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富永商太

徳川家 江戸時代 その日、歴史が動いた

九・六騒動を起こした本多政勝・政利親子 ジイちゃん・本多忠勝は天国でブチキレ?

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徳川家康の一族や譜代の家臣たちって、常に一致団結なイメージがありますよね。
酒井に本多、井伊、松平……。彼らは総じて幕府に近い存在であり、将軍に協力こそすれ、跡継ぎを巡る御家騒動なんて起こさない――なんて思われていそうです。
しかし、そういったゴタゴタから最も縁の遠そうなアノ一族ですら一悶着起こしておりまして。

寛文十一年(1671年)10月30日は、大和郡山藩の初代藩主・本多政勝が亡くなった日です。

徳川四天王の一人・本多忠勝のお孫さんでもあります。
しかしこの政勝さん、あの忠勝の直系とは思えないような言動を重ね、最終的にその息子・政利が「九・六騒動」を起こして、なんとも不格好な顛末を迎えております。身も蓋もない言い方ですが、ホントにそうなのでご勘弁ください。

今回は本多家の系譜をさかのぼって話を始めましょう。

 

やっぱり自分の息子に跡を継がせたい! by政勝

もともと本多忠勝には、二人の息子がいました。
長男の忠政、次男の忠朝(ただとも)です。

相続は長男系で進みましたが、忠政の息子・政朝(まさとも)が早くに亡くなったことで事態がこじれはじめました。
政朝の息子・政長はまだ幼く、家臣がサポートするにしても不安が拭えなかったのです。

また、本多家では慣習として「幼君は戴かない」ことになっていました。
そのため、政朝のいとこ(忠朝の息子)の政勝が次の藩主になります。

これはもちろん「政長が成人するまでの中継ぎ」という意味でした。

政勝も始めのうちはそれを守るつもりだったようで、真面目に仕事をしていたのですが、時間が経つにつれて「やっぱり跡を継がせるなら自分の息子がいいなー」と思うようになります。

かくして、ときの大老・酒井忠清に根回しをしてしまうのです。

本多政勝/Wikipediaより引用

 

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「九・六騒動」と呼ばれるように

しかし、これでは本多家の家臣たちも黙ってはいません。

改めて政勝に「政長様も立派に成長なされましたし、そろそろ」とプッシュ。
これにより政勝は、渋々ながら政長へ家督を譲ることを決めるのです。ところが……。

今度は、政勝の息子・政利(まさとし)が相続を諦められませんでした。
政勝が亡くなった後、再び忠清に頼み込んで藩主の座をもぎ取ろうとしたのです。

なんやかんやあって幕府が間に入り、最終的に「郡山藩15万石のうち、政長が9万石、政利が6万石を相続する」ことで片付けようとしました。
これにより、この一連の騒ぎは「九・六騒動」と呼ばれることになります。

ここまでの流れだと大したことはないように見えますが、話はまだ続きます。

領地全てを相続できなかったことに大きな不満を抱いた政利は、なんと政長に一服盛って毒殺してしまったのです。
「アイツが死ねば、領地は全て俺のもの!」と思い込んでいたようで。

もしも自分が両家の家臣でしたら「な… 何を言っているのか わからねーと思うが」状態でパニクってしまいそうですよね。

 

殺されなかったのは忠勝の子孫だから?

本多家に限らず、基本的に「領主が亡くなった場合はまず息子(養子がいれば養子)、継いで兄弟、兄弟がいなければ近い親族に相続させる(それでもいなければ幕府が決める)」のがセオリーです。

政長にも養子・忠国がいたため、そちらへの相続が決まりました。
さらに、忠国は郡山藩から福島藩15万石に移封されています。

地元で親戚と領地争いをするより、新天地で出直せて万々歳だと思ってたかもしれませんね。

政利はダダをこねたがったようですが、頼みの綱の忠清が既に失脚していたため、今度は足掻きようがありませんでした。
彼は本家とは別に明石藩へ移封されたものの、不行状で岩瀬藩1万石に減封&転封。

さらに、そこでも領民や家来に乱暴を働いたため、大名の座も失って庄内藩へ預けられてしまいました。

預かり先でも政利の乱暴は止まず、一時は「死刑でもいいんじゃね?」とまでいわれていたようです。どんだけ~!

しかし、やはり幕府創業までの大功ある忠勝の子孫だからか、「狂気の沙汰なので、政利の命までは取らない」とされ、岡崎藩に預かり先を変えた上で、岡崎城のとある部屋に幽閉される運びとなりました。

 

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紆余曲折を経て本多家は続いた

当時の岡崎藩主は水野忠之という人で、赤穂浪士の一部を預かったことでも知られています。
細川綱利ほどではなかったのですが、忠之も浪士に礼儀正しく接していたので、政利に対してもそこそこ良い待遇をしたかもしれません。

また、名字からわかる通り、忠之は家康の母・於大の方の兄の血を引いており、本多家同様に譜代大名の一人でした。

本多家はその後も、さらに姫路藩へ転封されたり、一時無嗣断絶の危機になったのを「忠勝の子孫の家だから」と特例で許されたりと、紆余曲折を経ながらも続いていきます。

つまり結局は、政勝・政利親子がやったことは「家中を引っかき回してご先祖様の顔に泥を塗り、世間に恥を売った」だけでした。いくら名門でも、やっぱり個々の素質がないとダメなものですね。

まぁ、江戸時代のお家騒動ってだいたいそんな感じですし、忠勝が目にかけていた娘婿・真田信之の子供たちも似たような御家騒動を起こしていますが。

忠勝が草葉の陰で号泣、というか激怒していたことは間違いないでしょう。

真田丸の末裔にあるまじき暴挙&悪政 だから真田信利(沼田藩主)は改易された

長月 七紀・記




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参考:本多政勝/Wikipedia 本多政利/Wikipedia 本多忠国/Wikipedia 本多氏/Wikipedia

 

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