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親鸞/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

浄土真宗を開いた親鸞「他力本願」に辿り着き、89歳で遷移化滅するまで

更新日:

承安三年(1173年)4月1日 親鸞が生誕

春はいろいろな行事がありますが、実は仏教関連もそうだったりします。そもそも釈迦入滅の日が2月15日=立春後ですしね。
馴染み深いものではお彼岸、もうちょっと宗教色の強いものだと灌仏会(花祭り)なども。今回は仏教に関連する人の中から、誰もが一度は名前を聞いたことがあるであろう、あのお坊さんのお話です。

承安三年(1173年)4月1日は、浄土真宗の開祖・親鸞が誕生したといわれる日です。

鎌倉仏教のところで必ず出てくる名前ですので、「何となく見覚えがある」という方は多いのではないでしょうか。
しかし、例によって「浄土真宗を開いた人」以外のことは、あまり知られていません。いつも通り、ところどころツッコミを交えて進めていきますが、親鸞や浄土真宗を悪し様にいう意図はありませんので、ご勘弁ください。
ついでにいうと「浄土真宗」という名前になったのは親鸞が亡くなった後の話なのですが、こまけえこたあいいんだよということで。

 

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夢の中の聖徳太子「あと10年の命だから、真の仏を信じよ」

親鸞が生まれたのは、源氏と平家が争っていた最中の時代でした。
しかも彼自身、4歳のときに父、8歳のとき母と死に別れています。

一度は叔父に引き取られたものの、9歳で出家することになった親鸞。このとき京都東山の青蓮院というお寺に行ったときのエピソードが、当時の彼の心情をよく表しています。

エピソードとは……。
青蓮院の住職が「今日はもう遅いから、明日来なさい」と親鸞に言いました。
しかし、親鸞はこの歌を詠んで「ぜひ今日に」と頼みます。
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
(意訳)「今日咲いている桜も、もし今夜、嵐があれば散ってしまいます。人の命も同じでしょう」

幼くして両親を亡くした親鸞にとって、死は非常に身近なものだったのでしょう。
時代背景としても、戦乱・地震・流行病など、誰もがいつ死ぬかわからない時代でしたからね。

念願叶って仏弟子になった親鸞。比叡山に十年間真面目に修行をしたものの、なかなか悟りは得られず苦悩します。そこで聖徳太子の霊廟を訪ね、助けを乞うと夢に聖徳太子が現れてお告げをしたそうです。

「お前の命はあと10年くらいしかないから、真の仏を信じよ」

要するに「gdgd悩んでないで仏様を信じろ」ということですかね。
成功者とは成功するまで努力した人のことだと思いますが、信仰も同じで「悟りが開けるまで信じろ」ということなのでしょうか。

聖徳太子/wikipediaより引用

 

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「私も入山させてください」比叡山に美女が現れ……

親鸞は言われた通りに、とりあえず迷いを置いといて修業を続けます。

迷いが晴れたのが10年後、29歳のときのことでした。つまり、聖徳太子のお告げは「10年修行してる間にそんなこと気にならなくなるから頑張れ」というものだった……ということになるんですかね。
単純にそう言ってもありがたみがないですけれども、他人様の人生を10年も浪費させるのもどうよ。仏様の時間間隔でいえば一瞬でしょうけども。

ともかくその間、親鸞26歳のときにこんなことがありました。

別のお寺にいる僧侶を訪ねて帰ってくる途中、とある美女に声をかけられた親鸞。
美女はとても大きな悩みごとがあるらしく、その迷いを断ち切るために、比叡山に入りたいと願い出ました。
しかし、比叡山は女人禁制。禁を守らねばならないからと、親鸞は一度断ります。
が、美女は反論します。
「お釈迦様は全ての者が仏になれるとおっしゃっていたのに、なぜお山は女性を差別するのですか。お山の動物にだって雌はいるでしょうに、なぜ人間の雌はダメなのでしょうか」
この方、すげえ頭いいですね。
それでも親鸞は女性を連れては行きませんでしたが、彼女は「いつか、女性を含めた全ての人が救われる教えを説いてください」と言い残して去ったそうです。
彼女が親鸞の生涯に再登場することはなかったと思われますが、おそらくはこの出来事が、後年の浄土真宗における女性の扱いに影響したのでしょうね。

そして29歳になった親鸞は、「比叡山では真の悟りは得られない」と思い定めて下山しました。
そもそも比叡山で悟りが開けるなら、そういったご利益があるとして有名になっていそうなものですが……その辺はツッコんじゃいけないんですかね。

 

観音様が現れて、僧侶の妻帯もOKと太鼓判

下山後は、京都の頂法寺・六角堂というところで100日の瞑想に入りました。
ここは聖徳太子が建て、救世観音を本尊とするお堂です。親鸞はもう一度聖徳太子と観音様に助けを求めたということになりますね。

