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その日、歴史が動いた 幕末・維新

ラザフォード・オールコック~幕末維新の日英関係を築いた地味な功績

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「今は辛くても、そのうちいいことがあるって」
何か悩みを相談したときに、こんな感じの答えが返ってきて、がっかりしたことがある人はかなり多いのではないでしょうか。
「そんなこと言われたって、今の辛さがなくなるわけじゃないじゃないか!」と思いますよね。
しかし世の中には、本当にそれをやってのけるどころか、全く別の道へ進むことによって、歴史に名を残したような人もいるのです。人生の転機というやつですね。
本日はその一例であろう、日本に縁のある人のお話です。

安政五年(1859年)5月26日は、初代イギリス駐日総領事ラザフォード・オールコックが着任した日です。この時期の日英関係を語る上で欠かせない人であり、当コーナーでもたびたび名前を挙げさせていただきました。

まあ、一番印象が強いのは富士山事件ですが、それ以外の仕事はきっちりやっています。当たり前か。
それでは、今回は彼の生涯を見ていきましょう。

ラザフォード・オールコック/Wikipediaより引用

 

両手の親指が動かなくなり医業を断念 外交官となる

当初、ラザフォードは外交ではなく医学の道を志し、外科医として働いていました。父親が医師だったからです。

一方で彫刻にも興味を持ち、プロに弟子入りしていたこともあります。他にフランス語やイタリア語も学んでおり、元々興味の幅がかなり広い人でした。いかにも文化人や外交に向いていそうですね。

人生どこでどう転ぶか、何が功を奏するかわからないのが面白いところです。
1832年からイギリス軍の軍医として、戦争中のイベリア半島に赴くことになります。当時このあたりはナポレオンのいらんおせっかいやら、北アメリカの植民地を失うやらで、非常に不安定な社会でした。そこから内乱まで起きる上、ヨーロッパの戦争あるあるの通り、周辺諸国が手と口を突っ込んでくるのですから、たまったものではありません。

ラザフォードも、この戦争で個人的に大きな被害を受けました。
軍医の激務と戦場のストレスからリウマチにかかり、両手の親指が動かなくなってしまったのです。

これは外科医として致命的なことでした。
医療の道を断念せざるを得なくなったものの、ラザフォードはこれまで身に着けてきた語学や、生まれ持っての好奇心を活かし、外交官として再出発することを決めます。

一方その頃、イギリスはアヘン戦争で清をフルボッコにしていました。

アヘンを吸う中国人/wikipediaより引用

 

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極東のプロとして今度は日本へ

当然、本国にも戦争の知らせが来るわけです。ラザフォードはこれまで見たことのない国に興味を抱き、自ら駐在を希望して清へ渡り、そして、実に15年もの長きに渡って働き続けました。

租界(清国内の外国人居留地)の発展や、領事裁判権などの難しい仕事を成し遂げる一方で、「もう一発清をぶん殴って、こっちに商売が有利になるようにしましょう」(超訳)と進言し、アロー戦争を引き起こす一因にもなっています。
この辺は当時の欧米人にありがちな白人主義や帝国主義からきたものでしょうか。

そして清での仕事が一段落ついた頃、日英修好通商条約が結ばれたことにより、「極東のプロ」としての手腕を買われて日本に駐在することが決まります。

本国の外務大臣である第三代マームズベリー伯爵ジェームズ・ハワード・ハリスが「日本も中国もそんなに変わらないだろうから、君の経験が大いに役に立つと思う。期待しているぞ」(意訳)という手紙をラザフォードに送っているくらいですから、期待のほどがわかるというものです。

しかし、当時の日本については、清にすらほとんど情報が伝わっておらず、ラザフォードもほとんど何も知らないまま任務につくことになりました。ハードモードすぎるやろ。

その時代に資料を買い漁ったペリーやら、日本語をマスターしてたレオン・ド・ロニーやらの努力のほどがうかがえます。

 

