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その日、歴史が動いた アジア・中東

生涯65年のうち30年もの長旅を続けたイブン・バットゥータ

更新日:

 

予定外の事態、というのはままある話ですが、それにしたって限度があるものです。
自分でどうにもならない大きな話ならともかく、そのときそのときの気分で行動して自滅するのは……(巨大ブーメラン)
しかし、それでも何とかうまくいってしまう人もいるのですから、運やら神仏の加護やらを信じたくなってしまいますね。本日はおそらくそういうものに恵まれていたと思われる、とあるムスリムのお話です。

1304年(日本では鎌倉時代・嘉元二年)2月25日は、イスラム圏の旅行者イブン・バットゥータが誕生した日です。

ただの旅行者であれば、彼が歴史に名を残すことはなかったでしょう。彼の場合、旅の長さがハンパじゃありません。
65年の生涯のうち、約30年も旅をしているのです。
世界史で長期間・長距離の旅をした人というと、他には玄奘三蔵法師がいますが、彼でさえインドまでの往復で16年。バットゥータの旅の長さがうかがえますね。
しかもそんな長旅に出た理由が「聖地に行きたかったから」というシンプル過ぎるものです。ついでに言うと、これだけの長さなので、聖地とも全く関係ない場所にも行っていました。
それでは、いろいろとツッコミどころの多い彼の旅程を見ていきましょう。

イブン・バットゥータ/wikipediaより引用

 

21歳のときにメッカを目指して始まった

バットゥータが生まれたのは、現在のモロッコ・タンジェでした。アフリカのイスラム圏では西端とも呼べる地域です。
父親はイスラム法学者だったようなのですが、そもそもバットゥータについての記録が彼自身の書いたものしかないので、ハッキリしたことはわかりません。
若い頃は父に倣って学問に励み、21歳のときメッカを目指して旅立ちました。当時は16ヶ月=1年4ヶ月で往復できるはずでしたが、実際には24年もの長旅になっています。

チュニスやアレクサンドリア、カイロといった大きな町に立ち寄りながら、ときには反政府組織の妨害にあって大回りをしつつ、バットゥータは東へ向かいます。
遠回りしたおかげで、エルサレムやベツレヘムなど、より多くの聖地を通ることもできました。ベツレヘムはキリストが生まれたとされている場所で、イスラム教でも聖地の一つとみなされています。イスラム教ではキリストは預言者の一人だからでしょうか。
現在のベツレヘムでは毎年5月5~6日と8月2日に、キリスト教徒とムスリムが一緒に祝う行事があるそうですよ。そういう動きが世界的に広まればよいのですが……。
ちなみに当時のエルサレムやベツレヘムを領していたマムルーク朝は、巡礼者のために街道の治安維持に力を入れていました。人の流れ=お金の流れですから、外貨を稼ぐ手段でもあったでしょうね。

バットゥータは現在のシリア・ダマスカスでラマダンを過ごし、キャラバンに同行してメディナへ向かいました。ここもイスラム教の聖地として有名ですね。
メディナからメッカまでは、現在の道路で500km弱。これまでの道程を思えば、あとほんの少しです。バットゥータも初めての聖地巡礼達成を目の前にして、期待と興奮に胸を躍らせていたことでしょう。

メッカにはスムーズにたどり着き、無事に巡礼を終えたバットゥータでしたが、キャラバンに参加したことで、何か思うところがあったようです。
タンジェへの帰路ではなく、何故かモンゴル帝国を目指して旅を続けました。それもまっすぐ向かうのではなく、昔のカリフのお墓やイラク・バスラなどを経由しています。
マムルーク朝はバグダード包囲戦でモンゴル帝国と戦っているので、バットゥータもその話を聞いて「こんな立派な国と渡り合ったモンゴル帝国は、一体どんなところなんだろう」とか思ったのかもしれませんね。おそらく他の街に行ったときにも、モンゴルとの戦争の爪痕を見たことがあったでしょう。

 

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インドを目指しながら、なぜかクリミア半島へ

しかしながら、まっすぐモンゴルへは行っていません。
中東方面やトルコを巡った後、二回目のメッカ巡礼をし、アラビア半島南端の港町・アデンからソマリアへ向かう船に載っています。そこからソマリア南部のモガディシュへ向かいました。
ここは当時から交易の中継地点として非常に栄えていて、バットゥータも「極めて巨大な都市」と書き残しています。
残念ながら、現在ではソマリア内戦などのために非常に危険な町になってしまっていますが……。
こういった長い歴史を持つ町が荒れてしまうのは哀しいものです。