すると95日目に観音様が現れ、次のようなお告げをしてくれました。
「女性と関係を持ったとしても、きちんと成仏できるから安心しなさい。このことは世の中の人全てに伝えるように」
浄土真宗で僧侶の結婚が許されているのは、「観音様のお許しがあるのだから、僧侶が妻帯することも問題はない」というわけです。

まあ、そもそも夫婦関係がないと人間が増えないわけだから、全ての人が女犯を禁忌としていたら、いずれ人類は絶滅してしまいますよね。それが仏の本望かというと、「んなこたーない」としか。
清らかな生活を保つことで神仏のお眼鏡に適う、という考え方もありますけれども。

その後、比叡山でともに学んでいた聖覚という僧侶に再会し、法然の住まいを聞き、訪ねてみることにします。
法然に教えを受ける中で、親鸞は「他力本願」という概念に行き着きました。

現代では「他人に任せっぱなし自分は何もしないこと」という意味で使われることが多いですが、元々は仏教用語です。
「他」は阿弥陀如来、「力」は仏様の法力、「本願」は人間を皆仏に導きたいという願いを意味します。
つまり「阿弥陀如来様のお力を信じて、皆仏になろう」という意味合いですね。

ほどなくして妻をめとり、子供にも多く恵まれた親鸞ですが、その時期は定かではありません。
個人的なことだから……という気もしますけれども、それよりもデカイ事件が複数あるからだと思われます。

 

僧侶同士の論争を次々に繰り広げる

「事件」とは、他の僧侶との論争でした。
仏に仕えるお坊さんといえば穏やかなイメージがありますが、親鸞は三回ほど他の人と激しく対立したことがあるのです。

まずは「体失不体失往生の諍論」と呼ばれるものです。
「阿弥陀仏は人間が死んでから極楽へ導いてくださる」としたある僧侶に対し、親鸞は「阿弥陀仏は現世でも功徳を授けてくださる」と反論しました。

親鸞は、
「現世の医者も、生きている間に腹痛を治してくれるでしょう。
『あなたの痛みは現世では治らないから、死んでから治す』なんて医者はいません。
ましてや尊い阿弥陀仏が、この世の人は助けられない……なんてことを仰るはずがないではありませんか」
と続け、皆が納得したといいます。

次に「信心同異の諍論」です。
親鸞は、あるとき師匠の法然と弟子たちの中でも偉い人の前で「私の信心は法然上人と同じでございます」と言って、やっぱり反感を買いました。
当時、法然は菩薩の化身ともみなされ、生き仏同様に尊崇されていた人です。それと同等だなんて、不心得者だというわけです。

これに対し親鸞は「私の見識がお師匠様と同じと言ったのではなく、阿弥陀如来への信心が同じであると言ったのです」と反論しました。
法然も「自分で抱いた信心は人によって異なるが、他力の信心は阿弥陀如来のものだから平等である。だから、この法然の信心と、親鸞の信心が同じということは正しいのだ」とし、他の弟子たちをたしなめました。

でもこれ、親鸞の言い回しがマズかっただけの話なんじゃ……という気もしますね。それが自力の信心なんでしょうか。

そしてもう一つの論争が「信行両座の諍論」と呼ばれるものです。
法然の門下に対して、親鸞が「信と行、どちらが阿弥陀仏のお導きに叶うのかお選びください」と言ったことがありました。
「信」は信心・信仰心のことで、「行」は念仏を唱えることです。
多くの人が迷った末に行を、ごく一部だけが信を選んだ後、最後に法然が信を選んだことで、自ずと正解はわかりました。
仏様の答えは分かりませんが、弟子たちにとっては「お師匠様の法然が選んだほうが正解」。
このため、親鸞に対して「お師匠様の前でよくも恥をかかせてくれたな」と罵る者が出たのです。

親鸞は常々「信心なく念仏を唱えたところで、阿弥陀仏の御心には適わない」と考えており、法然にそれを相談した上で了解をもらい、この選択を出しました。
つまり行を選んだ人は「私は本来の教えを見失っていた、気付かせてくれてありがとう」というべきなのですが、そうならないあたりが僧侶としてアレですね。というか、一時の恥ごときで他人をボロクソに言うなんて心狭すぎるやろ。「良薬口に苦し」「忠言耳に逆らう」あたりを知っている人はいなかったんかい……とまで言うと言いすぎでしょうか。
こうしてすったもんだを経験しながらも、親鸞は法然の弟子たちの中で頭角を現していきました。

しかし、35歳のとき「承元の法難」という大事件が起き、親鸞と法然、そして多くの僧侶が流罪・死罪などに問われてしまいます。

 

