近衛信尋

皇室・公家

戦国~江戸期を風流に生きた近衛信尋 元皇子であり前久の孫であり

慶安二年(1649年)10月11日は、公家の近衛信尋(のぶひろ)が亡くなった日です。

1649年ともなれば、もはや江戸時代

戦国時代とは一見無関係に見えますが、この方は意外なところから繋がりを持っていたりします。

早速、見てまいりましょう。

 


後陽成天皇の第四皇子で近衛家の養子へ

実は彼、後陽成天皇の第四皇子――つまり皇族です。

なぜ臣籍降下でもなく近衛家の養子になったのか?

というと割と単純な話で、彼の母が近衛家出身なのです。

しかも、母の兄が、あの変わり者公家でお馴染みの近衛信尹(のぶただ)でした。

信尹は、大河ドラマ『麒麟がくる』で本郷奏多さんが演じた近衛前久(さきひさ)の息子でもあります。

信尹に跡継ぎがいなかったので、信尋が伯父の養子として近衛家に入り、簡単な系図で示すとこうなります。

そんなわけで信尋は他の皇族とは一風変わった育ち方をします。

上記の通り近衛家は、スーパー関白でもある近衛前久や信尹が、織田信長との繋がりが強いなど、充分過ぎる特質を持っていたのでむしろ信尋がスタンダードに見えます。

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信尋も、近衛家に来てからは織田家や武家社会のことをよく聞かされていたでしょう。

そのためか、彼について特にトラブルや政争などの話題はありません。

24歳の若さで関白になっているのは五摂家のセオリー通りですね。

 


書道・歌道・茶道など全て一流以上の優れたスペック

彼に関して特記すべき点は、まず文化面で非常に優れた才覚を持っていたことでしょう。

「皇室生まれ・近衛家育ち」

そんな日本トップクラスの貴公子の立場に恥じず、書道・歌道・茶道などの芸術について、全て一流以上の腕前を持っていたといいます。

これでイケメンだったら二次元の住人ですね……と茶化したいところですが、ガチで美形だったらしいので、もはやチート。

しかも、彼は驕り高ぶるタイプの人物ではありませんでした。

幕府や武家につっかかることもなく、信尋はすぐ上の兄である後水尾天皇(初期の江戸幕府と大ゲンカした人/中宮徳川家光の妹・和子)や他の皇族・公家とともに、文化的な活動に励んでいます。

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信尋の言動や幕府からの評価があまり伝わっていないのは、禁中並公家諸法度の中で示されたように、文学や学問に集中していたので「アイツ無害だからほっといておk」とみなされたからなのかもしれません。

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ほろ苦いラブロマンスなお話もありまして

信尋にはラブロマンス(仮)な話題があります。

京都一の名妓・二代目吉野太夫を、灰屋紹益(はいやじょうえき)と競ったという話です。

紹益は京都の豪商で、信尋に負けない文化人でした。

とはいえ、武家社会になってからの公家というのは、概して懐具合に余裕が無いものです。この頃になると戦国時代ほどの困窮ではなくても、郭で一番の太夫を身請けするのはかなりの博打だったと思われます。

結局、寛永八年(1631年)、吉野太夫は紹益に身請けされていきました。

紹益22歳、吉野太夫26歳だったといいます。

信尋は32歳でした。

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年上で身分や血筋も上、文化的才能も一級品である信尋が、惚れ込んだ太夫を身請けできなかった……というのは、名誉としても一人の男性としても、大層悔しかったでしょうね。

そういう人が悲恋を体験したなんて、いかにも文学の世界にありそうな話です。

信尋は色好みというタイプでもなかったようで、その後、荒れたりはしませんでした。妻は複数人いましたが、それは公家あるあるですし。

ラストに、信尋の心の広さがうかがえる……かもしれない話も見てみましょう。

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