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フランス その日、歴史が動いた 女性

デュ・バリー夫人の処刑 フランス革命で殺された、とある公娼貴婦人のナゾ

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「ドラマチックな生涯」というと、何となく大成功したかのようなイメージが真っ先に浮かびますよね。
しかし、一時は上り詰めながらも転がり落ちた、という人も多々います。むしろそちらのほうが多すぎて、注目されないのかもしれません。
今回は後者の一例である、とある女性のお話です。

1743年(日本では江戸時代・寛保三年)8月19日は、デュ・バリー夫人ことマリー=ジャンヌ・ベキューが誕生した日です。

漫画「ベルサイユのばら」などでは悪人枠で描かれており、彼女も時代に揉まれた一人でした。
「マリー」だとマリー・アントワネットと紛らわしいですし、フランスの女性で「ジャンヌ」だとジャンヌ・ダルクが真っ先に連想されると思うので、この記事では名字の「ベキュー(途中からデュ・バリー夫人)」で呼ばせていただきますね。

 

「素行の問題」で侍女を解雇されると娼婦同然の暮らしに

ベキューは、フランスの北東部にあるヴォクルールという町に生まれました。
ジャンヌ・ダルクの故郷であるドンレミ村(現在はドンレミ・ラ・ピュセル)の北、車で20分程度のところにある町だそうです。

母はアンヌといい、私生児としてべキューを産んだといいます。
ベキューの他に弟も授かった後に駆け落ちしたため、姉弟は叔母に引き取られて育ちました。

金融家と再婚した後、アンヌは二人を引き取るために現れているので、捨てたわけではなかったようです。
このときベキューは7歳。幸い、義父からとても可愛がられ、修道院で15歳まで教育を受けられたそうです。

修道院を出てからはある家の侍女として働いていましたが、「素行の問題」で解雇されてしまいました。
おそらくは主人かその家族、あるいは屋敷内の男性使用人と関係を持ってしまった……とかそんな感じでしょうね。

その後はしばらく娼婦同然の暮らしをしていましたが、17歳のときに洋裁店でお針子として働き始めたことが彼女の運命を変えます。

デュ・バリー夫人/Wikipediaより引用

 

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貴婦人の生活と引き換えに夜の接待を仰せつかる

時期は不明ですが、この店で働いていた頃にデュ・バリー子爵に囲われたといわれています。
この貴族がまた変わった(?)人で、自分の屋敷でベキューに貴婦人のような生活を与える代わりに、貴族や学者などを屋敷に連れてきて、ベキューに夜の接待(ソフトにした表現)をさせたとか。

その接待の中で、彼女は社交界に必要なマナーや話術を身に着けたようです。
子爵なりの教育だったんですかね。あるいは、最初から公娼となれるような美貌の持ち主を教育し、宮廷に送り込むことを目的にしていたのでしょうか。

そして一通り身につけたところで、26歳のときルイ15世に紹介され、公娼となりました。

寵愛していたポンパドゥール夫人を喪って五年ほど経っていたため、王の目にはベキューが大変魅力的に映ったようです。
そしてデュ・バリー子爵の弟と形だけの結婚をし、ベキューは「デュ・バリー夫人」という名前を得て社交界デビューしました。

ルイ15世の美人公妾『ポンパドゥール夫人』とは? その功績は完全に敏腕政治家!

 

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ルイ15世の娘やマリーからガッツリ嫌われ

奇しくも同じ頃、マリー・アントワネットが嫁いできています。
出自も立場もまるで正反対な二人は、たちまち対立しました。

元々ルイ15世の娘であるアデライード王女&ヴィクトワール王女&ソフィー王女たちが、デュ・バリー夫人を嫌ったため、王太子妃であるマリーを味方につけて追い落とそうとしていたのです。

まぁ、トーチャンの愛人を好きになる娘はそうそういないですよね。しかも王族と庶民、かつ娼婦出身ですし。
さらに、マリーの母マリア・テレジアが娼婦や愛妾を嫌っていたため、マリーのデュ・バリー夫人嫌いはかなり感情的かつ激しいものだったといわれています。

この「女の冷戦」とでもいうべき空気は、マリーが1772年1月1日に自ら声をかけるまで続きました。

といっても、その内容は「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」で、宮殿へ新年のあいさつに来た人々を指してのものだったため、デュ・バリー夫人の存在を許したとはいいがたかったでしょう。それでも表向きは対立が終わったことになっています。

マリー・アントワネット/Wikipediaより引用

 

イギリスへ亡命したのに、なぜだか帰国し、案の定……

その間、デュ・バリー夫人は他の貴族たちは好かれていたそうです。公娼とはいえ、明るい性格だったのが良かったのだとか。
公娼はやっかみを買いやすい立場だけに、王の愛情だけでなく、貴族たちからの評判も勝ち取らなくてはなりませんでした。

しかし、デュ・バリー夫人31歳のとき、ルイ15世が天然痘で危篤に陥ると、10日もしないうちに修道院への退去命令が出されてしまいます。

彼女の栄華は終わったかに見えました。
王がデュ・バリー夫人の身を案じてのことか、それとも王の死をきっかけにデュ・バリー夫人を遠ざけたい近臣たちの思惑か。追放劇の真相は不明です。
そう長く経たないうちに修道院を出てパリ郊外で暮らすようになっているので、厳重に監禁されたというわけではないようですが。

その後もフランスやイギリスの貴族の愛人となって生活していました。

そして、ルイ15世の死から15年経ち、フランス革命が起きます。1789年のことですね。
デュ・バリー夫人自身はおそらく世間から忘れられかけていたと思われますが、革命の波に巻き込まれた軍人の中に、彼女の愛人がいました。