興福寺&延暦寺にイチャモンを付けられ、松虫鈴虫事件で流罪確定

ことの始まりは、浄土宗に対して南都北嶺=奈良の興福寺&比叡山延暦寺がイチャモンをつけたことでした。

浄土宗の教えはわかりやすく、一般人や武士にも受け入れられやすかったため、どんどん信徒が増えていました。これに対して南都北嶺が危機感を抱き、権力的に何とかしてもらおうとしたのです。
興福寺も延暦寺も、数か条に渡る「浄土宗のこれこれがけしからんので、天皇のお力で禁じてください」といった書状を朝廷に送りつけました。
そもそも聖職者が俗世をコントロールしようとすることが不遜だと思うんですが、例によって放置しておくと武力行使してくるので、朝廷も対処に困りました。

朝廷の中にも浄土宗派がいたため、一時はなんとかなだめたものの、次に「松虫鈴虫事件」が起きてそうもいかなくなります。

この「松虫」と「鈴虫」は虫のことではなく、後鳥羽上皇の寵姫だった女官のことです。
彼女たちがこっそり御所から抜け出し、とある法会で法然の弟子である安楽房と住蓮房の念仏を唱える声に聞き惚れ、勝手に出家してしまいました。
御所を抜け出しただけでも十分マズイですが、仏門に入るきっかけが仏弟子への色恋沙汰というのはどうなんですかね。浄土宗は妻帯可だからいいんでしょうか。

当然、後鳥羽上皇は大激怒し、安楽房と住蓮房を死刑にした上で、法然・親鸞の僧籍を剥奪、さらに流罪に処します。
法然は土佐へ行くはずでしたが、公家の九条兼実の庇護により、九条家の領地である讃岐へ。「大差なくね?」とか言っちゃダメです。その後、法然は赦免され、帰京二ヶ月後に亡くなっています。

一方、親鸞は越後に流されました。
法然の赦免と同じ頃に親鸞も罪を許されたため、師との再会を願っていましたが、法然が体調を崩した頃は雪で身動きできず、会えないまま終わっています。

本願寺聖人親鸞伝絵/国立国会図書館

 

89歳でまさに大往生

その後、親鸞は気を取り直し、東国に師の教えを広めようと決意しました。
当時は「お経を何回も唱えれば救われる」という考えが主流だったのですが、上記の通り浄土宗では「信心さえあれば救われる」としていたので、相反していたからです。

東国における拠点は、現在の茨城県笠間市にある西念寺(さいねんじ)でした。親鸞はここに草庵を結んで、約20年かけて布教を行っています。
60代になってから京都に帰っていますが、その理由はハッキリしていません。
東国で得た弟子たちを置いていっていることといい、老体の身で長距離移動をしていることといい、それまでの親鸞の言動と符合するところが見当たらないのです。
承久の乱を挟んでおり、後鳥羽上皇が隠岐へ流されたため……という説もありますが、それだと何かがめつい感じがしますしねえ。

理由はともかく、帰京してからの親鸞は著作活動に専念しました。
東国のことも忘れたわけではなく、息子・善鸞とその息子(親鸞の孫)如信を派遣して、正しい教えを広めるよう言いつけています。

しかし、善鸞は親鸞の教えに逆らう言動をしたため、義絶せざるを得ませんでした。
そのとき、親鸞は82歳。善鸞ももうちょっと年を取ったトーチャンを大事にしてやれよ(´・ω・`)

そして七年後、89歳で親鸞は亡くなりました(遷移化滅or遷化・僧侶が亡くなること)。
何人かの弟子と弟の尋有、末娘の覚信尼が看取りましたが、おそらく善鸞や如信のことを案じていたのでしょうね。

善鸞はずっとそのままでしたが、如信のほうは後に覚信尼らの依頼で親鸞の廟所である大谷廟堂(本願寺の原型)の法灯を継いだり、親鸞の祥月命日の法要である「報恩講」のため京にやってきたりしているので、多少なりとも慰めになったことでしょう。
如信は後に本願寺二世とみなされるようになっていますし、同時代から「如信は親鸞の教えに適う」と考えられたようです。

「息子は絶縁したが、孫とは付き合いがある」
……というのは、現代の一般人でもありそうな話ですよね。
こんな言い方をしたら怒られてしまいそうですが、そう考えれば「上人」と呼ばれるようなエライお坊さんも、少しは親近感が湧くのではないでしょうか。

「鎌倉仏教」というと「どれがどれだかわかんねーよ!」状態ですが、まずは法然&親鸞コンビから入ってみるのもありかもしれません。

長月 七紀・記

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参考:親鸞/wikipedia

 





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