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その日、歴史が動いた アメリカ

ピューリッツァー賞と日本 そもそも同賞は如何にして生まれた?

更新日:

発案者はジョーゼフ・ピューリツァー

文章にせよ映像にせよ、表現のコツには色々なものがあります。
一番わかりやすいのは、「とにかくインパクトの強い部分を真っ先に出すこと」でしょうか。電車の中吊り広告や、雑誌の表紙なんかがわかりやすいですね。
とはいえ、それだけで全てがわかるかというと、そんなことはないわけで……。
今回は、「印象」に関するとある賞のお話です。

1847年(日本では江戸時代・弘化四年)4月10日は、世界的に有名な「ピューリツァー賞」の発案者となるジョーゼフ・ピューリツァーが誕生した日です。

日本でも賞のほうは有名ですが、彼はどのようにして、この案に至ったのでしょうか。

 

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新聞社を買収しながら成長させて

ジョーゼフは、元々ハンガリー生まれのユダヤ人でした。
17歳のときアメリカに移住し、南北戦争にも北軍兵として参加しています。
その後ミズーリ州セントルイスに移住し、コロンビア大学を卒業したそうですから、元々頭がいい人だったんでしょうね。

21歳のときドイツ語の日刊新聞社に入り、報道に関わることになっていきます。また、22歳でミズーリ州議会議員になりました。

政治に関心があったのか、なかったのかはよくわかりません。この頃から既存の新聞社を買収して新しい会社にするということが続きます。

36歳のときに買収したニューヨーク・ワールド紙は、その中でも躍進を遂げたものの一つでした。
当時この新聞はあまり売れ行きがよくなかったのですが、ピューリツァーによってスキャンダルやセンセーショナルな話題を中心とした紙面に生まれ変わったのです。
彼が米連邦下院議員になった38歳の頃には、同誌の購読者数は40倍にもなっていたといいます。有能すぎ。

しかしこうなると、同業者からのやっかみも買いやすくなるものです。
ニューヨーク・サン紙からは「信仰を捨てたユダヤ人」と誹られました。ユダヤ人の定義の一つが、特定の血筋ではなく、「ユダヤ教を信じるかどうか」ということだからでしょうが……それと仕事に何か関係あるん?(´・ω・`)

他に、セオドア・ルーズベルト大統領とJPモルガンを誹謗して起訴されたこともあるなど、順風満帆ではありませんでした。

ジョーゼフ・ピューリツァー とThe New York World紙/wikipediaより引用

 

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「ジャーナリズムの使命は、社会的不正義と当局の汚職の摘発」

彼の名を冠した「ピューリツァー賞」は、次のような遺志を持って、1917年に創立されたものでした。

「ジャーナリズムの使命は、社会的不正義と当局の汚職の摘発」
「そのためには記者の質を向上させなければならない」

前提が「アメリカのジャーナリズムのために」作られた賞なので、対象は、アメリカ国内の新聞社・通信社に限られます。
意外なのは、テレビやラジオが除外となっていること。
理由がよくわからないのですが……、ピューリツァーの生前には、こうしたものによる放送が一般化されていなかったからでしょうか。

ピューリツァー賞の各部門は後に多岐にわたって変遷してきていますが、多くのものはアメリカ人作者でなければなりません。
しかし、報道部門だけは「アメリカの新聞に掲載されること」だけが条件なので、日本人を含めた外国人も受賞しています。

日本でこの賞に報道写真のイメージが強いのはそのためでしょうね。
報道部門自体は写真だけでなく、社説や時事漫画なども含まれているので、英語力に自信のある方は目指してみてもいいかもしれません。

今のところ、日本人の受賞はいずれも1960年代のものです。
著作権上ここに載せることは難しいかもしれませんので、日本人受賞者の写真をまとめて見られるニュースサイトのページをリンクしておきますね。

【日経BPネット・第2回 ピュリツァー賞と日本人】

ちなみに、リンク先に血みどろのものはないので、安心してご覧ください。
このコーナーでは基本的に残虐な写真は載せませんし、リンク先にそういうものがある場合は注意喚起を入れるようにしております。カメラが一般化してからの時代は、どうしてもそういう写真が出てくることがありますので。事実を伝えるためには必要なことなんですが、最初にそういうものを見てしまうと、一生記憶に残りますから……それで近現代を学ぶことを躊躇するようになるのは望ましくないと考えております。

 

ピューリッツァー賞と日本&日本人

それぞれの写真が撮影された経緯と概要は、以下の通りです。

・1961年写真部門受賞 「浅沼社会党委員長の暗殺」長尾靖撮影(毎日新聞)

当時の社会党委員長・浅沼稲次郎が、日比谷公会堂での自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会でのことでした。登壇中に山口二矢という一般人極右青年に刺殺され、その瞬間を撮影したものです。この演説自体がNHKラジオで中継されており、直後にも特番ニュースで流れています。
近現代史でも衝撃的な事件の一つなので、教科書などで見た人も多いのではないでしょうか。
写っているできごと自体も衝撃的ですが、この写真、カメラに残っていた最後の一枚のフィルムで撮影したものなのだそうです。すごい話ですよね。

・1966年写真部門受賞 「安全への逃避」沢田教一撮影(UPI通信社)

撮影は前年、1965年のことです。
沢田氏は自らの危険を顧みず、ベトナム戦争を取材した勇気あるカメラマンの一人でした。
この写真は、あるとき出会った「銃弾を避けて河を渡ろうとする、母親と幼い子供五人の姿」を撮影したものです。
母親は末っ子と思われる子を左手に抱き、必死に前を向いています。その左側には不安と恐怖で泣きじゃくっているのであろう子がおり、さらにその前後には年長と思われる二人が、とまどいと憎悪の混じったような視線でこちらを向いているところです。