そのまま東アフリカの海岸(スワヒリ海岸)を船で南下し、ムスリムの国をいくつか訪れました。
現在のタンザニア領・キルワを「ここは最も美しく設計された町の一つ」と評しており、「ここのスルタンは謙虚で敬虔な人物である」と好意的に書いています。

その後、三回目のメッカ巡礼をしてから働く気になったらしいのですが、なぜかインドでの就職を決め、またしても旅立ちました。どうして地元やマムルーク朝で働く気にならないのかが不思議でなりません。「ちょっとでも面白そうなところで働きたい」ってことだったんですかね。
しかもまっすぐインドに向かうのではなく、わざわざ遠回りをしてトルコ方面のあっちこっちに行っています。ワケガワカラナイヨ!
まさか、ただ単に道に迷ってただけ……なんてことはないと思うのですが。どういうことなの(´・ω・`)

その後はインドに行く気が失せたらしく、クリミア半島へ向かっています。
現在はウクライナ領ですが、当時はジョチ・ウルスというモンゴル系の国の領土でした。おそらくは何らかのきっかけがあって、「やっぱりモンゴルに行こう」と考え直したのでしょうが、そのあたりを詳しく書いておいてほしかったものです。

 

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インドの次は中国! ただしモルディブにもお立ち寄り

一方で、バットゥータは「この地の夜は非常に短い」とも書いています。これは緯度の関係でそのように感じたということでしょうね。
また、「闇の地」という地域についての記述を残しています。「厚く雪で覆われている」「移動手段が犬ぞり」「南方の人々と交易を行っている」といった特徴から、おそらくシベリア北部のことだろうとみなされています。
いかにも神秘的な場所で好奇心をそそりそうですが、バットゥータは「俺、商人じゃないしなー」(※イメージです)という理由で、「闇の地」へ行かずに旅を続けています。
正直、この人のツボというか行動基準がよくわかりません(´・ω・`)

しかも、その後クリミアよりも西のアストラハン(現・ロシア)やコンスタンティノープルに行っています。真逆にも程があるやろ。
アストラハンの王様の后が東ローマ帝国の出身で、お産を控えていたため帰郷することになり、その一行に加えてもらったということらしいのです。よく潜り込めたものですね。
バットゥータにとってこれは、初めてのキリスト教圏訪問にもなりました。コンスタンティノープルはこの後オスマン帝国=イスラム圏になりますが、当時は東ローマ帝国=ギリシア正教ですからね。
当時キリスト教の教会だったアヤソフィアを訪れ、司祭にエルサレムの話をしたこともあったとか。バットゥータ自身がムスリムだということを明かしたかどうかはわかりませんが、古い時代でも、個人レベルなら異教徒同士の交流もあったのかもしれませんね。

一ヶ月ほどコンスタンティノープルに滞在した後は、中央アジア方面を通ってアフガニスタンを経由し、(やっと)インドへ行っています。
当時北インドはトゥグルク朝というイスラム王朝が納めており、豊かな国を作り上げていました。当時の王様(スルタン)であるムハンマド・ビン・トゥグルクは、バットゥータの旅先での経験を買って、裁判官に任じてくれます。
しかし、インドではまだイスラム教が浸透しきったとはいえない状態でした。イスラム法はイスラムの教えに基づいて作られたものですから、国中の人がイスラム教の宗旨を理解していないと成立しません。
ややこしい話ですが、仮に現代の日本で「今日から国教がイスラム教になったので、一夫多妻制になりました!」という法律が出されたとしても、実際に何人もの女性と結婚する(できる)人はそうそういないですよね。
ちょっと極端ですが、そんな感じだと思われます。

が、バットゥータはどうにもこうにもひとつところに落ち着けない質だったらしく、スルタンの信頼を失っていきました。一体何をやらかしたのやら。
バットゥータのほうでも居心地悪く感じていたようで、1347年に元の使節がやってきたとき、その返礼の使者としてあっさりインドを離れました。
途中で山賊や海賊に襲われて死にかけ、使節団どころではなくなってしまったので帰るに帰れず、悩んだ末に中国へ向かうことを決めます。
中国の前にモルディブに9ヶ月ほど寄り道をしているところが、実に図太いというかなんというか。まあ、こうトラブル続きでは、命の洗濯をしたくなるのも無理はありません。

 

