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その日、歴史が動いた ロシア 中国

何百年も続いた中国・ロシアの国境紛争 アンタら仲ええんか、悪いんか?

更新日:

たとえ「国家に真の友なし」が事実だとしても、最低限の礼儀や思いやりは持ちたいものです。
わざと相手が不快になるようなことをして、自分に有利な状況を引き出す……というのは外交ではよく使われる手ですが……。今回はその中でも、割とヒドイというかジャイアン的な感じのお話。

1689年(日本では江戸時代・元禄二年)9月6日は、ロシア帝国と清がネルチンスク条約に調印した日です。

2017年現在、某ならず者国家との関係などでビミョ~な間柄と思われる両国ですが、そう仲良しというわけでもありません。
この条約が結ばれたあたりからしばらくの間は密かな緊張がありましたし、現在に至るまでの問題も抱えています。
今回は東アジアで重きをなす、両国関係の歴史を見てみましょう。

 

実は戦争をしたくない……ロシアを清で結ばれたネルチンスク条約

ネルチンスク条約が結ばれる数十年前から、ロシア人は中国方面へ進出すべく、黒竜江沿いのアルバジンに要塞を築いていました。

当然、清や朝鮮はロシアの侵攻を警戒。武力衝突も起きましたが、清からロシアへ亡命したりする人もいました。
そのため、清は「ロシア人の撤退」と「亡命者の引き渡し」をロシアに求めます。

しかし、ロシアがそうあっさりこれらを飲むわけもなく……。
そうなると清も「よろしい、ならば戦争だ」という気分になるわけです。

ロシアとしては、実はそこまでするつもりはありませんでした。

まず、当時のツァーリ(君主)であるイヴァン5世とその共同統治者であるピョートル1世が幼少だったため、ロシアでは摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンらによって政治が行われておりました。
ソフィアはイヴァン5世の姉で、事実上の女帝です。

更に、この頃のロシアは北欧方面やポーランドなどとも戦争をしており、シベリアにも勢力を伸ばし始めたばかり。不凍港や水運のための河川は確かに欲しいですが、かといって全兵力を中国方面に割くことはできません。
そのためロシアは「ウチはそちらさんと交易したいんだけどな(だから戦争は勘弁)」と、交渉を持ちかけます。

ピョートル一世/wikipediaより引用

 

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ロシアは不凍港の獲得ならず清に有利だった?

清も、戦争の準備は進めつつ「できればロシアとの全面対決は避けたい」と考えていました。
当時、ジュンガル(現在の中国・新疆ウイグル自治区にあった遊牧民の国)と戦争をしており、これを孤立させるためにロシアの協力が欲しかったのです。

こうして図らずも利害が一致したため、交渉が成立し、ネルチンスク条約が結ばれました。「ネルチンスク」は例によって、交渉が行われた場所の名前です。

言語が異なるため、条約の原文はラテン語で作られています。
内容はこんな感じでした↓

・中露国境はアルグン川・ゴルビツァ川・スタノヴォイ山脈で分ける
・ウダ川とスタノヴォイ山脈の間についてはまだ決めない
・アルグン川以南からロシア人は出ていく
・不法越境ダメ絶対
・旅券があれば交易おk

少しズレているところもありますが、だいたい現在の中露国境と同じと考えていいかと。

形式としては平等な条約です。しかし、ロシア最大の目的だった「不凍港の獲得」にはならなかったため、相対的に清にとって有利な条約となります。

ロシア国内ではこの点が大きな責任問題となり、その後2度のクリミア遠征失敗と相まって、ソフィアとヴァシーリーの失脚に繋がりました。
そしてピョートル1世の母ナタリヤ・ナルイシキナが摂政になった期間を経て、ピョートル1世の親政と続いていくのです。

この時点では知る由もありませんが、もしも不凍港獲得かクリミア遠征のどちらかが成功していたら、ピョートル1世やその後のロマノフ朝の隆盛もなかった or 違ったものになっていたのかもしれません。
ホント、歴史はどこで変わるかわからないところが面白いですね。

当然ロシアが引き下がるわけもなく、この後もロシアと清はたびたび条約を取り交わしました。

 

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・1727年 キャフタ条約

ネルチンスク条約が結ばれてしばらく経つと、清は外モンゴルまで進出し、再びロシアとの国境問題が発生。
そこでキャフタ(現在のロシア連邦・ブリヤート共和国の都市)で交渉が行われ、新たに条約が結ばれます。

国境の確認や通商時の取り決め、双方の亡命者の引き渡しなどに関するより詳しい取り決めが行われました。

清はロシアを朝貢国(要するに子分扱い)とみなし、ネルチンスク条約もキャフタ条約も、朝貢国とのお付き合いを担当する理藩院が担当しています。

しかし、条文はロシア語・満洲語・ラテン語のみで作られており、中国語版はありませんでした。
キリスト教の聖職者が通訳したらしいのですが、自国語版がないような条約を信じるってどういうことなの……。

