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その日、歴史が動いた 徳川家 江戸時代

松平正容(まさかた)の側室トラブル物語 名君・保科正之の息子にしてはお粗末過ぎな顛末とは?

更新日:

 

家庭の事情は、他人にはなかなか理解し難いものです。
どんなにくだらない経緯だとしても、当人たちにとっては絶対に守らなければならないものがある……とか、ひどい目に遭わされても見捨てられない……とか、まあ種類は色々ありますね。
本日はそんな感じの、とある大名家の家族事情に関するお話です。

寛文九年(1669年)1月29日は、会津藩の三代藩主・松平正容(まさかた)が誕生した日です。

系譜としては、江戸の出来杉君こと保科正之の六男。二代藩主となった兄・正経に息子がいなかったので、兄弟の順に藩主の座が継がれたのでした。
正容の代に正之と保科氏が徳川一門であることが正式に認められ、松平の名と三つ葉葵の家紋を用いることを許されています。
彼が関わった歴史に残るような大きな出来事といえばそのくらいで、エピソードも少ないのですが……正容の家庭事情、いわゆる「奥向き」のことについては、なかなかすさまじい逸話が残っています。

松平正容は、最初の正室・竹姫と早いうちに死に別れたのか、詳しいことが伝わっていないのですが、継室以降が一言で言うと「ヤバイ」。子供の誕生なども絡むので、時系列を優先して正容の奥事情を見ていきましょう。

松平正容/Wikipediaより引用

 

寝所で懐剣を手に「私を見捨てるなら自害してやる!」

正室の竹姫が亡くなってから、正容はしばらく継室を置いていなかったようです。
会津藩の江戸藩邸で目に留まった女中に手を付けては側室にする、ということを四回ほどやっていました。
そして元禄九年(1696年)に正容の長子・正邦を産んだのが、「おもんの方」という女性でした。最初に男子を産んだのですから、この時代では「女の一番槍」ともいえる大手柄。当然権勢も自負心も強くなります。

しかし、乳幼児の死亡率が高いこの時代に、一人だけでは心もとないところです。正容や藩のお偉いさん、そして正容の母である栄寿院もそう考え、おもんの方以外の女性とも子供を作ったほうが良い、という話になるのは当然のことでした。

そしておそらく、おもんの方の次に目に留まったと思われるのが、「お祐(ゆら)の方」という女性です。
健康かつ子供ができやすい体質だったようで、五年の間に二男二女をもうけています。正容の喜びと寵愛のほどがうかがえるというものです。

このことに対し、おもんの方がある日突然ブチ切れました。正容の寝所で懐剣を手に取り、「私を見捨てるなら自害してやるんだから!!」と迫ったのです。
現代でもまず間違いなく「重すぎる上にコワい女」としか思われない行動ですが、そもそも藩主を脅す事自体が大問題ですよね。
最も心配したのは、正容のカーチャンである栄寿院でした。「おもんの方をどうにかしないと、世継ぎの前に正容や他の側室たちの身が危ない」と考え、おもんの方を会津で幽閉することが決まります。
本音を言えば成敗したかったでしょうが、長子の母を「乱行」というあいまいな理由で処刑してしまっては、いろいろと禍根になると考えられたためでしょう。もしも正邦が次の藩主になったら、「乱行で成敗された女の息子」などといわれて、民心が離れかねません。

 

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せっかく生まれた長男が天然痘で亡くなり……

一方、おもんの方の実家・榎本家では幽閉を解いてもらえるよう、藩に願い出ます。
が、事が事なのでそう簡単に聞き届けられません。親兄弟は「いっそ脱藩して、幕府の採決をお願いしよう」とまで思い詰めたそうですが、会津藩のお偉いさんにバレてもみ消されています。
榎本家の人々が事の詳細をどのくらい知っていたのかは定かではありませんが、そりゃ藩主にあんなことしたら、すぐには自由の身にはなれませんよねえ。

なんやかんやで、おもんの方は幽閉されてからも男子を産み、その子は2歳で夭折。
また、正邦も天然痘によって13歳で亡くなり、権勢の根拠となるものがなくなりました。
既に17年も経っている上、こうなると幽閉を続けても続けなくてもあまり変わりません。さらにこの間、お祐の方が産んだ正甫(まさもと)も病気がちだったため、『おもんの方の執念が正甫様に取り憑いているのでは?』と噂され、早めに幽閉を解いたほうが良かろう、ということになりました。

