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明治時代の富岡製糸場/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

殖産興業をわかりやすく! 明治政府の目的は? なぜ富岡製糸場と八幡製鉄所が作られた?

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モノを作って売るのは、最も基本的な商売です。
個人間はもちろん、国家間でコレが行われれば「貿易」となり、大きなお金が動くことになります。

お金がない状態でスタートした明治政府も、近代国家と認められるため、そして軍備のため、貿易に向けてのモノづくりに取り組んでいきました。

いわゆる【殖産興業】です。

これまで手作業だった産業を機械にして「ガンガン作ってガンガン売ろうぜ!」というポリシーのことで、資本主義の根幹でもありますが、では実際に何をどう進めたのか?と問われたら、なかなかお答えすることは難しいかもしれません。

欧米に追いつき追い越せ!で始まった日本の産業化とはいかなるものだったのでしょうか。

 

植民地と密接に関係していた産業革命

工業には必要なのは、何と言っても原材料。
ヨーロッパ各国が植民地獲得に走ったのも、「金儲けのために必要なモノを採れるところを確保する」のが目的でした。

この発想自体がイギリス産業革命から生まれた考えなので、ヨーロッパでは浸透が早く、一方、そういった概念のないアジア・アフリカは植民地にされる一方になったわけです。
まあ、ヨーロッパの大部分は寒冷地ですから、国を富ませるには、工業で金を稼いで食料を買うか、他国からぶんどらないとなりません。

日本もさんざん「資源がない」といわれていますが、それは石油の話であって、石炭や金銀は出ましたし、欧州諸国よりは作物も育ちやすい気候なぶん恵まれている……と見ることもできます。
となると、近代以前に植民地獲得に動かなかったのも自然の流れかもしれませんね。

中国も、日本と同じような状況でした。
国内で小麦も米も家畜も量産でき、領土拡張に動いたことはあっても、中国の歴代王朝のほとんどは食料や資源目的で外征したことはほぼない……はずです。

例外は元(げん)でしょうか。
発祥の地がモンゴル=牧畜民族=農耕に向かない土地柄のため栽培技術に乏しい彼ら。
毎年安定して収穫&貯蔵できる穀物が欲しい、ということであんだけ広範囲に攻め込んだのですね。

その点で見ると、ヨーロッパに攻め込んだのは効率が悪いんですけどね。
まあ、モンゴルから中国や南アジアへ行くには山や砂漠があって進みにくいですし、東欧やフランスあたりなら農耕が盛んですから、完全な無駄足というわけでもありませんが。

 

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工部省→内務省→農商務省へと変遷する

だいぶ話がそれました。閑話休題。

そんなこんなで、「早く」「大量に」できるモノ作りを模索していた明治政府。
大久保利通らによって、各種工場の設置や産業の西洋化が押し進められていきました。

とはいえ、全ての工場を一から作るのは大変なので、江戸幕府や藩が運営していた施設を転用したものもあります。
横須賀海軍工廠などがその一例です。

製鉄所から始まった横須賀海軍工廠の歴史 「呉・舞鶴・佐世保」との違いや特徴は?

明治以降に新しくできた工場については、1870年代~1880年代にかけて、工部省→内務省→農商務省と担当機関を変えながら、三段階に渡って進められます。

最初に担当した工部省は、鉱山や鉄道、土木工事、造船などを扱うお役所です。
現代の国土交通省や経済産業省が担当している仕事の一部をやっていた、と考えるとわかりやすいでしょうか。

工部省の音頭取りで、イギリスやフランスから【お雇い外国人】として先生を招き、国費を注いでいろいろな建設や鉱山運営を行いました。
特に鉄道敷設には巨額の国費が投じられています。
この時点では都市部と港を結ぶ程度のものが多く、日本最初の鉄道である新橋~横浜間もそうした性格を持っていました。

国内にセメントやガラスの工場が作られたのも、工部省時代のことです。
しかし、日本古来の産業を重視せずに欧米の技術を入れようとしたため、大きく成功したとはいえませんでした。
ぶっちゃけた言い方をすれば、「土台があるのに、それを無視して新しい物だけやろうとしたのでポシャった」という感じですかね。

