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富永商太・絵

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その日、歴史が動いた 徳川家

関が原に勝利し、駿府城でご隠居様となった徳川家康はどんな政策を推し進めた?

更新日:

三英傑の中で、外国人に最も評価されているのは徳川家康だそうです。
皆さんすでにご存知だったかもしれませんが、これを初めて聞いたとき「え?」と思った日本人は少なくないのではないでしょうか。私もです。
家康と言えば、一見地味ですし、先行するのは「狸親父」という武人ではない政治家イメージ。関が原や大坂の役に関する策謀などが頭をかすめるからでしょうか。
しかし、知れば知るほど家康は空恐ろしくなるというか、「これはすごい!」と思わざるを得ない人であると思います。本日はある一定の時期における家康の行動から、その辺を考えてみましょう。

慶長十四年(1608年)は、徳川家康が駿府城に隠居した日です。

長い長い間忍耐を続けてきた家康が、自ら人生の最終ステージへ向かった日、とも言えるでしょうか。
当時家康は満64歳。現代でも定年退職する頃合ですから、そろそろ体にガタがきてもおかしくありませんが、家康はずっと精力的に動き続けました。
今回はもう少し前の段階を含めた、関が原の戦いの後くらいから、家康がやったことをまとめて見ていきましょう。

 

・朝鮮との国交再開

晩年の家康は、徳川の政権を揺るぎないものにするために動いていた……という点が有名ですよね。
それと同じくらい、家康は海外とのお付き合いにも取り組んでいました。

中でも、後々まで影響を与えたのが、朝鮮との国交再開です。
なにせ秀吉があんなにも大々的に攻め込んでしまったので、また仲良くしてもらうのは至難の業。しかし、教科書でも登場する「朝鮮通信使」は、慶長十三年(1607年)に再開しています。

これは、両国の利害が一致した結果でした。
日本側から再開を依頼したのですが、朝鮮でも「日本との国交再開が望ましい」と考えられていたのです。主なものを挙げるとこんな感じになります↓

1、文禄・慶長の役の捕虜返還を求める
2、交易
3、中国北東部の民族・女真族(後に中国で清王朝を作る民族)への対抗手段

もちろん文禄・慶長の役での恨みはあったでしょうが、当時はこういった複数の理由があったので、最終的には朝鮮側でも「またお付き合いしてやってもいいんだからね! べ、別にアンタのためじゃ(ry」みたいな感じになったようです。

実際の交渉では、対馬藩の宗家が仲立ちとなりました。
捕虜については何回かに分けて帰国したようです。しかし、奴隷として東南アジア方面に売られた者や、家族ができたために日本で暮らすことを選んだ者、既に亡くなっていた者も少なくなかったため、帰国できたのは多く見積もって7500人ほどといわれています。

また、釜山には今でいう日本大使館のようなものが作られ、対馬藩士が常駐して貿易や情報収集の便宜を図りました。
つい10年ほど前に戦争した仲とは思えない国交回復ぶりですね。お互いに、昔のほうが考え方は柔軟だったのかもしれません。

そんなわけで、朝鮮との国交再開によるメリットはいくつかありました。一般人に関わるところだと、漂着民への対応が一番大きいでしょうか。
当コーナーでも取り上げた大黒屋光太夫や音吉などのように、江戸時代に正式な国交がない国に漂着した場合、帰国には相当の期間と苦労を要しています。また、外国の状況を他の人に話されると幕府が困るので、帰国できたとしても外出などに制限が設けられました。
しかし、朝鮮と日本はこの時代に国交を再開できたため、漂着民の返還も比較的速やかに行われています。生活への制限も比較的緩やかで、後年にはほぼ以前と同じ暮らしに戻れたとか。

 

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・オランダとイギリスに商館設置の許可を出す

関が原の戦いから約5ヶ月ほど前、オランダ船とイギリス船が相次いで豊後(現・大分県)の黒島に漂着したことがありました。
なぜか全く同じ日に流れ着いたことになっているのですが、この頃、この周辺で大きな嵐でも起きていたんですかね? ただ単に、記録がずれているだけかもしれませんが。

漂着したオランダ人やイギリス人から西洋事情を聞いた家康は、これを機に交易をしようと考えます。
後には、キリスト教の影響が大きすぎることから、禁教などに踏み切っていますが、家康は西洋の文物には非常に強く興味を持っていました。「家康が眼鏡や鉛筆を愛用していた」というのも有名な話ですよね。

 

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・多趣味&多芸

家康の趣味が「薬作り」だったというのはこれまた有名な話ですが、他にも多くの趣味を持ち、心身を使っていました。
写経や勉学にも励んでいます。家康が生涯学習の始祖といえる……かもしれませんね。
若い頃から得意だった水泳も、ずっと続けていたよづえす。駿府城の近くにある長尾川には、「家康がよく泳ぎに来ていた」という伝承があるそうで。
つまり、駿府城に住むようになった=64歳以上になってからも川で泳げたことになりますよね。単純にすげえ。
こんな感じで健康に過ごしていたからこそ、大坂の役でも自ら出陣することができたのでしょうね。

家康の死因は胃がんとされていますが、倒れたとき鷹狩の最中だったことを考えると、日頃から普通に動けていた=他の臓器や神経にはあまり転移していなかったのでしょうか。
胃がんのステージ別症状について調べてみると、家康がなっていたとされる「腹を触ってしこりがわかる」段階では、「既に転移が進んでいて、食事ができなくなったり激痛が走る」とのことなのですが……。やっぱりケースバイケースなんですかね。
それとも、倒れてからそこまで進行したのでしょうか……。倒れてからも家康は息子たちに訓戒を残したりしているので、意識が戻らなかったわけでもなさそうですが。
セミリタイアの時期から、最後の最後まで行動し続けた家康。
その晩年には、数十年忍耐した分の叡智が詰まっている……といえましょう。

長月 七紀・記

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参考:駿府城/Wikipedia 徳川家康/Wikipedia

 





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