イギリスに亡命したのが1791年ですので、しばらくは身に危険が迫っているとも思わなかったのでしょう。
亡命後は、同じようにフランスから逃げてきた貴族たちを援助していたといいます。

しかし、なぜか1793年3月に突如帰国し、案の定、革命派に捕らえられてしまうのです。

デュ・バリー夫人/Wikipediaより引用

 

処刑人アンリ・サンソンに泣いて命乞いした

一度、逃げおおせたにもかかわらず、なぜ危険なところへ戻ったのか?
デュ・バリー夫人が帰国した理由はハッキリしておりません。
「自分の城に置いてきた宝石を取り戻すため」という説もありますが、二年も経ってからわざわざ自分で取りに行きますかね? 弁護士なり代理人なり、誰か人を雇えばいいでしょうに。

「他の亡命貴族を援助する資金が枯渇したから」
そう考えれば辻褄は合いますが、それにしたって自ら足を運ぶ必要はありません。
「自分でなければ在り処がわからず、手続きも難しく、それでも自分の手で取り戻したいもの」という何かがあったのでしょうかね。例えばルイ15世との思い出の品とか。

余談ですが、マリー・アントワネットの悪評の一つ(でもほぼ冤罪)である「首飾り事件」のネックレスは、ルイ15世がデュ・バリー夫人のために発注したものでした。
王からこれと同じくらい高価で豪奢なものをもらっていてもおかしくはありませんが、それなら真っ先に持って逃げていると思われます。
「急いで逃げたから持ち出せなかった」と考えることもできますが、それにしても二年(ry

何にせよ、デュ・バリー夫人は同じ年の12月7日にギロチン台へ送られ、処刑されました。

ギロチンの前で、彼女は顔見知りだった執行人アンリ・サンソンに泣いて命乞いをしたそうです。アンリも知人の泣き叫ぶ姿に心が痛んだか、ベキューの処刑を息子に代行してもらったといいます。
貴族としてはみっともなかったかもしれませnが、そもそもデュ・バリー夫人は、庶民出身のベキュ―なのですから、それはお門違いというものですよね。

人類史で2番目に多くの首を斬り落としたアンリ・サンソン 心優しき処刑人の苦悩

 

革命後の恐怖政治が長続きしたのはナゼか

マリー・アントワネットなどの肖像画を描いた女流画家であるエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(ルブラン夫人)やアンリは、フランス革命で起きた悲劇の処刑をこんな風に評しております。

「処刑された人々の全員が、彼女のように命乞いをしていれば、あの恐怖政治はもっと早くに終わっていただろう」

ルイ16世やマリー・アントワネットが粛々として処刑台に登ったことで、かえって群衆の鬱憤が晴れず、「誰か別のヤツをもっと苦しめて殺してやろう!」という気分になってしまったのかもしれません。

現代でも「俺(私)を苦しめたアイツをギッタギタにしてやりたい! 泣いて謝ったって許さない!!」と思うことってありますよね。
フランス革命も、国王夫妻が命乞いや号泣する様を見物人に見せていたら、そこで憂さ晴らしが済んで、歯止めがかかったのでしょうか。これこそIFの話ですけれども。

時代も状況も違いますが、1938年に日本で起きた「津山事件」の犯人の言動や遺書にも似たような点があります。
この事件をおおざっぱにいうと「病気や兵役不合格によって、長い間村の中で白眼視されていたとある青年が、同じ村の住人に恨みを積もり積もらせ、30人も殺してしまった」というものです。
2008年に新たな証言が新聞で発表されたので、聞き覚えのある人もおられるでしょうか。また、小説「八つ墓村」のモデルになったことでも有名な事件ですね。

この事件の犯人の言動や遺書には、
「とある家の主人が必死に命乞いしたところ、犯人は『そんなに命が惜しいなら助けてやる』と言って立ち去った」
「犯行直後、犯人が自殺する前に『殺さなくてもいい者まで殺してしまった』と書き残している」
といった冷静さや、後悔の念がみえます。

あるいは、いじめの構造とも少し似ている気がします。
現代でもフランスを含めた欧米圏にもいじめは少なからず存在するようですし、身分制度や社会環境が厳しかった時代はもっとあったでしょう。
いじめも、いじめられる側が何らかの形でその場からいなくならない限り続きますし、また別の人が被害に遭いますよね。

 

記録はなく、お墓もなくて真相は闇の中

他の革命の犠牲者たち同様、デュ・バリー夫人の墓と呼べるものは存在しないようです。
おそらくは共同墓地に投げ込まれてしまったのでしょうね。

代わりというべきではないかもしれませんが、ヴェルサイユ宮殿の北10kmほどのところに、ルイ15世がデュ・バリー夫人に与えた城(通称『シャトー・デュ・バリー』。シャトー=フランス語で「城」)があり、ここが彼女を偲ぶ地となっているようです。

処刑の直前に戻ってきたのもここだと思われますが、ヴェルサイユ宮殿や国王夫妻が処刑されたコンコルド広場とあまりにも近すぎるんですよね……だからこそ謎が深まるわけですが。

連行されるデュ・バリー夫人/Wikipediaより引用

毎度同じことを書いていますが、帰国の理由は彼女の直筆の日記や手紙が見つかるまでわからなさそうです。

この時代の女性の識字率はかなり低いですけれども、デュ・バリー夫人は教育を受けたことがありますし、社交界では手紙のやり取りは必須。イギリスへ亡命した貴族の誰かに手紙を送ったことくらいはあったでしょうから、その中のどれかに何か書かれている可能性はあるかと。

見つかったら、とんでもない値段がつくでしょうねぇ。
どこかの貴族やその末裔の家で保管されているほうが良いのかもしれませんが。

長月 七紀・記

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参考:デュ・バリー夫人/Wikipedia

 





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