 

イギリスから岩倉使節団が帰国 明治政府は生糸に着目する

明治六年(1873年)からは、内務省が殖産興業の中心となりました。

この年に岩倉使節団(岩倉具視や大久保利通などが参加)が帰国しており、イギリスにおける産業革命成功の秘訣などをみっちり学んできたところです。
彼らは「国を富ませるには、鉄&石炭の供給と紡績工業、そして貿易がカギだ!」とし、これらを中心に発展させていく方針になりました。

イギリスは産業革命によって綿製品を大量生産し、それを輸出することで莫大な利益を上げていたからです。
当然ながら、その陰で犠牲になった職人や労働者もいたわけですが……その辺は学ばなかったのか、あえて無視されたのか、後で問題になってきます。

ともかくイギリスと同じく、日本も領土は狭く、人口もさほど多くはありません。
逆に言えば、日本と同じような条件のイギリスでも大国になれるわけです。

となると成功への最短ルートは自ずから決まったようなもの。
紡績などの繊維業であれば古来から女性が多くやってきた仕事でもあり、人手不足の懸念も少なくなります。
また、機械化によってさらに力仕事が減らせますから、「これからは女性も働いてお金を稼ごう!」というアピールができるわけで、目につけたのが養蚕業でした。

ヨーロッパの大部分では気候的に養蚕業が難しかったこと。
ちょうど日本の幕末の頃に数少ない養蚕を続けていたイタリアやフランスで微粒子病という蚕の病気が流行り、生産が激減してしまっていたこと。
これらの環境も、日本にとっては幸運でした。絶好の市場ができたわけですからね。

そこで政府は生糸(絹の糸)によって外貨を多く稼げると踏んだのです。

 

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「先生という名目で来た西洋人に生き血をすすられる」

こうして作られたのが、近年、世界遺産にもなった【富岡製糸場】などの紡績工場です。

富岡製糸場の最初期に働いていた武家の娘の日記である「富岡日記」には、当時の日本人女性の多くが意欲的に働こうとしていたことが見て取れます。

おそらくは、「お国のために」といった愛国心よりも、「外国みたいに豊かになって、家族が食べていくのに困らない生活がしたい」という気持ちが大きかったのでしょうね。
富岡日記の著者は元々武家の出身だからか、愛国心が強そうな記述もありますが、一般の女性でしたら、より生活を重視した見方になっていておかしくありません。

最初のうちは
「先生という名目で来た西洋人に生き血をすすられる」
などのおどろおどろしい噂も立っていたようですが、そのうち“給料が良い”というようなオイシイ噂のほうが優勢になったとか。いつの時代も似たような話がありますよね。
富岡日記は文庫版が出ていますので、ご興味のある方はお手にとってみるのも良いかと。

また、富岡製糸場にある程度の期間勤めた後、故郷に帰って紡績機などの扱いを教える先生になり、各地の紡績業発展に貢献した人も多くいました。
理想的な∪ターンといえるかもしれませんね。現代でもこういうやり方ができればいいのですが。

 

割とスンナリ導入された牛乳文化

繊維業の他には、農業や牧畜などが進められたのも内務省の担当していた時期です。

農業では北海道開拓と札幌農学校を含めた農学校の設置が主となりました。
牧畜では、古くから続く軍馬や使役用の牛を飼っていた農場を、肉や牛乳を取るための牧場に作り変えたり、元々牛を飼う技術・知識を持っていた人が別の場所で酪農を始めたりしています。

実は、幕末から牛乳の生産はごく一部で始まっていましたので、拡大化についてはさほど障害がなかったようです。
文明開化でお馴染みの牛鍋や牛乳の飲食が広まったのも、国内で肉牛や乳牛の生産が安定化したからだといえるでしょう。

