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エルナンド・デ・ソト/wikipediaより引用

その日、歴史が動いた アメリカ

探検家エルナンド・デ・ソト へろへろになりながらミシシッピ川を発見し、そして沈む

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現代は、非常に交通網が発達していますよね。
日常的に車や飛行機を利用される方も珍しくありませんし、連絡船やクルージングで一味違った空気を楽しむこともできます。
速さを重視するならばやはり飛行機が一番でしょうが、人類の歴史においては、船が最も効率的な輸送手段であった時代がほとんどでした。今でも、物や目的地によっては船が選ばれたり、そもそも船しか方法がなかったりしますね。
本日はその一端がうかがえる、とある川のお話です。

1541年(日本では戦国時代・天文十年)5月8日は、スペイン人探検家エルナンド・デ・ソトが、ヨーロッパ人で初めてアメリカのミシシッピ川に到達した日です。

地形に関する話ですから、歴史というより地理の授業で目にする話題でしょうか。

しかし、この川はアメリカ合衆国で一番の長さと流域面積(全長3779km・流域面積320万平方キロメートル)。世界一の長さと流域面積を持つアマゾン川の正式なデータがわかるまでは、「世界一長い川はミシシッピ川だ」と考えられていたほどでした。
これだけ大きな川が、歴史に関わらないわけがないですよね。

今回はこの川がヨーロッパ人に発見されるまでの経緯と、その利用についてみていきましょう。

 

下級貴族の出 マゼランに憧れて船乗りとなる

エルナンド・デ・ソトは、スペイン西部・エストレマドゥーラ地方の下級貴族の家に生まれました。生年は1496年か1497年だったとされています。

当時はレコンキスタが終わって、スペイン人やポルトガル人が外洋に乗り出していた時期。イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチによって、南米大陸の存在が明らかになり、まだ見ぬ新天地に憧れを抱く若者がたくさんいました。

エルナンドもその一人で、フェルディナンド・マゼランらに憧れ、18歳ごろまでに船乗りとなり、アメリカ大陸に渡っています。
そしてスペインと中東との交易をスムーズに行うため、大西洋~太平洋における短縮航路の発見に乗り出し、南アメリカの西側を北上して、東西に抜けられる場所を探しました。
現実には、パナマ運河が開通するまでそういう場所はなかったのですが……。

若さゆえの血気もあってか、思うように太平洋へ抜けられるルートが見つからないことに苛立ったエルナンドは、南アメリカの人々を虐殺し始めます。現代だったらただのアレな人ですが、当時は珍しくもないことだったのですから、実に恐ろしい話です。
インカ帝国征服に向かうフランシスコ・ピサロの一行に加わり、インカの莫大な財宝を奪ってスペインへ戻ったことで、一度は落ち着きました。同時期にピサロが同じことをやってますけどね。

 

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キューバ総督となって北アメリカへ

母国に戻ったエルナンドは、英雄として認められ、名家出身の妻やキューバ総督の職を手に入れました。ここから北アメリカ大陸征服へ動くことになります。
ちょうど北アメリカを探検していた人に話を聞くことができ、興味を惹かれてヤル気が出たようです。

数百人のスペイン人とポルトガル人、そして数百匹の家畜を連れて北アメリカ大陸に渡り、探検をスタート。
その過程でさまざまな発見をし、同時に数万人のインディアンを虐殺しております。

彼の一行は記録をつけていなかったようで、正確なルートはわかっていません。
1539年にフロリダに到着し、既に定住していたヨーロッパ人の町に滞在して、インディアンの通訳を雇ったのは確実なようです。

エルナンドが尋ねたインディアンの中には、女性を長とする部族もあったそうです。彼女はエルナンドの一行を快く迎え、真珠や食物などを提供したとか。
どうもエルナンドは、インディアンに対して「やられなければやらない」という方針だったようですね。

