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メアリー1世/wikipediaより引用

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イギリス その日、歴史が動いた

メアリー1世から息子ジェームズ1世へ イングランドとスコットランドを束ねた親子

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「良い君主」の絶対条件って、一体何だと思いますか?
「慈悲深いこと」を真っ先に挙げる方も多いかと思われますが、古今東西、優しいがために自らの首を絞めた君主も少なくありません。
個人的には「バランス感覚」ではないかと思います。宗教と世俗、一族の統率、他国との関係などなど、我を通すばかりでも、他人の言いなりになってもうまくいかないことは多いですよね。
今回はその感覚の差が垣間見えそうな、とある王様たちのお話です。

1567年(日本では戦国時代・永禄十年)7月26日は、スコットランド女王メアリー1世が廃位された日です。

スコットランドというと近年の独立投票などもあり、なんとなく「イギリス(イングランド)と仲が悪い国なんだな」というイメージが強いでしょうか。
しかし、それと同じくらい切っても切れない関係なのがこの両国です。今回のお話もその辺に関わってきます。

 

立ちはだかったのはエリザベス1世

メアリー1世は、母親がフランス貴族だったこともあり、当初フランス王フランソワ2世に嫁いでいました。
しかし子供に恵まれないままフランソワ2世が若くして亡くなったため、スコットランドに戻ることになります。

また、母親がイングランド王ヘンリー7世の娘(離婚と結婚を繰り返した ヘンリー8世の姉)だったことから、イングランド王位を主張していました。

当時のイングランド王はかのエリザベス1世ですから、当然これは面白くありません。しかし、エリザベス1世は一時期庶子とみなされていたため、それを引きずって「エリザベス1世は正式なイングランド王ではない」とする人々が国内外にたくさんいたのです。

そのため、メアリー1世のやりようによっては、スコットランドとイングランド両方の王様になることも不可能ではなかったのです。

彼女は並行して再婚相手を探していました。
王様にとってもっとも重要な仕事の一つは、跡継ぎを設けることだからです。
国内外の候補者をいろいろと考えましたが、最終的にはいとこであるダーンリー卿ヘンリー(以下“ヘンリー”)を選びました。

これに対し、強く反対したのがエリザベス1世です。
上記の通りエリザベス1世を「庶子だから正式な女王ではない」と言い張る者が少なく、ヘンリーがイングランドの王位継承権を持っていたため、もしもここで男性かつ庶子とはみなされていないヘンリーの権力が強まってしまうのは非常にマズかったのです。

エリザベス1世はヘンリーの母親を人質にとってロンドン塔に幽閉しましたが、ヘンリーはロンドンには来ませんでした。

 

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再婚相手のヘンリーは女好きのくせに嫉妬が激しく

かくしてメアリー1世はヘンリーと再婚。出会いから3ヶ月のスピード結婚でした。イヤな予感がしますね。
ベタ惚れだったのはメアリー1世のほうだったらしく、ヘンリーを特別扱いしまくります。
嫡流の王族にしか与えられない爵位だけでなく、王位継承権も正式に認めてしまい、他の貴族から反感を買ってしまったのです。

ところが、です。
ヘンリーは非常に傲慢な性格で、女好きという大きな欠点も持っていました。
女王の夫であるにもかかわらず、公然と浮気するという不届きぶり。というか、カトリックが多数派のスコットランドでは常識的にかなりマズイ行いです。
メアリーが病気で寝込んだときも、ほんの一瞬しか見舞いに行かず、9日間も狩猟に出かけていました。

ヘンリー・ステュアート/wikipediaより引用

かくしてメアリー1世は結婚を後悔し、ヘンリーから国王の称号を取り上げます。

夫に失望した彼女は、やがて秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛し、重用していきました。
彼はイタリア人の音楽家で、有能かつ気配りのできる男でした。また敬虔なカトリックであり、忠誠心も高かったようです。

そこで、よからぬ妄執にとらわれたのがヘンリー。
「メアリーが冷たくなったのは、ダヴィッドと浮気しているからに違いない!」
彼は自分の行いを棚に上げて、妙な思い込みに走ります。
実はダヴィッドは、メアリーとヘンリーの結婚を祝福した数少ない人物であったにもかかわらず、です。

このとき不幸なことに、異国人で急激に出世したダヴィッドをやっかむスコットランド貴族も多くいました。
彼らはヘンリーと共にダヴィッド暗殺を企み、ヘンリーに「ダヴィッド暗殺が成功したら、あなたを国王にしますよ」と餌をぶら下げます。

そして1566年3月9日。
ホリルード宮殿というところでメアリー1世と親しい人々が談笑していた時、突然現れた一団によって、ダヴィッドは滅多刺しにされ、亡くなってしまいました。

 

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ヘンリー暗殺! 結局、メアリー1世は王位を剥奪され……

当時、メアリーはヘンリーの子供を妊娠しており、流産してもおかしくないほどのショックを受けたといいます。そりゃそうだ。
それでも何とか持ち直し、3ヶ月後にメアリー1世はジェームズ6世(以下”ジェームズ”)を産みました。

事ここに至っても、ヘンリーはまだダヴィッドとの関係を疑っていたといいますからどうしようもないですね。
自分も浮気しまくってたくせに、よくそんな態度を取れたもの……と言いたいところですが、他にも一応理由がありました。

メアリーに子供が生まれてしまえば、ヘンリーがスコットランドとイングランド両国の王になることは難しくなるからです。
しかし、ジェームズがダヴィッドとの子であれば、庶子ということになるため継承権は発生しません。ヘンリーはそれを狙っていたのでしょう。

