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藤原北家の流れを汲む近衛家の近衛牡丹/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

近衛信尋は江戸初期のチート公家! 皇室生まれ♪近衛家育ち♪強そうな武将は大体ともだち♪

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「天は二物を与えず」
とはよく言ったもので、多くの人は「得意分野がひとつ&普通にできることがいろいろ&決定的に苦手なことがいくつか」みたいな配分ですよね。
しかしごく稀に「強くてニュータイプ」とでも言わんばかりのハイスペックな人も存在します。
我々一般人からすると羨ましい限りですが、そういう人には特有の苦労が隠れていたりして……。

慶安二年(1649年)10月11日は、公家の近衛信尋(のぶひろ)が亡くなった日です。

公家や武家では養子を迎えることで家名を保つのが珍しくありませんが、この御方はその中でも特別な経緯をたどっています。
早速、見てまいりましょう。

 

後陽成天皇の第四皇子で近衛家の養子へ

実は彼、後陽成天皇の第四皇子。
つまり皇族なのです。

なぜ臣籍降下でもなく、皇族が近衛家の養子になったのかというと、割と単純な話でした。
彼の母が近衛家の出身なのです。

しかも、母の兄というのが、あの近衛信尹(のぶただ)。当コーナーでも以前にご紹介した、割とエキセントリックな人です。
信尹に跡継ぎがいなかったので、信尋は伯父の養子として近衛家に入ったのでした。

そんなわけで信尋は他の皇族とは一風変わった育ち方をします。
といっても近衛家は、信尋の義理の祖父でありスーパー関白でもある近衛前久(さきひさ)や義父・信尹が、織田信長との繋がりが強いなど、充分過ぎる特質を持っていたので、むしろ信尋がスタンダードに見えます。

信尋も、近衛家に来てからは織田家や武家社会のことをよく聞かされていたでしょう。そのためか、彼について特にトラブルや政争などの話題はありません。
24歳の若さで関白になっていますが、これは五摂家のセオリー通りですしね。

近衛前久は信長や謙信とマブダチのスーパー関白!「本能寺の変」後に詠んだ、悲しき南無阿弥陀仏

 

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書道・歌道・茶道など全て一流以上の優れたスペック

彼に関して特記すべき点は、まず文化面で非常に優れた才覚を持っていたことでしょう。

「皇室生まれ・近衛家育ち」という日本トップクラスの貴公子の立場に恥じず、書道・歌道・茶道などの芸術について、信尋は全て一流以上の腕前を持っていたといいます。
これでイケメンだったら二次元の住人ですね……と茶化したいところですが、ガチで美形だったらしいので、もはやチートです。

とはいえ、彼は驕り高ぶるタイプではありませんでした。

幕府や武家につっかかることもなく、信尋はすぐ上の兄である後水尾天皇(初期の江戸幕府と大ゲンカした人/中宮は徳川家光の妹・和子)や他の皇族・公家とともに、文化的な活動に励んでいます。

信尋の言動や幕府からの評価があまり伝わっていないのは、禁中並公家諸法度の中で示されたように、文学や学問に集中していたので「アイツ無害だからほっといておk」とみなされたからなのかもしれません。

徳川将軍家から圧迫を受け続けた後水尾天皇 最後は春日局にキレて譲位する!?

 

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ほろ苦いラブロマンスなお話もありまして

もうひとつ、信尋にはラブロマンス(仮)な話題があります。
京都一の名妓・二代め吉野太夫を、灰屋紹益(はいやじょうえき)と競ったという話です。
紹益は京都の豪商で、信尋に負けない文化人でした。

とはいえ、武家社会になってからの公家というのは、概して懐具合に余裕が無いものです。この頃になると戦国時代ほどの困窮ではなくても、郭で一番の太夫を身請けするのはかなりの博打だったと思われます。

結局、寛永八年(1631年)に吉野太夫は紹益に身請けされていきました。紹益22歳、吉野太夫26歳だったといいます。ちなみに、このとき信尋は32歳でした。

年上で身分や血筋も上、文化的才能も一級品である信尋が、惚れ込んだ太夫を身請けできなかった……というのは、名誉としても一人の男性としても、大層悔しかったでしょうね。
そういう人が悲恋を体験したなんて、いかにも文学の世界にありそうな話です。

信尋は色好みというタイプでもなかったようで、その後、荒れたりはしませんでした。妻は複数人いましたが、それは公家あるあるですし。

ラストに、信尋の心の広さがうかがえる……かもしれない話も見てみましょう。

江戸時代の大名・豪商たちが憧れた太夫(たゆう)って? 寛永三名妓から見る美女たちの華やかで過酷な生涯

 

事件は家光上洛のときに起こった 酔った政宗が……

彼は公家の代表格ですから、多くの武家とも付き合いがありました。

その中に、東のネタ大名こと伊達政宗も含まれています。
伊達家は「ウチのご先祖様は藤原氏系」と称していますので、その辺がキッカケだったのかもしれません。

そんなわけで、政宗は上洛した際、たびたび信尋の元を訪れており、長い付き合いがありました。和歌のやり取りをしていた手紙も残っています。

”事件”は、寛永十一年(1634年)の家光上洛の際に起きました。

このとき、政宗は家光のお供として一緒に(正確には先行して)上洛していたのですが、信尋から「一緒に能を見ませんか」というお誘いが届いたのです。
当時は知る由もありませんが、政宗が亡くなる二年前でもあります。

こういう席ではお酒が出るものですが、「政宗+酒=やっかいごと」というのはもはやテンプレというか、常識レベルの流れ。
なんとこのとき、政宗は信尋の烏帽子をいじくり回して「公家ほどぬるきものはない!」とのたまったとか。

……上記の通り、信尋は血筋としても家格としても第一級の人物。ヘタをすれば、紫衣事件並の大騒動になってもおかしくはありません。

しかし、この件は不問になっています。

 

信尋の賢明さを称えるべきか 老齢の政宗に

将軍が上洛中というデリケートな時期、しかも家光のお気に入りでもある政宗と事を構えるのは得策ではないという理性的な理由だったのでしょうか。

それともただ単に、日頃の付き合いからして「政宗殿はあのお歳だし、お酒が入るといつもアレだから仕方ない」と許したのか……気になりますね。

ちなみに、信尋は政宗の32歳下で、仙台藩の二代目・伊達忠宗と1歳しか変わりません。

伊達忠宗はデキる息子! 政宗の嫡男にして仙台藩の二代目藩主を知ってっか?

つまりこの話は、「政宗が息子同然、かつ身分が遙か上の信尋に、酒席での失態を勘弁してもらった」ということになってしまいます。
信尋の賢明さや心の広さを称えるべきか、政宗に「アンタ自重せーよ」とツッコむべきか、判断に迷いますねw

政宗はこの年から嚥下(えんげ・えんか/食事を飲み込むこと)がしづらいと訴えていたそうなので、もしかすると気心知れた相手との宴で久しぶりに酒食を楽しみ、テンションが上がりすぎたのかもしれません。
信尋もそれをどこかから伝え聞いて、気を使ったのでしょうか。

いずれにせよ信尋がデキすぎていて、彼がまるで二次元の住人に見えることは間違いなさそうです。

長月 七紀・記

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参考:近衛信尋/wikipedia 皇別摂家/wikipedia 近衛家/wikipedia

 





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