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与謝野鉄幹/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

与謝野鉄幹の才能・実績はいかほどのもの? 妻・与謝野晶子と比べると……

更新日:

歴史に名が残るのは、人格者ばかりではありません。
ナチのちょび髭やソ連のカイゼル髭の人たちがわかりやすく、比類のない悪人もまた、反面教師や負の遺産として語り継がれていきます。さすがにこの二人ほどのレベルは他にそうそういませんが。
本日は、文学の分野で、どちらかといえば悪い印象のほうが目立つ……気がする人のお話です。

昭和十年(1935年)3月26日、与謝野鉄幹が亡くなりました。

鉄幹も歌人や教師として知られていますが、今日においては妻の晶子のほうが知名度が高いですよね。
もしかしたら、それは彼のとある大きな欠点が影響を与えたのかもしれません。

 

赴任先の女学校で毎度の如く……

鉄幹は、僧侶の父と商家出身の母の間に、京都で生まれました。
10代のうちに、とあるお寺の養子に入って仏の道に入り、文学に興味を抱いて雑誌の編集なども始めます。
そして女学校の教員になったのですが……鉄幹は赴任した先で、ほぼ毎回(?)女生徒と「そういう関係」になってしまいました。

純愛ならばロマンある話かもしれません。
しかし、その都度、子供が生まれているので弁護のしようがありません。当時の道徳観念、そして仏門に入った人がよくそんなことを繰り返せたものです。

その後、上京して出版社に入り、副業として跡見女学校(現・跡見学園)で教鞭を取るようになりました。
何回も女学校で問題を起こしておいて、また教職に就くって根性がすごいですよね。雇う方も雇う方ですが、東京周辺には鉄幹のその辺の話が漏れてなかったのでしょうかね。

生活が落ち着いたことで創作意欲も湧いたのか。
鉄幹は「東西南北」「天地玄黄」といった歌集を続けて出版します。
この頃が本人の最盛期で、その作風は「ますらおぶり」=率直で素朴と評されました。万葉集や同時代の歌風をますらおぶりと称することが多いですが、鉄幹もそういった歌風を持っていたんですね。

与謝野鉄幹/Wikipediaより引用

 

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1900年に『明星』を発刊 されど100号で廃刊

しかし、プライベートの彼は、かなり歪んだ「ますらおぶり」でした。
この時期、鉄幹は最初の妻・浅田信子と別れて林滝野という別の女性と同棲するようになっています。しかも、この二人はどちらもかつての教え子です。

特に信子のほうから見れば、「世間や学校から白い目で見られながらもついてきた男性が、自分を捨てて別の(元)女生徒と暮らすようになった」わけですから、やりきれないどころの話ではありません。
気の強い人だったらブッコロしに行っていたかもしれませんね。
「何があっても自分のやりたいようにする」ことが、ますらお=勇気ある男だというのなら、間違ってはいませんが……傍目から見ると、とても良識ある大人のやることではありません。

生涯の伴侶となる晶子との出会いも、当初は不倫でした。
鉄幹は彼女の歌才に惚れ込んで、滝野と離婚し、晶子との結婚を決めます。

仕事の面では1900年に月刊文芸誌「明星」を創刊。翌1901年に晶子の歌集「みだれ髪」を刊行したことで、同誌は名実共に充実していきます。晶子の成功で「明星」の知名度も上がったのです。

が、「明星」は第100号で廃刊してしまいます。
晶子の「君死にたまふことなかれ」が「明星」に掲載されたのが明治三十七年(1904年)で、廃刊が明治四十一年(1908年)でした。

東京新詩社みだれ髪/国立国会図書館蔵

 

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鉄幹自身はスランプに陥り、血迷って(?)選挙に出馬

同じ頃から、鉄幹自身は極度のスランプに陥っています。
晶子も心配し、ヨーロッパ旅行を勧めましたが、創作意欲がわいたのは彼女だけでした。

与謝野夫妻の活動は、光と影のような関係にあったようでして。
他の業界でもよく聞きますが、成功者が身近であればあるほど苦悩は大きいもの。本人に才覚があればなおのこと苦悩は深くなります。
何人もの女性を苦しめた鉄幹が、最も身近な女性である妻の成功によって悩む……というのも、因果な話ですね。

何を思ったのか、鉄幹は地元・京都で選挙に出馬したこともあります。
そして当然のごとく落選。
スランプが長すぎてどこかのネジが外れてしまったんですかね。今よりもずっと道徳に厳しかった当時、鉄幹のプライベートを知っていれば、票を入れる人はごくわずかだったと思うのですが……地元なら私生活も知れ渡っていそうですし。

選挙は一回で懲りたらしく、その後は慶應義塾大学文学部で教鞭を取り、13年間在籍して多くの文人を育てました。
同時に、晶子や建築家の西村伊作、そして画家の石井柏亭らとともに文化学院を創設しています。
教育方面で生きていこうとしたものでしょうか。

与謝野晶子/国立国会図書館蔵

 

センバツの入場曲にも使われた「爆弾三勇士」

教育者としての鉄幹の言動はあまり伝わっていませんが、亡くなる三年前に、鉄幹はもう一つ代表作を残しました。

「爆弾三勇士の歌」という物騒なタイトルの歌詞公募に応じ、一等入選を果たしたのです。当時は「センバツ」こと選抜高等学校野球大会の入場曲にも使われたため、鉄幹も再び脚光を浴びたと思われます。

「爆弾三勇士」とは、第一次上海事変で爆弾を抱えて中国軍に突撃し、突破口を開いたという三人の兵士のことです。
第一次上海事変自体は「満州国建国の後、緊張が高まっていた中国で起きた軍事衝突&陰謀事件」といったものです。この辺のことはややこしいので、またの機会にしましょう。

晶子も「君死にたまふことなかれ」を発表して40年近く経った頃に、戦争に賛成するような歌を詠んだことがありますが、夫婦ともに世の流れには逆らえなかったのでしょうか。

まあ、戦争に対する世論も、状況に応じて賛成・反対がコロコロ変わりますので、著名人がある程度迎合するのは仕方のないことではあるのですが……若い頃からの鉄幹の行状を知っていると、何だかモヤモヤしますねえ。

長月 七紀・記

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参考:今日は何の日?徒然日記 与謝野鉄幹/Wikipedia

 





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