日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

元寇の防塁跡

スポンサーリンク

その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

元寇に備えて設置された石塁 いかにして造られ、その後いかなる命運を辿ったか?

投稿日:

人生、常に予測通りのことが起きるとは限りません。良い意味であれば予想外のことも嬉しいですが、悪いことだったら急いで対策を取らねばなりませんよね。
本日はその一例と思われる、鎌倉時代のとある「危機」への対策のお話です。

建治二年(1276年)3月10日は、鎌倉幕府が博多湾の海岸に石塁を築くよう命じた日です。

この時期で国境防御を固める必要があった出来事、というともちろん元寇です。
文永の役と弘安の役の間……北条時宗が元の(降伏勧告の)使者をぶった切ってから半年後に実施されました。

元寇蒙古塚(蒙古軍供養塔)福岡県福岡市東区志賀島

 

「攻め込んで逆襲してやんよ!」と意気込んだものの……

文永の役でかなりの被害を出したことを受け、鎌倉幕府は九州沿岸の防備を固めることにしました。
どんな感じだったかというと、教科書でもおなじみ「蒙古襲来絵詞」の有名な場面・鳥飼潟の戦い(”てつはう”をぶっ放されてるアレ)の通りです。

国立国会図書館蔵

文永の役の時点で「他国から攻め込まれる」状態だったわけですから、それまでにやっておいて然るべきことでしたけどね……一般人の捕虜もかなり残虐な仕打ちを受けていますし。

実は、文永の役と弘安の役の間に鎌倉幕府は「こっちから高麗(朝鮮)に攻め込んで逆襲してやんよ!」という計画を立てたこともありました。
が、それを突然中止して石塁建設にあたっています。一説には、石塁を築くための費用と人員でカッツカツになってしまったためだとか……。どんぶり勘定にも程があるやろ。

何はともあれ、文永の役で少なからぬ犠牲を出した九州諸国の御家人は、石塁建設に励みました。
指揮は鎮西奉行(九州のボスみたいな仕事・鎌倉幕府にとっての太宰府のような場所)の少弐経資(しょうに つねすけ)という武士が担当しています。
経資自身も文永の役で戦っていますので、上から下までやる気に満ちた現場だったことでしょう。

一口に博多湾といっても長大ですから、九州各地の御家人に担当区域を割り振って工事をさせました。
さすがに内部構造や傾斜の度合いは担当した国ごとに異なっておりますが、高さ・幅はだいたい2m前後になっていて、ある程度は規格が統一されていたようです。

これは日本軍が上から射掛けつつ、浜辺から登ってくる敵の侵入を防げる高さでした。これより高くしようとすると工期の遅れを招き、再び攻め込まれたとき間に合わない……なんてことも起こり得たかもしれません。絶妙なところで手を売った感じがしますね。

そして、いよいよ弘安の役が始まります。

元寇防塁

 

スポンサーリンク

石塁設置によって、図らずも変わった鎌倉武士の戦い方?

石塁の効果はおそらく、日本軍の予測よりも高かったことでしょう。
一説によると、バラバラだった鎌倉武士たちの戦い方が、石塁を設置したことによって自然と集合して戦うこととなり、防御の効果が格段に高まったという見方もあります。

いずれにせよ九州への侵入は防げましたが、最前線である壱岐や対馬ではそうもいかず、やはり文永の役同様の惨劇が繰り広げられたそうで……。全体的な被害は減ったとはいえ、局所的にでもそういうことがあると、素直に喜べませんね。
非道な見方をすれば、敵を分散させたほうが勝ちやすくなるのですから、そういう戦略だったのかもしれませんが。

ちなみに、弘安の役の際、元軍は割とgdgdだったそうです。
後から来るはずの味方が来ないわ、防塁で上陸できないわ、走行している間に船の中で病気が流行るわ……と、戦う前から半分勝負がついていたようなものでした。
おまけに前述の通り日本側の戦い方が変わって攻める方には厳しい状況になり、そうこうしているうちに台風(神風)が来て、あえなく退散。まるで軍全員が大殺界中ででもあったかのような展開ですね。

こうして石塁は立派に役目を果たしたわけですが、その後はいったいどうなったのか。

元寇防塁のある生の松原(と博多湾)

 

スポンサーリンク

福岡城に使われたとの話も

元々が元寇のために作ったものですから、その後、石塁は打ち捨てられています。

それでもかなり長い間、存在はしていたようですが、福岡城が造られる際(慶長六年=1601年ごろ)に石塁から引っこ抜いた石を使ったのだとか。
現在残っている石塁の遺構が途切れ途切れなのは、このためと思われます。

また、海岸線から遠い地点にも防塁の遺構があるのは、埋め立てや自然経過により海岸線が変わっているためだそうで。
出島みたいにすっかりなくなってしまったよりはマシですかね。

そんなわけで、石塁の遺構は福岡市内に多いのですけれども、実は長崎県松浦市~平戸市にも防塁の遺構があるのだそうです。しかも、保存状態も割といいのだとか。
このあたりは元寇絡みの遺跡や地名も多いらしいのですが、なぜかこちらのほうはあまり調査が進んでいません。
2011年に向かい側の鷹島(ここも松浦市です)沖から元の船が見つかったことですし、現在調査中というだけかもしれませんが。

今後の進展に期待したいところですね。

長月 七紀・記

スポンサーリンク

参考:今日は何の日?徒然日記 元寇防塁/wikipedia 元寇/wikipedia

 





1位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


2位 わろてんか主人公
吉本せい波乱の一生


3位 西郷隆盛49年の生涯!


4位 史実の真田幸村とは?


5位 最上義光 名将の証明


6位 ホントは熱い!徳川家康


7位 意外と優しい!? 織田信長さん


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?


注目 わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか毎日の感想レビュー

-その日、歴史が動いた, 鎌倉・室町時代

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.