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菊池容斎画の北条政子(江戸時代)/Wikipediaより引用

女性 鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

伊賀氏の変で最後の政敵を始末して……自身も散った北条政子

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北条政子のラスト政争は……

「名は体を表す」ということわざがあります。
(成長前につけたはずの)名前が、その意味の通りに人格が出来上がっていく……これって、なかなか興味深い現象ですよね。
日本史でもその例がいくつかありますが、本日はこれが最も当てはまりそうな、あの女性、最晩年のお話です。

嘉禄元年(1225年)7月11日は、北条政子が亡くなった日です。

「日本史上の女傑」といわれたら、おそらく5人に1人ぐらいは彼女の名を挙げるでしょう。他は卑弥呼や日野富子あたりでしょうか。
その二人と比べても、政子は一線を画しています。若い頃は頼朝が他の女性に興味をもつ度に嫉妬し、鎌倉幕府ができてからは承久の乱に怖気づく御家人たちを叱咤し、晩年には政争に見事勝利しているのですから。
今回は彼女が関係したラストの事件・伊賀氏の変について、見て参りましょう。

 

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小姑と嫁 リスキーな関係の上に強大な権力も絡む

事件とは「伊賀氏の変」と呼ばれるものです。
伊賀氏は、政子にとって少々厄介な存在です。彼女の弟にして当時の執権・北条義時。その二人目の正室が”伊賀の方”であり、伊賀氏とはその実家です。

つまり、政子と伊賀の方とは「小姑と嫁」という関係になります。伊賀の方から見れば、政子は義理のお姉さま♪ いや、これは、現代でも嫁姑と同じくらい、揉めごとが起きやすい間柄ですよね。

しかもこの場合、「鎌倉幕府の執権」(実質的にナンバー1)という超弩級の権力が絡んでおります。

こうしたフラグが乱立する中、義時が政子よりも先に亡くなってしまったからさぁ大変。
当然、伊賀の方は自分の息子・政村を次の執権にし、自分と実家の立場を強めようと企みます。さらに、娘婿の一条実雅(さねまさ)を次の将軍に据えようと考えました。

一条実雅は名字からもわかる通り、京都の公家出身の人です。
この時点からさかのぼること6年前、彼は凄惨な場面に立ち会っております。源実朝が鶴岡八幡宮参詣をするときのお供をしており、目の前で実朝の暗殺を目撃してしまったのでした。

さらに、実雅からみて姉の孫にあたる九条頼経が公家将軍となったため、鎌倉への長期滞在を余儀なくされました。そこで政争にまで巻き込まれたわけですから、実に気の毒です。

 

自分の息子を執権に? そうはいきませんことよ

伊賀の方は、有力な御家人である兄・光宗と相談を重ね、計画を推し進めようとします。
しかし、ドコからか漏れた情報を政子が聞きつけました。

「義時には前の正室が産んだ長男がいるんだから、そちらが先に執権になるべき!」
として、義時の長男・泰時を執権に任じたのです。

泰時からすれば、「伯母さん手際良すぎ……こわ……」と思ったでしょうね。
政子は手抜かりなく、伊賀の方と光宗、そして実雅を方々へ流罪にしました。実雅かわいそう過ぎる。

泰時の異母弟でもある政村は、カーチャンの陰謀について積極的に乗ったわけでもなかったらしく、重罪とはみなされませんでした。
元々真面目な性格だったのか、幕府の要職を歴任し、60歳近くになってから第七代執権になっています。

また、「首謀者は伊賀の方で、光宗はそそのかされた側」と判断したようで、光宗は後に幕政に復帰することを許されました。
おそらく政子は、「親族を罰しすぎると、後々幕府のためにならない」ということを重視したのでしょう。かつて夫が範頼や義経を死に追いやったことで、源氏の血が絶えてしまったわけですしね。
範頼のほうは政子の責任も多少ありますし。

伊賀の方だけは唯一許されず、配流先の伊豆で数ヶ月後に亡くなりました。これまたきな臭いタイミングですね……。

 

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事件の処理が済むと、力を使い果たしたかのようにご臨終

ちなみに、泰時のカーチャンである”姫の前(ひめのまえ)”は、この頃既に亡くなっています。
彼女の実家は比企(ひき)氏といい、これまた鎌倉幕府の黎明期に「比企能員(よしかず)の変」というクーデター未遂を起こしていました。
こちらは二代将軍・源頼家の側室である若狭局絡みで起きたものです。

姫の前と若狭局との血縁関係ははっきりわかっていませんが、比較的近い親戚だったようで、変の直後に義時と離縁させられていたと考えられています。
この時代、罪状が親戚にまで及ぶのは珍しいことではありませんからね。

その後は京都で源具親(みなもとの ともちか)という公家の妻になり、息子を一人産み、その3年ほど後に亡くなりました。

政子自身は、伊賀氏の変の後処理が済んだ翌年、力を使い果たしたかのように病床に伏し、そのまま亡くなっています。

最後の最後まで幕府のために闘い尽くした政子と、政争からもこの世からも一抜けしたような人生を送った姫の前……と考えると、対照的な生涯とも思えますね。
伊賀の方は……うん……。

頼朝と政子の銅像

長月 七紀・記




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参考:北条政子/Wikipedia 伊賀氏の変/Wikipedia





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