ベトナム~インドネシア、マレーシアを経由して中国福建省入り

ちょうどよく、モルディブは仏教からイスラム教に変わったばかりで、バットゥータの見識が役に立ちました。しかも王族から奥さんまでもらっています。気に入られすぎ。
この頃はまだ中国への使者を務める気があったようで、次にスリランカへ。しかしスリランカから大陸に向かう船でまた海賊に襲われました。運がいいのか悪いのか、つくづくわからん御人やでぇ~。
そのため何度目かの迷走をした後、バングラデシュに渡りました。ここでは高名なイスラム教の指導者に会うことができ、数年ぶりに良い経験をしています。

その後、ベトナムを通り、イスラム圏であるインドネシアに行ってからマレーシアへ引き返し、中国・福建省入り。
インドを出てから10年以上経っていましたので、スルタンもそろそろ諦めてそうですね。

この頃の中国にもムスリムが一定数おり、バットゥータはまず彼らと交流を図ったようです。
中でも「この地のムスリムは、泉州の町を”ザイツン(アラビア語のオリーブ)”と呼んでいる。オリーブの木はどこにもないのに」と印象を書き残しています。
これは例によって私見ですが、おそらく中国人の肌の色を「オリーブ色」と称していたのではないでしょうか。幕末~明治時代に日本にやってきた西洋人の中に、「日本人はオリーブ色の肌をしている」と言っていた人がいますので、昔は「黄色人種の顔色はオリーブの色」と感じるのは珍しくなかったのかもしれません。

他、中国の食文化や絹織物・磁器などの工芸品、紙幣の便利さ、自然などについて詳しく記しています。カルチャーショックが大きかったんでしょうね。
インド使節を名乗って、元の宮廷に行って歓迎されたこともありました。

 

数百年の眠りを経て、旅行記はドイツ語に翻訳される

中国をひと通り見て、やっとバットゥータは故郷へ帰ることを決めます。
帰り道はほぼまっすぐにモロッコへ向かっていますが、その途中で、15年前に父が亡くなっていたのを知ったことや、ペストの流行地域を通ったことで、「死」を強く意識する道のりとなりました。
また、タンジェに帰り着いたとき、母がほんの数ヶ月前に亡くなったことを知りました。

せっかく帰郷したにもかかわらず、バットゥータはたった数日で次の旅にでているのですが、もしかすると両親が他界してしまったからだったのかもしれません。
次は今までとは逆の方向、イベリア半島へ向かいました。まだレコンキスタが終わっていない時期ですから、イスラム圏ですね。

バットゥータが旅立った頃は結構きな臭い感じになっていたのですが、カスティーリャ王国(スペインの元になった国の一つ)の王様が病死したために、無事に渡ることができました。
そして一度モロッコに戻ってから、今度はマリへ。虫の多さやサハラ砂漠横断などで辟易することも多く、最初の旅と比べるとあまり実りは多くなかったようです。
1354年に自国のスルタンに帰国を命じられて、自宅へ戻りました。

それからは、イベリア半島・グラナダで出会った学者のイブン・ジュザイイと共に、旅行記の執筆に専念します。
といっても、バットゥータは逐一記録をしていたわけではなかったので、彼の記憶を頼りに書かれたものでした。ですので、「このルートはありえない」「中国には行っていないんじゃないか」と懐疑的に見る学者先生もいらっしゃるようです。
とはいえ、風聞で書いたにしても「この時代にこうした風説があった」という資料にはなりますから、そう目くじらを立てるものでもないでしょう。噂というのは、事実かどうかよりも当時の一般人の価値観が現れていることを重視すべきでしょうし。

バットゥータの旅行記は、しばらくの間埋もれていました。
人々に読まれるようになったのは、17世紀のオスマン帝国でのことです。それまでは、「イスラムの教えに反する部分がある」として、あえて広められませんでした。

さらに広まったのは、19世紀にドイツの探検家が原稿の要約版を見つけてからです。ドイツ後に翻訳・出版され、東洋学の世界で注目されるようになりました。1853年に出版された校訂版は「パリ本」と呼ばれていて、現在バットゥータの旅行記の底本とされています。日本語版もパリ本を訳したものです。

日本語版は8巻もあるので、なかなか読破するのは難しいところですが……中世のイスラム世界やムスリムの価値観をうかがい知るにはいいかもしれませんね。

長月 七紀・記

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参考:イブン・バットゥータ/wikipedia 旅行記_(イブン・バットゥータ)/wikipedia

 





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