「清の力が強い時代だった」ということの証左でもありますが、時代が下るとそうも言っていられなくなります。

 

・1858年 アイグン条約

この頃には国力の衰退もさることながら、アヘン戦争・太平天国の乱・アロー戦争などで清は既にフルボッコ状態でした。
そしてついにロシアとも不平等条約を結ばされることになります。

この条約によって、ネルチンスク条約の頃から清国領とされてきたアムール川(中国では”黒竜江”)の左岸はロシアのものになり、ウスリー川以東の外満州(現在はロシアの”沿海地方”、ウラジオストクあたり)は両国の共同管理地とされました。
また、清はロシアにアムール川の航行権を認めさせられます。

この条約を結んだ経緯がまたひどいものでした。
ロシアの東シベリア総督が停泊中の軍艦から銃や大砲をぶっ放し、

「条約に調印しないんなら、力尽くでアムール川左岸の満洲人を追い払うけどいいよね^^」

と脅迫し、清国全権に認めさせたのです。
「他国との戦争でボロボロになったところを掠め取る」……アレーどこかで聞いた覚えがある話ダナー。

清の場合、まだまだ受難が続きます。

 

・1860年 北京条約

この条約は、当初清とロシアではなく、清とイギリス・フランスの間で結ばれるはずのものでした。
元々はアロー戦争の講和条約だった天津条約の追加項目で、そこにロシアが乗っかった形です。

ついでにいうと、”天津条約”と呼ばれているものも三つあります。
それぞれ別の戦争に関するものなのですが、「条約の名前は相手国によらず、交渉が行われた場所の名前をとる」という慣習のため、こういったややこしいことになっています。

アロー戦争後の天津条約もかなりの賠償金などが清に課せられたものでしたが、英仏両国はまだまだ満足していませんでした。
さらに、清の内部でも「なんで中華(世界の中心)である我々が西洋の野蛮人に屈さねばならないんだ!」というような批難が高まったため、清政府は批准を拒んでしまいます。

英仏軍はこの動きを察知すると、力尽くで条約を批准させるべく、清の離宮だった円明園を見せしめに破壊・略奪し、最後通牒を送りつけました。
どう見ても輩です、本当にありがとうございました。

ここで漁夫の利を狙って、仲介に名乗り出たのがロシア。そして北京条約が結ばれた……というわけです。

廃墟化した円明園

 

その後も揉め続け、国境が確定したのは実に2004年のこと

ゴネた分だけ、清朝に課せられた賠償金は重くなり、さらにイギリスには香港と接する九竜半島の南部を割譲させられるなど、どんどんむしり取られていきました。

さらにロシアからも「仲介料代わりね^^」とばかりに、アイグン条約締結時に「清とロシアの共同管理地」とされていた地域をぶん取られます。よそのことながら、身の毛もよだつような貪られようです。

その後も河川の流路の変化などにより、中ソ(露)の国境紛争は長く続きました。
ようやく国境が確定したのは、なんと2004年のことだそうで。

ちなみに、朝鮮側ではまだ紛争中のエリアもあるとかないとか。
そっちは1883年から引っ張ってるそうなのですが……ひでえってレベルじゃねーぞ!

不凍港のためだけにン百年引っ張るのもスゴイですけれども、実はロシアは、18世紀からカムチャッカ半島に不凍港を持っているのです。
ペトロパブロフスク・カムチャツキーという街で、現在もロシア軍の重要な拠点であり、漁獲量も多い良港です。

ロシアで最もアメリカに近いエリアのため、ソ連時代には一時外国人の立ち入りが禁じられていたこともありましたが、1990年からは解放されています。アメリカや日本からも行けるそうです。
特に北海道釧路市とは姉妹都市協定を結んでいたり、合弁企業を作っていたりと、結びつきが強くなっています。

ロシアでは「北海道までシベリア鉄道を伸ばしたい」という人もいるそうですが、まずは自国内の不凍港であるペトロパブロフスク・カムチャツキーに伸ばせばいいんじゃないですかね。

それをしないってことは、同都市への陸路があまりに不便とか? あるいはモスクワから遠すぎるとか?

あるいは欧州方面での不凍港獲得があくまで目的であり、極東なんてどうでもいいってことでしょうか(´・ω・`) 教えてプーさん。

長月 七紀・記

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参考:ネルチンスク条約/Wikipedia キャフタ条約_(1727年)/Wikipedia アイグン条約/Wikipedia 北京条約/Wikipedia 南下政策/Wikipedia ペトロパブロフスク・カムチャツキー/Wikipedia

 





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