また、沢田氏は同じくベトナム戦争で「泥まみれの死」と題した写真も撮っています。
こちらは、ベトコン兵士の遺体が米軍のジープに引きずられている有様を写したものなので、ここにはリンクを張りませんが……。ご興味のある方はググる先生にお尋ねください。

・1968年写真部門受賞 「より良きころの夢」酒井淑夫撮影(UPI通信社)

実に美しいタイトルですが、残念ながら撮影されたシチュエーションは美しくありません。
こちらも、ベトナム戦争中の一場面を撮影したものです。こちらはベトナム側ではなく、米軍兵のワンシーンとなっています。
黒人の兵士が雨の中、レインコートを被って手前に横たわり、その後ろでは白人の兵士が同じレインコートに身を包んで見張りをしているところを写したものです。

撮影は受賞の前年、1967年のことでした。この頃、米軍や韓国軍は「ゲリラ殲滅のため」として、一般人の大量虐殺その他の戦争犯罪を行っています。
ここに写っている兵士の素性や軍歴は明らかではありませんが、まともな神経の持ち主であれば、自分が関わっていなかったとしても、ただでさえ気の張り詰める戦場で友軍の蛮行を聞かされて、毎日元気にやっていられるわけがないですよね……。
そういった背景を含めて、このタイトルがつけられたのでしょうか。

日本人の撮影したものではありませんが、もう一つ、日本人にとって忘れられない写真も、同じ部門で受賞しています。

・1945年写真部門受賞 「硫黄島の星条旗」

映画のモチーフにもなった、例の写真です。
ピューリツァー賞を受賞した写真の中で、唯一日本国内を写したものでもあります。賞の性質上、悲惨な光景を写したものが多いので、国内で移されたものが少なくて喜ぶべきでしょうか……。
どうせなら、良い意味で強い印象を残す写真も選べばいいと思うのですが、それだと選者の価値観が影響しすぎるからダメなんですかね。

伝統ある賞ですので、他にもピューリツァー賞を受賞した写真や作品はたくさんあります。
最後にもう一つだけ、ピューリツァー賞を受賞した写真にまつわるお話を紹介しましょう。

 

「ハゲワシと少女」のカーターは、その後、自殺という悲劇

撮影はやはり前年の1993年で、撮ったのはケビン・カーターという南アフリカ共和国のカメラマンでした。場所はアフリカの国・スーダンです。
その後の顛末も含めて、これもとても有名な写真ですね。
改めて簡略に経緯をまとめますと……。

スーダンは紀元前2200年頃からの歴史を持つ古い国ですが、他のアフリカ諸国同様、19世紀頃からヨーロッパからの干渉や宗教的対立、資源の取り合いなどで混乱の絶えないところになってしまっています。
この写真が撮影された頃は、第二次スーダン内戦と呼ばれる争いの最中でした。
古今東西、戦乱が起きれば、真っ先に割りを食うのは庶民、そして子供たち。スーダンでも多くの親子が食うや食わずで逃げ続けるという、悲惨な状況にありました。

国連によって食糧配給センターが設けられたものの、全ての人がお腹いっぱいになるほどの量はそうそう行き渡りません。
「ハゲワシと少女」は、とある母親が配給を受け取りに行っている間、子供を地面に置いていたほんの少しの時間に撮られたものです。
「置く」というと人権的にアレな感じがしますが、当時のスーダンではよくあることだったそうで……。

カーター氏も、おそらくいろいろな意味で衝撃を受けたのでしょう。
彼は白人ですが、元々南アフリカ生まれで、黒人への差別などに疑問を抱きながら育ちました。だからこそ、この少女が陥っている状況を写真に収め、世界に呼びかけることへの使命感も湧いたと思われます。

しかし、この写真がニューヨーク・タイムズに掲載されると、絶賛だけでなく批判が彼に押し寄せました。
ほとんどは「写真なんか撮っていないで、この子を助けなかったのか」というものだったといいます。

実際には、カーター氏は写真を撮った後にハゲワシを追い払い、あまりのことにその場を少し離れて泣いていたそうなのですが……。少女も起き上がり、よろけながらも配給に向かったそうです。
つまり、批判した人々が想像したような「センセーショナルな写真を撮ることに固執し、一人の少女をダシにするばかりか見殺しにした」なんてことはなかったのです。

残念ながら、その部分は大きく報道されることはなく、カーター氏への誹謗中傷は膨れ上がりました。
絶賛する声も決して少なくはありませんでしたが、批判は賛辞の数倍・数百倍にも大きく聞こえるものです。
元々細やかな精神だった彼は、受賞を喜んでいたにもかかわらず、たった2ヶ月後に自ら命を絶ってしまいました。

口撃した連中は彼をボロクソに言う前に、スーダンへ支援を行うべきじゃなかったんですかね……。今から始めたところで、カーター氏が生き返るわけではありませんが。
切り取られた映像だけを見て全てを判断することはできないのですから、批判するにしても調べてからにしろと。

情報を得る手段が多くなってきた時代だからこそ、メディア・リテラシー(自発的に複数の情報元を比較し、活用すること)を大切にしたいですね。
第二のカーター氏を生み出すようなことだけは、絶対にあってはなりません。

長月 七紀・記

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参考:ジョーゼフ・ピューリツァー/wikipedia ピューリッツァー賞/wikipedia ケビン・カーター/wikipedia

 





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