ですが、一度不行跡で幽閉した人間を、再び藩主の側室にするのも決まりの悪い話です。実家に帰すのも世間体が悪いということで、おもんの方は四人扶持(四人家来を雇えるだけの収入を与える、という意味)の待遇付きで、どこかの武士か浄土宗の僧侶に嫁ぐことを条件に、幽閉を解かれることになります。
無理やり現代の雰囲気に置き換えるとすると、「上司との不倫騒ぎでクビになった女性が、新しい職場と新しい旦那さんを見つけてもらい、不倫の件は不問になった」みたいな感じですかね。
そう考えれば、17年の月日の代償としては悪すぎるものでもないでしょう。

しかし、おもんの方はそうは思いませんでした。
「私は何も悪いことをしていないのに、17年も閉じ込められてひどい目にあった。きっとお家のあの辺とかその辺の奴らが殿に讒言をして、私を貶めたに違いない。絶対に復讐してやるんだから!!」
だいたいこんな感じのことを言って、決定に従おうとしなかったのです。

これには使者のほうがブチ切れました。
「殿は今までのことを不問にしてくださるとおっしゃっているのに、お礼も申し上げずに他人を罵るとは、何たる無作法ですか!!」
現代の我々からしてもぐうの音も出ませんね。
おもんの方はそこまで言われてやっと我に返り、神妙に礼を言って受け入れたのだとか。

 

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四代藩主を産んだ「お伊知の方」は家臣の家に嫁ぐ……

榎本家からは兄の永矩が「妹を引き取りたい」とやってきました。これに対し藩は「いや、他の家に嫁がせることになったから」と拒否。
こうしておもんの方は正之の母の実家・神尾家に再嫁した、のですけれども……まだ騒動は終わりません。
おもんの方はまだ不満を燻らせていたらしく、夫どころか神尾家そのものに馴染もうとせず、庭の隅に勝手に祠を作って何かを祈願していたというのです。短慮で強情なところも全く直っておらず、神尾家は困り果てて「あのヒトをお返しするか、うちで幽閉したいんですが」と藩に申し出ました。

これにはお偉いさん方も困り果てます。
一度は「もう殿とは関係ないヒトだから好きにしていい」と言ったのですが、また榎本家が騒ぎ出すかもしれない……ということで、すぐに撤回。その後も色々と揉めた上、榎本家と神尾家の間で話がまとまり、弟の時伊がおもんの方を引き取ることに決まります。最初からそうしとけばよかったんじゃ……というのは野暮ですかね。

おもんの方はそれから30年ほど生きたそうですが、実家でおとなしくしていたと思われます。
……たとえ、その間におもんの方がいう「あの辺とかその辺の奴」が嫡子を同じ年齢で亡くし、孫も早世して断絶したとか、神尾家の屋敷に新しく住むようになった人が祠の中で呪いの痕跡らしきものを見つけたとか、そんなことがあったとしても……。
ちなみに、四代藩主はおもんの方の息子でも、お祐の方の息子でもありません。
「お伊知の方」という別の側室の息子で、容貞(かたさだ)という人です。

お伊知の方も江戸藩邸で仕えていましたが、正容の国元での側室に選ばれて会津に下り、容貞を産みました。
しかし、おもんの方の騒動からか、会津藩では「お伊知の方をそのまま側室扱いのままにしておくと、また面倒が起きる」と判断され、お伊知の方を家臣に下げ渡すことが決まります。
お伊知の方はさほど身分は高くなかったと思われますが、容姿端麗で三味線の名手、という武家の側室としては申し分ない人だったので、迷惑にも程があるというものです。

こうして、会津藩物頭(足軽のグループを統率する役目)の笹原家の嫡子・忠一がお伊知の方を拝領することになりました。
お伊知の方は新しい夫や家のため、自らまめまめしく働いて、良い妻となったそうです。美人で家事を自らやってくれて、楽器も得意な奥さんとか文句のつけようがないですね。うまやらしい。
本人はもとより、忠一もその両親も安心したことでしょう。

ところが、です。話はここで終われません。

 

そこまでいうなら笹原家ごと改易してやんよ!!