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テンぱってる日本を相手に粘り強く交渉を続ける

こうして無茶振りをされたラザフォードは、まず長崎にやってきました。

後から長崎に赴任する駐在員が来ることになっていたので、ここで日本の空気に慣れつつ、待ち合わせをしょうと考えたのです。彼は長崎の景色をいたく気に入ったようで、後々著書の中で絶賛しています。

後述する日本の遣欧使節のスケジューリングの要として「使節団がイギリスやフランスが美しく見える季節に到着する」ことを念頭に置いたのも、自分自身が景色から来る異国の第一印象を好意的に見たからでしょうか。
第一印象が良いと、その後のやりとりも好感を持って取り組めますものね。

その後は海路で東海道沖を通り、品川沖にやってきました。そこから江戸幕府側と何度か交渉を重ね、高輪の東禅寺に滞在することになります。

ハリス外務大臣から「日本は今西洋諸国と一斉に交渉することになってテンパってるだろう。だからこっちの話がうまく伝わらなかったり、なかなか話が進まないかもしれないが、根気強く交渉するように」(意訳)と言いつけられていたので、某国お得意の棍棒外交や砲艦外交ではなく、あくまで粘り強く交渉を進めていきます。
当時の日本は「清のついでに確保しとけば便利になりそうなところ」という認識だったからかもしれません。これが後々日英同盟や日露戦争に繋がるのですから、さすが大英帝国様の慧眼という感じですかね。

神奈川や横浜に出かけ、庶民の生活や活気を褒めつつ、幕府が開港地を神奈川から横浜に変えてしまったことには厳重抗議したり、締めるべきところは締めました。

このとき江戸幕府が「横浜は神奈川の一部です!!」とゴリ推したことは有名ですが、ちゃんとした理由があります。
「神奈川だと江戸に近すぎるし、既にデカイ宿場町になってるから攘夷派が紛れやすい」
「何かあったら困る」

「ちょっと離れたところに新しく外国人を受け入れる町を作ろう!
横浜あたりならデカイ船も入りやすくていいんじゃね!?
最初から外国人向けって触れ込みにすれば、開国賛成派が集まって攘夷派は来にくくなるよね!」
という感じだったのです。

 

浅草の仲見世で買い物を楽しんだことも

しかし、これがきちんとラザフォードや他の外国公使に伝わっていなかったようで、要らぬ誤解を招きかけました。

幕府としても自ら外国に「すいません、ウチもう求心力ないんですよ^^;」なんて暴露はしたくないでしょうし、あえて説明しなかったのかもしれませんが。
とはいえ、イギリス商人たちも「日本側がそう言うならここで商売すっか」みたいな感じであっさり受け入れてしまったので、ラザフォードも従わざるをえなかったのですが。

ラザフォードは来日当初から長崎の風景を絶賛していたり、自分たちを見物する日本の庶民が大人しいことに好感を持ったり、基本的に日本には好意的でした。富士山への旅行中もですが、箱館へ視察を兼ねた旅行に行ったときも、市場に出かけて物価の安さに驚いたりしています。
駐在先の東禅寺近辺だけでなく、浅草の仲見世を歩いて買い物を楽しんだこともありました。本国の外務大臣あてに「日本で面白いものを見つけたので、お子さんにどうぞ」とお土産を送ったりもしています。

しかしヴィクトリア女王と大英帝国の威厳を損なわないこと、今後の二国間関係に支障をきたさないことがそれ以上に重要であり、ピリピリしている時期もありました。
一部の書簡では、上司に対するものとは思えない言葉遣いにもなっています。

 

