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女性 武田・上杉家 その日、歴史が動いた

菊姫とは? 武田信玄の娘にして上杉景勝の妻であった夫人の賢い生き方

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戦国大名にとって妻とは、様々な意味で重要なパートナーです。
跡継ぎをもうけることはもちろん、家中の取り仕切りや、他家の妻女とのお付き合いなど、特に正室には多くの仕事がありました。一番大きな仕事はやはり子供を産むことなので、それ以外のことについてはなかなか記録が残りませんけれども。
本日はそういった役目もこなしていた、とある大名の正室のお話です。

慶長九年(1604)2月16日は、上杉景勝の正室・菊姫が亡くなった日です。

そもそも景勝にスポットが当たることが少ないので、菊姫が戦国もののドラマや映画に出てくることも少なめですよね。
大河ドラマ「天地人」で比嘉愛未さんが熱演していらっしゃいましたので、そのイメージを持っている方もおられるでしょうか。

上杉景勝/wikipediaより引用

 

後北条氏を敵に回し、上杉との関係強化に努めた結果

菊姫は、永禄元年(1558年)に、武田信玄の五女として生まれました。
母は側室の油川夫人で、仁科盛信、葛山信貞、そして織田信忠の正室・松姫とは同腹のきょうだいです。

この時代の女性によくあることで、菊姫の幼少期のことはよくわかっていません。彼女の名が歴史に登場するのは、武田家が外交方針を大きく変えなければならなくなったからです。
そのきっかけは、長篠の戦いでの大敗でした。
優秀な武将や兵を多く失った武田は、外交で戦を避けることも視野に入れなければならず、上杉家の後継者争いである御館の乱が起きたとき、勝頼は景勝の要請に応じることに決めました。
実はその前に武田家は、同盟相手の後北条家から「景虎はウチから養子に行った人だから、お宅も景虎方についてちょ」(超訳)と言われていたにもかかわらず、です。
つまり、後北条家との約束を破って、景勝についたことになります。

当然、武田家は後北条家と敵対関係になりました。
ここで景勝との関係を強めるため、武田家から嫁いだのが菊姫です。

信玄・謙信の時代には何度も争っていながら不思議なものですが、当の信玄が「わしが死んだら上杉家を頼れ」と言い残していたからだと思われます。
この言い伝えが真実ならば、この二人はホントに「強敵と書いて”とも”と読む」みたいな関係ですよね。両家の戦で亡くなった将兵からすると「……えっ?」という感じかもしれませんが。

 

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後北条氏の小田原征伐が終わると、菊姫は京都へ

菊姫は質素倹約をモットーとする賢夫人として、景勝だけでなく上杉家にすぐ受け入れられたようです。
才色兼備を謳われていることからして、容姿も優れていたのでしょうね。

皆さんご存じの通り、武田家は織田信長により滅ぼされましたが、景勝はその後も菊姫を正室として扱い続けました。
その割に子供はいませんが、これは信長の存命中に武田家の血を引く男子が生まれてしまうと、武田家旧臣に担ぎ上げられるおそれがあったからではないでしょうか。
御館の乱で疲弊した上杉家としては、あまり好ましくない事態ですしね。

やがて秀吉の世になり、上杉家もその傘下に入ります。
小田原征伐以降、諸大名の妻は3年間京で暮らすよう命じられ、これ以降、菊姫はずっと京で暮らすことに。
京では他の大名や公家の女性たちと手紙や贈り物のやり取りをし、家同士の交流に努めています。派手な逸話こそないものの、地道に大名の妻としての勤めを果たしていたということでしょう。
また、兄・勝頼を手厚く弔ってくれた妙心寺に深く帰依していたそうです。

 

直江兼続の妻・お船の方とも仲がよく?

途中からは伏見に移り、景勝の片腕である直江兼続の正室・お船の方もよく菊姫を支えたといわれています。この人も女傑として有名ですね。
関が原の戦いで上杉家が大幅減封になった後も伏見にいたのですが、慶長八年(1603年)冬から病気になり、半年もせずに亡くなりました。
享年46なので、当時としては若すぎるというほどでもありませんが、病の進行が早いような……。どんな病気だったんでしょうね。

菊姫が病になるより数ヶ月前に豊臣秀頼千姫の婚儀が行われており、景勝はその頃から翌年8月まで伏見の上杉屋敷にいたため、菊姫を間近で看取ることになったと思われます。

上杉家の記録である「上杉家御年譜」には、菊姫が亡くなったとき景勝を始め家中一同「悲歎限りなし」という様子だったと記されており、彼女の人徳が伺えます。
また、菊姫の弟で上杉家に身を寄せていた武田信清が、姉の看病のため急いで上洛したことや、景勝が寺社へ祈願を立てたり、名医を招いたことも書かれています。

ちなみに、景勝は菊姫の死から数カ月後に、側室(継室扱いになっていることもある)四辻氏も産褥で亡くしています。このとき生まれたのが二代目米沢藩主・定勝。
景勝は元々感情を表に出すことが少なかったため、はっきりした記録はありませんが、正室と側室を立て続けに失って、相当ショックを受けたでしょうね……。

菊姫の法名は「大儀院殿梅岩周香大姉」といいます。
「周」の字には「隅々まで行き渡る」、「香」には「美しい色艶」という意味があるため、「家中の隅々までよく気遣う、才色兼備の正室」といったイメージが浮かび上がってきますね。

「男色が過ぎて、菊姫との間に子供ができなかった」という俗説がある景勝ですが、この戒名や記録から見る限り、少なくとも菊姫との関係は悪くなかったはずです。
手紙の一つでも見つかれば、また印象が変わってくるのでしょうけれども。今後に期待したいところです。

長月 七紀・記




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参考:菊姫_(上杉景勝正室)/wikipedia 武田信清/wikipedia 米沢武田家/wikipedia

 





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