具教の元家臣たちに「ちょっと前の主君ブッコロしてこい」(超訳)と命じたのです。
彼らは饗応と偽って具教を誘き出し、織田家に好意的でない親族らもまとめて討ち果たしています。手際の良さがこわい。

 

スポンサーリンク

具房は太り過ぎていたために助かった!?

その結果、北畠家で生き残ったのはほんの僅かでした。意外なことに、信雄の義父となった具房は助かっています。
「大腹御所」「太り御所」と罵倒されるほどの超肥満体だったため、脅威とみなされなかったのかもしれません。滝川一益の元で三年間幽閉されるだけで済んでいます。
殺されなかっただけマシかもしれませんが、体型のおかげで助かるというのも……(´・ω・`)

また、具房の娘は信雄の元で育ち、信雄の息子の家臣に嫁いだといわれています。
信長が北畠家の血を完全に絶やすつもりであれば、この娘も殺すか、尼寺に入れるかしていたでしょうね。もしくは信雄の妾にしていてもおかしくありません。
そうしなかったのは、「女系でなら血を残してやる(からありがたく思え)」という意味合いでしょうか。
まさか、ただ単に信長が女性に甘いからというだけではない……はずです。

信長の三男・織田信孝も押しかける形で神戸家に婿養子入りし、義父・具盛を追い出すようにして家督を継いでいますが、具盛も殺されはしませんでした。

ともすれば苛烈なイメージばかりが先行してしまう織田信長。「ほんの僅かでも使える見込みがある奴は残す」という主義だった可能性は否めないんですよね。

長月 七紀・記

スポンサーリンク

参考:北畠具教/wikipedia 三瀬の変/wikipedia

 





1位長篠の戦い 注目すべきは…


わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


2位 西郷隆盛49年の生涯!


3位 史実の真田幸村とは?


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

-織田家, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.