攘夷派の台東で石を投げられたり刀を抜かれかけたり

1860年代に入って攘夷派の活動が活発になると、あまりのんびりしていられなくなりました。

道を歩いていて石を投げられたり、攘夷派と思われる武士に半分刀を抜かれたこともあるようで。子供か。

また、来日前から付き合いのあったアメリカ駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンが攘夷派の襲撃でブッコロされてしまったことで、彼らだけでなく日本に駐在中のヨーロッパ人が警戒し始めました。そりゃそうだ。
特にラザフォードはハリスやヒュースケンと前々から付き合いがあったので、「欧米の公使は横浜へ移るべきだ」と強調しました。が、ハリスが強固に反対したために、二人の仲はこじれてしまいます。

これには、イギリス代表とアメリカ代表というビミョーな関係も影響していました。
この時点だと、アメリカが独立してからまだ100年も経っていません。元宗主国vs元植民地という構図です。さらに、清国に15年駐在した経験があるラザフォードから見て、ハリスは「商人上がりの半人前」なわけです。

また、日本の公的使節団がヨーロッパではなく、先にアメリカへ行ったこともラザフォードにとっては不服でした。「あんな野蛮な新興国を先に見て、偉大なる西洋文明を理解したつもりになられたらたまらない」というわけです。
これをラザフォード自身が本国への書簡で書いているのですから、もうね。

 

襲撃されてさすがにヤバイ 英国水兵を常駐させて

閑話休題。
あっちこっちへ敵意や蔑視を向けつつも、彼はなんだかんだで良心のある人間でした。
桜田門外の変にも大きな衝撃を受けたラザフォードは、見舞いの手紙で「こちらの医師を派遣しましょうか」と申し出てたことがあります。恩を着せる意図もあったでしょうが、全く人道的な観点がなかったとも思えません。
幕府により断られていますけれども。

ラザフォード自身も、1861年に居留先の東禅寺で襲撃されてしまいました。
彼は無事でしたが、イギリス側の負傷者は当然いました。これを機に、ラザフォードはイギリス水兵を東禅寺に駐留させるよう求めています。
そこまで手が回らない幕府も、承認せざるを得ませんでした。

ラザフォードは幕府の求心力低下と同時に、開港延期の必要性を悟ります。
公使をブッコロしに来るようなヤツがうろちょろしている状況では、例え開港して正式にお付き合いを始めたとしても、自国の死傷者が増えるばかりでメリットが少ないからです。

そのため幕府からの遣欧使節をサポートしたり、本国政府に直接事情を説明するために自ら帰国したりと、各所で骨を折りました。
帰国のついでに「大君の都」という日本訪問記をロンドンで出版しています。この本で特に日本の景観についてべた褒めしているのですが、やはりキリスト教徒故か「彼らは偶像崇拝者なので死後は地獄に落ちる劣等民族である」とも書いていました。
まあ、この時代じゃしょうがないというか、むしろ多数派というか。

 

生麦事件や薩英戦争などで国内はさらに過激化すると……

一方で「ロシアとお付き合いをするのはやめてね^^」と圧力をかけ、対馬に滞在していたロシア艦を退去させています。

現代では当たり前のことですが、この時代に西へ東へとよく頭が回るものです。IQ計ったらどのくらいだったんでしょうね。
日本への帰任は、元治元年(1864年)のことでした。

この間に生麦事件や薩英戦争などが起き、日本国内での攘夷派はより過激化しています。
その中でラザフォードは下関事件などに関わりましたが、代替わりしていたイギリス外務大臣ジョン・ラッセルに「手荒なことすんな」(超訳)と言われて、かつての部下であるハリー・パークスに駐日公使を引き継ぐことになりました。

これによほど腹を立てたらしく、その後「ラザフォードのやり方が良かったんじゃないか」といわれるようになり、再任を要請されても断っています。

1865~1869年までは北京にいましたが、その後外交官を引退し、イギリスへ帰国。
王立地理学会などで勤め、1897年にロンドンで亡くなりました。88歳の大往生です。

彼の最晩年に日清戦争が起きているので、早く帰国していたのは正解だったかもしれませんね。
なんだかんだで、常に運命の女神に微笑まれていたかのような生涯だった……というと言い過ぎでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:ラザフォード・オールコック/Wikipedia





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