これによって、夫婦仲は更に冷えていきました。
メアリー1世にヘンリー暗殺を進言した者までいたそうですが、さすがにそれはメアリーに退けられていますが、その後、ヘンリーはあっけなく暗殺されてしまうのです。

ヘンリーを殺した犯人は誰なのか?
暗殺はダメだというメアリーの直前の態度から、一瞬、彼女とは関係のない事件にも思えるかもしれません。

しかし、コトはそう単純でもありません。
というのもメアリー1世はこの後、別の貴族と三度目の結婚を果たすのですが、その貴族こそがヘンリー暗殺の首謀者だと思われていたのです。
もう疑惑は真っ黒黒ですわな。

かくして2人の結婚は貴族や世間から大反対され、反乱軍が決起。
メアリー1世は捕えられ、スコットランド王位から降ろされてしまった……というわけです。

 

16歳にして反対勢力を粛清し親政を始める

次にスコットランド王になったのはメアリー1世の息子ジェームズでした。
当然、親政はできない歳ですので、メアリーの庶兄マリ伯ジェームズ・ステュアートが摂政に就くものの、そのマリ伯も1570年に暗殺されてしまいます。

その後、3人の貴族が次々に摂政になり、彼らもまた「暗殺・寿命・処刑」という、一名を除いて立て続けに不幸な最期。
最後の摂政は、ジェームズが他の貴族を寵愛したため「邪魔になったから」というひどすぎる理由での処刑です。
そうした強引さが貴族たちの間で懸念材料になったらしく、まだ若いジェームズは一度、軟禁されたことがあります。

しかし翌年脱走し、軟禁の首謀者を処刑して親政を始めるのですから、いやぁ、とんでもない。
なんせこのときジェームズ16歳。高校生にしてこの所業、怖すぎます。

ジェームズはその後、政治に目覚めたのか、カトリックvsプロテスタントの対立問題などを解決しようと、積極的に取り組んでいきます。
それが神様のお眼鏡に叶ったのか、36歳のとき思わぬ椅子が転がり込んできました。

「イングランド王位を兼ねてもらえませんか」
と、提案されたのです。というのもイングランド王エリザベス1世が危篤になったためで、彼女の秘書であるロバート・セシルからの話でした。

いや、もう、血筋的にはややこしい話なんすけどね。
メアリー1世の祖母がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダー、曽祖父がイングランド王ヘンリー7世のため、メアリー1世の息子であるジェームズにもイングランド王位継承権がある……ということになるわけで。ややこしい。

エリザベス1世がジェームズのイングランド王位継承について同意していたかは不明ですが、結果としてジェームズはスコットランド王とイングランド王を兼ねることになりました。

ジェームズ1世/wikipediaより引用

 

いったん王位に就くやキッチリ仕事をしております

ここからイングランドはステュアート朝が始まります。
ジェームズはイングランドの暮らしが気に入ったようで、その後ほとんどスコットランドには帰りませんでした。

イングランド王を兼ねるようになってからは、宗教問題やイングランド・スコットランドの統一などに積極的に動いています。
英国国教会や清教徒(ピューリタン)の代表者を招いた会議を行ったり、それぞれの政府に統一について話したりしたのですが、二点とも双方に大反対されて一筋縄ではいきません。

しかし、通貨の統一や「グレートブリテン(島の)王」という新しい称号を用いたり、ユニオン・フラッグの第一段階を作らせたりと、「私はスコットランドとイングランドの統一を切望している」というアピールを大々的に行っています。

当時イングランドは「セント・ジョージ・クロス」、スコットランドは「セント・アンドリュー・クロス」という旗を国旗としていました。
現代でも、スポーツの国際大会などで両国が別々に参加する際は、これらの旗が使われていますね。

ジェームズはこれらを両方使用した旗を新たに作るよう命じ、その中から二枚の旗が同等に使用されているデザインを選びました。他の旗は組み合わせだったり、イングランド国旗のほうが大きかったりしたので、「統一を象徴するにはふさわしくない」と判断したのだとか。
割と公平な理由ですね。

セント・アンドリュー・クロス/wikipediaより引用

セント・ジョージ・クロス/wikipediaより引用

 

なんやかんやで六代続いたスチュアート朝

外交に関しては、エリザベス1世の頃に敵対していたスペインと和解しました。

しかし、反スペインのため関係を強めていたオスマン帝国とは「ウチはキリスト教徒だから、イスラム教徒の国とは付き合いたくありません」と言い始めます。
後者については、重臣や東方との貿易を行っていた商人たちから大反対され、撤回しましたが。
その代わり、オスマン帝国大使館の費用を商人たちに負担させるようにしています。

ジェームズは両親のアレコレや若い頃の経験から、「自分の感情を優先させたり、強硬手段に出ることは得策ではない」と考えていたのかもしれません。
彼自身やその子孫も決して万能ではありませんでしたが、ジェームズを初代とするスチュアート朝はここから六代に渡ってイングランド・スコットランドを統治していくことになります。

また、ジェームズの五女ゾフィーがドイツのハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁ぎ、産んだのがハノーヴァー朝の初代・ジョージ1世です。
さらに、ハノーヴァー朝は第一次世界大戦時に「ドイツは敵国だから、ドイツ由来の王朝名はふさわしくない」という理由で現在のウィンザー朝に名前を変えています。
つまり、現在のイギリス王室の直接の祖先がジェームズということになるわけです。

王朝名が変われど、400年間血が続いている……というのはやっぱりスゴイですね。

長月 七紀・記

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参考:メアリー_(スコットランド女王)/wikipedia ジェームズ1世_(イングランド王)/wikipedia

 





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