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飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

薬子の変が日本史に与えたインパクトが意外とデカッ!藤原北家の大天下始まる

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平安時代――。
“平”和で“安”定だなんて、いかにもピースフルな印象ですが、実際その名の通りの時代だったとは言えません。
流血沙汰はもちろん、静かな政争の類はごまんとありまして。

今回はその中でも、後世への影響が大きかった「薬子の変」と、藤原氏のお話をしていきましょう。

薬子の“恋”だったら、お姫様の恋愛トークで済んだんでしょうけどね。
実はこの事件、「壬申の乱」や「平将門の乱」などと比べてインパクトは小さいながら、藤原氏の権力が式家から北家に移動するという、非常に大きな転換点となっています。

「式家とか北家とか、何なん?」
というわけで、まずは藤原氏の系図をざっくり確認しておきましょう。

【TOP画像】漫画日本史ブギウギ藤原薬子より

 

不比等の息子たち藤原四家から始まる~

藤原氏は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、藤原姓をもらったことから始まります。
中大兄皇子が乙巳の変(614年)を起こすときの相棒で、ここから大化の改新が始まったわけですね。

そして鎌足の権力者が、その息子・藤原不比等(ふひと)になります。
既に天皇の信任を得ていた鎌足の息子ですから、さぞかし大権を持っていたに違いない……と思いきや、実はそうでもありません。

鎌足が亡くなったとき、不比等はまだ10代前半の少年で、高い位に就くことができなかったのです。
そのおかげで大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子がドンパチやった「壬申の乱」に巻き込まれずに済みました。

藤原不比等イメージ肖像画/Wikipediaより引用

意外かもしれませんが、不比等は地道に努力して出世を重ね、多くの子供を授かりました。

そのうち上から四人の息子たちが【藤原四兄弟】と呼ばれている人たちです。
武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)という名前でした。宇合は読み方が難しいですが、逆にインパクトがあって覚えやすいかもしれませんね。武智麻呂と麻呂がややこしくなりがちです。

子孫の繁栄を「末広がり」というように、これだけ兄弟がいると、一つところで暮らしていくわけにも生きません。
藤原四兄弟もそれぞれ自分の家を興しました。

それが以下の表です。

【貴族の王者・藤原四家と代表的人物】
創始者 四家 代表的人物
藤原武智麻呂 藤原南家 藤原仲麻呂(恵美押勝)
藤原房前 藤原北家 藤原冬嗣・藤原良房
藤原時平藤原道長
藤原宇合 藤原式家 藤原百川・藤原種継
藤原仲成・藤原薬子
藤原麻呂 藤原京家 藤原浜成

武智麻呂の子孫が【北家】、房前の子孫が【南家】、宇合の子孫が【式家】、麻呂の子孫が【京家】と呼ばれ、総称して【藤原四家】と表記されます。
このうち重要なのは北家と式家なので、余裕がない人はその二つだけ覚えるのがいいかもしれません。

 

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紆余曲折を経て藤原式家が台頭す

さて、不比等の子ら藤原四兄弟は、ほぼ同時期に全員が天然痘で亡くなってしまいます。

このため朝廷は一時大混乱。
ようやく一段落したかと思ったら、式家の二代目・広嗣が大宰府に左遷されたことを不服として【藤原広嗣の乱】を起こしました。
もちろんこれはスグに鎮圧されますが、式家は政治的に難しい立場に追い込まれます。

そこで踏ん張ったのが広嗣の弟である藤原良継と藤原百川でした。彼らは自分の娘たちを親王だった頃の桓武天皇の妃にして、少しずつ勢力を強めるのです。
父親らが世を去った後、彼女らは親王をもうけ、一時落ち込んでいた式家の立場を再び強固にしました。

そんな折に、平城上皇と嵯峨天皇の間で起きたのが【薬子の変】です。

最近では「首謀者は薬子ではなく、平城上皇ではないか」とする見方も強まってきましたが、まだ「薬子の変」と表記するほうが多いですね。

桓武天皇の次に即位したのが息子の平城天皇でしたが、この方はあまり体が丈夫ではなく、皇子たちも小さかったため、早いうちに弟の嵯峨天皇を皇太弟とし、後の混乱を防ごうとしました。

そして大同四年(809年)4月、平城天皇は病に倒れ、弟へ譲位を決めます。

 