一方で、製糖業などは外国との価格競争に押されて苦しい状況に陥りました。
まあ、全てがうまくいくなんてことはありえませんからねぇ。

明治十四年(1881年)からは、農商務省が内務省の方針を引き継ぎ、問題点を解消していく方向に移ります。

官営施設の経費削減や民間への払い下げが行われるようになったのも、この時期でして。
三井や三菱などの豪商が主な買い手となりました。

また、農業については老農(農業の研究者)による相談会・巡回などを行い、効率化や生産量増加を図っています。

 

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八幡製鉄所の誕生によって鉄の生産も本格化する

第三期の代表的な事業所としては、日本初の近代製鉄所である【八幡製鉄所】が挙げられます。

富岡製糸場と並んで、この辺の話をするときにはお馴染みの単語ですよね。
実は八幡製鉄所は明治三十四年(1901年)に創業で、富岡製糸場よりずっと後のことです。

明治二十四年(1891年)には計画が出ていたのですが、国会で反対されて予算案が通らなかったために遅れたのでした。が、日清戦争とロシア対策のために軍備増強の必要性が高まり、そのためには国内で鉄を作れたほうがいいということで、ようやく設置に至ったわけです。

官営で始まった明治時代の八幡製鉄所(現在は新日鐵住金が所有)/wikipediaより引用

初期の頃は、他の事業同様に外国人技術者の指導・援助を受けていました。しばらく赤字が続き、利益が出始めたのは明治四十三年(1910年)以降の話です。
鉄の原料となる鉄鉱石が国内であまり採れなかったため、黒字化に至るまで苦労が続いたのでした。

一方その頃、清でも、近代化のために(ようやく)色々取り組むようになりました。
例えば中国中部・湖北省の大冶鉄鉱(鉄鉱山)を開発しています。

が、「鉄鉱石はあるのに、石炭が足りなくて生産できないよ!」ということが発覚。
そこで日清両国の政府が相談し、「日本の石炭と清の鉄鉱石をお互いに融通しあう」ことで折り合いがつきました。

日清戦争の後だということを考えると、奇妙なほどの連携ぶりです。そのままうまく行っていれば……と思ってしまうのは、現代人のエゴですかね。

この後、義和団の乱の際、欧米と日本の連合軍が乱を収めたので「ウチが乱の鎮圧に一役買ったんだから、優先的に鉄鉱石を回してくれますよね^^」という話になったり、二十一箇条の要求などにも繋がっていくのですが、そこまで扱うとものすごく長くなるのでこの辺にしておきましょう。
※義和団の乱については、日露戦争の項目でご確認いただければ

日露戦争を分かりやすく! 陸海軍の各戦い勝敗マトメ(日本海海戦・奉天会戦など)

 

1890年にはストライキも起きていた

こうした世の中の動きは国を富ませていく一方、「経営者・大資本家」と「労働者」の間に貧富の格差を生み出しました。

紡績業の工場で働く女性(工女)や工場の従業員、鉱山や運輸業などで労働問題が発生し、日清戦争後の明治三十年(1890年)にはストライキも起こり始めています。

この辺はまんまイギリスの産業革命と同じですね。
岩倉遣欧使節もそこまで勉強して、予防策を考えるところまでやっておけばよかったんですが。

後から整備するほうが金も手間もかかるでしょうに、それに対する答えの一つが明治三十三年(1900年)の【治安警察法】であれば、もう的外れとしか。
※治安警察法……労働運動を取り締まるために制定され、敗戦直後の1945年11月に撤廃される

労働者だって、普通に働いて普通にお金を稼ぎたいだけなのに、「お上に意見を言うなんてけしからん」と押さえつけてるのは理不尽ですよね。
まぁ、政府側は、何が何でも国力増強=欧米諸国に対抗という考えだったのでしょうけど。

現代でも、ブラック企業の問題が囁かれる一方、「ノー残業」を徹底した結果、優秀な学生が集まるようになって業績が伸びた企業が話題になったりします。
もちろん今は【殖産興業】の時代とまるで違いますが、歴史を振り返って働き方を一考するのも悪くないのかもしれません。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典 「殖産興業」「富岡製糸場」「八幡製鉄所」

 



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