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その日、歴史が動いた 島津家 関ヶ原の戦い

島津家ドロドロの内紛「庄内の乱」とは? 関ヶ原の戦い直前に勃発した薩摩大乱

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どこの組織でも、「最初から最後までみんな仲良く」というのは難しいものです。
しかし、それを目指して努力するかどうかで、また違った雰囲気になっていくでしょう。あの結束の固さで有名な大名家でも、そういった感じの一件がありました。
本日はその辺をざっくりと見ていきましょう。

慶長四年(1599年)3月9日は、島津忠恒が筆頭家老の伊集院忠棟を斬殺した日です。

これによって「庄内の乱」という一騒動が起こるのですが……内乱にしてもあまりにも物騒な話ですし、しかも関が原直前のこの年、さらにいえば島津家という大大名の出来事、というトリプルコンボが気になりますね。
一体何が原因で、このようなことが起きたのでしょうか。

島津忠恒/wikipediaより引用

 

主の島津家よりでかい伊集院家のお屋敷in伏見

事の発端は、秀吉の存命中に遡ります。
文禄三年(1594年)に島津領内で検地が行われた際、伊集院家は秀吉からお墨付きをもらって、8万石と都城を与えられました。それまでの城主を務めていた北郷家の当主が幼かった上、朝鮮出兵で兵を出し渋ったことによる減封・移封を受けており、その後釜として入った形です。

ついでに、秀吉は忠棟を自分の家臣同然に扱いました。本来なら秀吉にとっては陪臣(家臣の家臣)とするべきところを、頭を飛び越えてしまったことになります。
気に入った人物をひいきしすぎるのは、秀吉の悪い癖ですかね。伏見では、伊集院家に島津家よりも大きな屋敷が与えられていますから、両者を離間させるための仕掛けだったのでは?……というぐらいのひいきっぷり。

また、忠棟は朝鮮に出陣しておらず、さらに国元からの食糧が朝鮮へ充分に届いていませんでした。

島津忠恒の兄・久保は朝鮮で病死したといわれているのですけれども、実は餓死もしくは栄養失調で病になったのでは……といわれるほど。久保は義久の娘婿ですから、味方、つまり忠棟の不始末で次期当主が亡くなったことにもなってしまいます。
当然、他の島津家・家臣の面々は伊集院家の引き立てられようが面白くありませんでした。

 

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忠棟ブッコロス! ついに庄内の乱へ……

伊集院家を快く思わない面々の中に、島津忠恒もいました。

忠恒は、義弘の息子で島津家当主・義久の娘婿です。後に叔父と同じ「家久」に改名するのですが、生涯を通じて行いがアレすぎたので、今日では「悪い方の家久」とか「悪久」という俗称で呼ばれることもあります。
義久に男子がなかったため、血筋が近い忠恒を娘婿に迎えたわけですが、伊集院忠棟はそのとき別の人物を推していました。

そんな相手が家中での評判を悪くしたのですから、忠恒にとってはまさに好機!
というわけで、忠恒は忠棟をブッコロしてしまうのです。

コトはそれだけでは終わりませんでした。というかいよいよ本格的な「庄内の乱」へと発展します。
上記の通り、忠棟は秀吉からお墨付きをもらっていましたので、書面上は島津家の家臣ではなく、豊臣家の家臣という扱いです。となると島津家の内紛ではなく、大名同士の闘いということになってしまいます。

忠恒は実行してからそこに気付いたのか、自ら寺へ入って謹慎しましたが、家康が「疑わしい家臣を処断するのは問題ない」としたため屋敷へ戻っています。
こむしろ、の一件に全く関わっていない島津義久のほうが慌てたようで、石田三成にその旨を申し出ました。そりゃ、当時からしても三成vs家康の構図は明らかだったわけですしね。「実は義久・義弘も加担していた」なんて説もありますが、果たして……。

ともかく当然、伊集院家では主の受けた仕打ちに激怒。後を継いだ忠棟の嫡子・忠真(ただざね)は、一族や家臣と相談の上で仇討ちを決めました。つまり、島津家に弓を引こうというわけです。
忠真が別の人に当てて書いた手紙では「義久様が私の通行を拒むので、やむなくそうした」というようなことを書いているので、ここでやはり義久の関与が疑われます。

 

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伊集院軍8,000に対し島津軍は3~4万 

伊集院家は本城である都城に籠もり、籠城戦に持ち込みます。
この知らせを上方で聞いた忠恒は、家康に許可を得てから鹿児島へ戻り、都城攻略の軍を起こしました。
伊集院家が8000、忠恒軍が3~4万程度の兵力だったと考えられています。この中には、元・都城の主である北郷家の面々もいました。

家康は和睦を促しましたが、事の発端が怨恨とダイナミック過ぎる解決策だったため、そう簡単にうまくいくはずもありません。
士気の上がっている伊集院家に対し、忠恒の攻略も順調とはいい難い状況でした。

戦線が膠着していると見た家康は、島津家に二度目の使者を送って、もう一度調停を申し出ます。この使者がなかなかデキる人で、義久と忠恒から「忠真が降伏すれば、今回の反抗は不問にする」という約束を書面で取りつけました。
これを持って忠真にかけ合い、降伏を促したのです。
そして約一年後の慶長五年(1600年)3月に忠真は降伏し、戦は終わりました。
都城には北郷家が復帰し、伊集院家は頴娃(えい)、後に帖佐(ちょうさ)へ移封されています。反乱の代償としてはいいほうでしょうね。

しかしこのタイミングが、島津家にとっては最悪でした。
同じ時期に、上方では既に会津征伐の話が持ち上がっています。つまり、既に情勢は関が原の戦いへ着々と近づいていたのです。

 

加藤清正が絡んでなければ関が原も激変していたかも……

また、忠真は加藤清正と連絡を取り、父の仇を取るための助力を依頼しようとしていました。使者が「これはさすがにマズイでしょ」と考え、忠恒に報告したため表沙汰になっています。
未遂で済んだかと思いきや、清正のほうからも忠真に連絡していたことがわかりました。大名が他家の内紛に手を突っ込もうとしたことになりますから、当然家康は怒ります。

そして、清正には当分の上洛禁止が言い渡されます。
清正が豊臣恩顧の筆頭であるにもかかわらず、会津征伐や関が原の戦いの本戦に参加していないのはこのためです。
もしも清正が忠真に肩入れしようとしなければ、関が原の戦いやその後の経過も全く変わっていたでしょうね。

ちなみに、忠恒は関が原の戦いから二年後、慶長七年(1602年)に忠真をブッコロしています。狩りの最中でしたので、事故に見せかけたかったのでしょうね。
事実、対外的にはそのように扱われています。ひでえ。

おそらくは、二年経っても忠真がアヤシイ動きをしていたのでしょうが……忠恒の日頃の行いからすると、ずっと恨んでいてもおかしくはありません。
この時点でも義久や義弘は存命ですので、その辺の許可があってのことかもしれませんね。

戦国時代というと戦で全てを決める印象がありますが、こういった政争や陰謀もたくさんあったんですよね。
その辺は近現代と変わらないのかもしれません。

長月 七紀・記

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イラスト:富永商太
参考:庄内の乱/wikipedia

 





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