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エドウィン・ダン/Wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

北海道畜産業の父エドウィン・ダン そして米国発のお雇い外国人は日本に骨を埋めた

更新日:

歴史に限らず、地理や政経などの社会科科目というのは、実に人気のない学問です。
「覚えることばっかりで、何が何だかわからない」
それが主な理由かと思われますが、大人になってから「その言葉にそんなルーツがあったんだ!」とか「こんなに離れてるのに同じ地名なのってどうして?」といった面白みが見えてきたりしますよね。
ふるさと納税の返礼品で選ばれるような各地域の特産物も、その裏側にはいろいろなストーリーが隠れています。
本日は「○○地方といえばコレ」の代表格であろうと思われる分野の、黎明期に関わった人のお話をいたしましょう。

1931年(昭和六年)5月15日は、獣医師のエドウィン・ダンが亡くなった日です。

明治政府に雇用された「お雇い外国人」の一人で、北海道にとても深いゆかりを持っています。札幌市に彼にちなんだ場所がいくつかありますので、札幌市民の方はご存じかもしれませんね。
エドウィンは、アメリカのオハイオ州に生まれました。幼少期から父や叔父の農場で牛や馬の扱いを覚え、マイアミ大学を卒業してから日本へやってきました。幼い頃から培ってきた畜産の知識を買われたのです。

 

食べるために家畜を育てるなんて、発想そのものがなかった!?

当時の日本は「西洋に追いつけ追い越せ」というモットーを掲げていました。

その中には「肉食を取り入れ、国民の体格を良くすること」も含まれています。明治天皇が牛肉を食されたのをきっかけに、牛鍋などの肉食が庶民に広まったのは有名な話ですよね。
それまで日本では「食べるために家畜を育て、増やす」という概念がほとんどありませんでした。やらないことのノウハウはもちろんないわけで、そこも欧米から学ぶ必要があったのです。

また、この時代はまだ自動車が普及していませんから、移動や輸送手段でよく働いてくれる良い馬を育てることも急務でした。

そんなわけで、日米のお偉いさんの間で「うまく教えてくれる人を派遣しよう」という話になり、選ばれたのがエドウィンだったのです。

当初は1873年からの一年契約の予定でしたが、実際には10年近く北海道で畜産や獣医学の指導に当たっています。
初めて日本にやってくるとき、彼はアメリカから100頭前後の牛と羊、そして農耕具を持ち込んでいるので、元々かなりやる気はあったようです。

また、函館で出会った日本人女性・つると結婚したことで、日本に長く逗留することを決めたといいます。愛の力ってすげー!

 

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荒い馬は乗りこなすでなく去勢する

エドウィンは、それまで日本人が持っていた家畜との付き合い方を、少しずつ変えていきました。

例えば、馬の気性についてです。「じゃじゃ馬」という言葉がある通り、日本では「荒い馬を乗りこなしてこそ一人前」という価値観が長く続いていました。
しかしエドウィンは、「気性の悪い馬を去勢し慣らしやすくするとともに、荒っぽい馬の子孫は残さないほうが良い」という考えをもたらしたのです。

当初は反発もあったようですが、当時の日本で馬術の第一人者だった函館大経(はこだて だいけい)が賛同したことで、徐々に広まっていきました。

畜産の他、彼は北海道で育ちやすい農作物の実験もしています。
これは、牛や羊の飼料を確保するためでもありました。北海道の中で飼料の供給ができれば、安定して食肉や乳製品を作ることができるからです。

田畑に安定して水を入れるため、真駒内用水も作っています。現在、農業用水としての役割は終えたものの、札幌市に残っており、かつての面影がうかがえます。

かくしてバター・チーズ・練乳などの乳製品や、ハム・ソーセージといった肉加工品の生産が可能になり、北海道は畜産王国としての第一歩を踏み出したのでした。

 

アメリカ公使館の二等書記官として再来日

エドウィンは、北海道開拓使が競馬場建設を計画したときにも協力しています。

当時は直線や四角形のコースだったそうですが、エドウィンによって現在のような楕円形のコースが提案され、西洋式の競馬が行われるようになりました。
直線はともかく、コースが四角形だと馬がすごく走りづらいと思うんですが……事故の危険性とかなかったんですかね?

1883年に契約が切れたため、エドウィンは一時帰国しました。そして日本での業績を高く評価したのが他ならぬアメリカ本国でした。
エドウィンは、帰国の翌年には、アメリカ公使館の二等書記官として再来日し、徐々に昇進して1893年には公使にまでなるのです。

公使就任の翌年に日清戦争が勃発したとき、エドウィンは和平交渉のため力を尽くしたといいますから、すっかり親日派になっていたのでしょう。もちろん、アメリカのためでもあったでしょうけれども。

公使を辞任した後は、アメリカ資本で作られた日本の石油会社の直江津支店支配人や、三菱造船東京本社に勤務、1931年に亡くなるまで日本に留まっています。

この時代の外国人の中では、日本に入れ込んでくれていた一人といえるでしょうね。お雇い外国人として長く日本に滞在しても、母国に帰った人のほうが多いですから。

同じく北海道で農産・畜産に関わっていた、クラーク博士とは対照的ともいえます。クラーク博士も日本が嫌いだったわけではなさそうですけどね。

また、アーネスト・サトウのように、日本での最期を望みながらも果たせなかった人もいます。
交通網が現代ほど発達していなかった時代ですから、エドウィンも「一度日本を離れたら、次はいつ来られるかわからない」と考えて、ずっと日本で過ごすことを選んだのかもしれません。

それは奥さんへの愛のなせるわざだったのか、はたまた個人的に抱いた日本への愛着だったのか。

せっかくなら、両方であってくれると、後世の我々としても嬉しいですね。

長月 七紀・記




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参考:エドウィン・ダン/Wikipedia 真駒内用水/Wikipedia 畜産/Wikipedia 農林水産省

 




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