というのも、その後、遭遇したらしい別の部族からは、先に攻撃されたため焼き討ちをして徹底的に滅ぼしているのです。
その代わり、エルナンドたちもほとんどの所持品と40頭の馬を失い、丸腰になった上、病気や怪我で身動きが取れない者も出ました。更には、交渉失敗によりインディアンの怒りを買って多大な損害を受けたりしていますし。

インディアンを虐殺するソトの軍隊/wikipediaより引用

 

障害としか見なさなかった川の中に沈められる因果

こうしてズタボロになったエルナンドたちが次にたどり着いたのが、ミシシッピ川でした。
歴史的に見れば偉大な発見ですかれども、上記のような状況だったので、エルナンドは雄大な光景よりも「任務の障害」としかみなさなかったようです。
周辺のインディアンからも妨害を受け、ボートを作って川を渡るのに一ヶ月かかったとか。

その後はさらに西への旅を続けましたが、インディアンの通訳が亡くなってしまったため、インディアンとの交渉が難航して行き詰まります。
やむなく引き返した後、エルナンドは1542年5月21日にミシシッピ川の西岸で熱病により亡くなったそうです。

スペイン人たちは「エルナンドは太陽神の化身である」とインディアンに言っていたため、遺体を隠そうとしてミシシッピ川に沈めたといいます。
障害としかみなさなかったところへ沈められるとは……何の因果でしょうか。

その後、エルナンドの隊は3年間アメリカを旅しましたが、あまりにうまく行かなさすぎて内紛まで起こしています。オイオイ。
当初700人いた一行は半減。ほとんどの者がヨーロッパへの帰還を諦め、中米などスペインの植民地に住んだとか。

 

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今もアメリカ中部の運送を支えている

ヨーロッパ人のアメリカ入植が進んだ後、ミシシッピ川は輸送路として活用されていきました。

といっても川の勢いが強すぎて、上流へ行くことは難しく、上流から下流へ荷物を送る片道利用が主な利用法という時代が長く続いています。
蒸気船が開発されてからは双方向への移動が可能となり、交易路として本格的に活用されていきました。
おそらくは、エルナンドが沈められた地点を通った船もたくさんあったでしょう。怪談になりそうです。

そして、物流の要所は戦争で奪い合われるもの。
アメリカ最大の戦争である南北戦争でも、ミシシッピ川周辺は戦線となりました。といっても、主戦場である東部・西部戦線からは離れていたため、小競り合いで済んでいますが。
こんなデカイ川を完全に支配下にするとしたら、たぶん南北両軍の全員をかき集めても足りなかったでしょうね。

その後は現在に至るまで、周辺の穀物農場からもたらされる小麦やトウモロコシ、大豆などの輸送ルートとなり、アメリカ中部の運送を支えています。
ハリケーンなどにより、数十年に一回程度のスパンで大洪水が起きますが、それでも周辺に都市や農場が多いのは、輸送面のメリットが大きいからでしょうね。
2005年8月のハリケーン・カトリーナによるニューオーリンズ市の被害状況は、日本でも大きなニュースになりましたので、ご記憶の方も多いハズ。

とはいえ、川や海の側は都市を作るには適した場所でもあります。そして文化も栄えていきます。
「トム・ソーヤーの冒険」などを書いたマーク・トウェインは、ミシシッピ川沿いの町・ハンニバルで過ごした少年期の思い出を元ネタにしました。
また、音楽の分野ではブルースがメンフィス及びセントルイス、ジャズがニューオーリンズで生まれ、世界中に伝わっています。

アメリカがデカイ国というのは周知の事実ですけれども、こうしてみるとミシシッピ川流域だけで一つの国になりそうなほどですね。
何らかのタイミングで「アメリカは分裂するかも」といわれることがありますが、ミシシッピ川流域なら自給自足でもやっていけそうです。

長月 七紀・記




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参考:ミシシッピ川/wikipedia エルナンド・デ・ソト/wikipedia

 




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