容貞の異母兄たちが皆若くして亡くなり、「次の藩主は容貞!」ということが確定すると、困ったことになりました。
このままでは、「藩主の生母が家臣の妻」という構図になってしまうからです。
ただの側室であるとか、「生母の身分が低いため、本人には知らせず、父の正室の子供扱いにする」というケースならままありますけれども、この場合は極めて世間体が悪くなってしまいます。

そこで、会津藩は下げ渡したときと同様に、強引な手段に出ました。
お伊知の方を城に呼んで、そのまま「お伊知の方は突然具合が悪くなったみたいだから、しばらく城で養生してもらうことになった」ということにして、お伊知の方を取り戻してしまったのです。
源氏物語の髭黒の大将と玉鬘みたいな話(※)ですね。この手を考えついた人の中に、同エピソードのファンでもいたんでしょうか。

城では「そうはいっても、笹原家にも面子というものがある。ここは何かしら理由をつけてもらって、離縁状を出してもらえばいい」と考え、笹原家にその通り伝えます。
が、笹原家の返事は「主君から拝領した妻をむやみに離縁するのは不義にあたります。若君のためでしたら城にいさせるのは構いませんが、離縁だけは絶対にいたしません」というものでした。
普通なら忠義な部下を持って感涙するところですが、この場合は「面子」というものが争点なだけに、両者一歩も譲りません。

数ヶ月間平行線が続いた後、城方のほうがブチ切れました。
「殿の決定に逆らうとは不届き者め! そこまでいうなら笹原家ごと改易してやんよ!!」
とまぁ、決まってしまったのです。
しかもただの改易ではなく、「今後笹原家は会津に住むな!」という制限付きでした。ひでえ、ゴリ押しにも程があんだろ。

 

会津へお国入りした時、正式に父の妻として扱う

お伊知の方は「美崎の方」という新しい名前を与えられ、城の老女(エライ女中)としてお給料も出されました。
ただし、容貞には生母ということは知らされず、お祝いの席にも出られなかったといいます。
そのため、容貞が江戸に住むようになっても同行できませんでした。老女にしたなら、世話役の一人として扱えば、江戸藩邸で一緒に暮らすことくらいはできたと思うのですが……人の噂に上ることを恐れての処置でしょうか。

それでも笹原家のことは忘れず、舅の忠義が亡くなった後、姑の暮らし向きが立つよう藩に願い出ていたりします。
そしてその願いが叶えられた半年後に、お伊知の方も亡くなりました。忠義の五回忌にあたる日だったため、自ら命を絶ったのではないか……ともいわれています。

忠一のほうは幽閉の身のままで生涯を終えました。
きっかけはどうあれ、できた妻を持って幸せだったはずなのに……(`;ω;´)

父母の喪に服すことは、当時の社会常識として欠かしてはならないことです。
そのため、お伊知の方の死を容貞に知らせなければなりません。ずいぶん議論をした末に、お伊知の方のことが容貞に伝えられました。

容貞からしたら、突然本当のカーチャンの顔と名前を知らされたと思ったら「この前亡くなりました」と言われたわけです。ひどいってレベルじゃねー!

ずっと離れて暮らしていたのですから、顔をきちんと見たことがあったかどうかもあやしいですし……。もしかしたら、容貞は「生みの母は身分の低い人だ」ということを薄々悟っていたか、聞かされていたかもしれません。

彼は会津へお国入りした時、お伊知の方のお墓参りをし、正式に父の妻として扱うようにさせているのです。
草葉の陰で、お伊知の方は喜んでいたでしょうね。

しかし、名君の代名詞といっても過言ではない正之の息子の代で、このようなトラブルが続いていた……というのはなかなか意外なことですね。
正之も、十五箇条も家訓を残すくらいなら、一条くらい跡継ぎや奥向きのことを書けばよかったんじゃないでしょうか。
「女の言うことは一切聞くな」って書いてるくらいですから、そもそも考えなかったんですかね。
そこが、彼の唯一の欠点だったのかもしれません。

長月 七紀・記

※玉鬘は光源氏の養女。結婚するか宮仕えするか迷っていた時期に、髭黒の大将が女房(女官)の手引で玉鬘の部屋へ強引に押し入り、事実婚をしてしまった。
玉鬘が落ち込んでいるのを見て、髭黒の大将は一日だけ宮廷への出仕を許すが、その帰り道で、玉鬘を強引に自分の家へ連れ帰ってしまう。
そのときの光源氏への言い訳が「玉鬘は突然具合が悪くなったので、私の屋敷で預かります」というもの。嘘乙。
夫が妻を家に引き取ること自体はおかしくないため、光源氏もゴネることができなかった。

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参考:松平正容/Wikipedia 栄光院_(松平正容継室)/Wikipedia 本妙院_(松平正容側室)/Wikipedia 智現院/Wikipedia

 





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