平城天皇vs嵯峨天皇で「二所朝廷」

平城天皇、譲位の決断に対し、藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は反対しました。

藤原薬子は、自らの娘を宮中に入れる際、自分のほうが平城天皇のお気に入りになってしまうという、なかなか際どいキャリアの持ち主です。

それゆえ平城天皇が彼女のワガママを普段から聞き入れていた――なんて見方もありますが、このときの天皇の意思は固く、そのまま譲位を敢行。
新しい皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立ちました。

晴れて隠居の身になった平城上皇は、平安京を出て、かつての都である平城京へ移ります。
譲位も済ませて、ホッと一息つきたかったのかもしれません。

しかし、です。
ここで一悶着起きます。

かつて平城上皇が設置した「観察使」という制度を、嵯峨天皇が改めようとしたのです。
平城上皇は怒り、「二所朝廷」といわれるほどの対立構図ができてしまいました。

そして、そもそも譲位に反対だった薬子と仲成はこの対立を利用し、平城上皇を復位させて権勢を手に入れようとしました。

平城天皇を再び返り咲かせる。そう思えた理由は2つあります。

一つは、当時「上皇は、天皇と同様に政治に関与できる」と考えられていたこと。
もう一つは、薬子が就いていた尚侍(ないしのかみ・女官のトップ)という職の特権です。実は尚侍には、統治機関である太政官への命令書を出す権利がありました。

この二つをうまく利用すれば、嵯峨天皇を退位に追い込み、平城上皇を復位させることもできる。そう考えたのです。

そもそも太政官がよくわからんYO! という方は、以下の記事をご覧ください。
当時の政治・官僚組織のトップに立つところで、国政が運営されていた中枢となります(永田町と霞が関みたいなもんですね)。

なお、TOPが太政大臣となります(ただし、同官職は、臨時的な扱いなので、普段は左大臣がトップです)。

官職と二官八省がバッチリわかる! 日本史が3倍ぐらい楽しくなる官位の仕組み

 

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「平城京へ遷都くん!」『えっ、今さら???』

薬子と仲成がなぜ強気でいられたか。
それは嵯峨天皇が大同五年(810年)の年明けに病に倒れ、元日の朝賀が中止になってしまったことも一因だったようです。

すでに皇太子が立てられているのですから、いくら望んでも平城上皇の復位の見込みは薄いはずなんですけどね……。

あるいは復位を望むより、皇太子・高岳親王を傀儡にしてゴニョゴニョを狙ったほうが、まだ現実味があるかもしれません。

なぜ、その辺りに気づかなかったのか。もしくは手を回されてしまったのか。
これだと計画というより、単なるワガマm……ゲフンゴフン。

しばらくすると嵯峨天皇の体調は回復、政務に戻りました。

そしてその後も、かつて平城上皇が定めた制度を廃止にしたり、新たな役職をもうけたりして、上皇にとっては面白くない状況が続きます。
平たくいうと「現役当主のやることなすことが気に入らないので、ご隠居が返り咲こうとしている」という構図なわけです。

正直、これは平城上皇からの難癖と申しましょうか。
あるいは新しい時代についていけてないのか。

我慢ならなくなった平城上皇は、ついに一線を超えてしまいます。

「平城京へ遷都くん!」

かつての都、奈良・平城京への遷都を呼びかけたのです。

ここで考えておきたいのが、平城上皇と嵯峨天皇の父親が桓武天皇だということです。
桓武天皇は、暗殺事件や弟の呪い疑惑のため、平城京→長岡京→平安京と非常に苦労の多い遷都を行っています。

それをひっくり返そうというのですから、まぁ、親不孝でありましょう。

桓武天皇と平安前期とは? 波乱含みの即位後、なぜ様々な改革を実行できたのか

 

坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを平城京へ送り込む

嵯峨天皇も朝廷の面々も、さすがに平城上皇の遷都宣言にはびっくり仰天でした。

そこで、急ぎ、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使という名目で平城京に送ります。
この冬嗣が、藤原北家の人であり、同家の隆盛の始まりともなった人です。

配下を平城京へ送り込んだ嵯峨天皇は遷都を断固として拒否し、伊勢・近江・美濃の国府と関を封じて、藤原仲成と薬子の官職を剥奪しました。さらには、平城上皇派と見られた文室綿麻呂(ふんや の わたまろ・蝦夷討伐における田村麻呂の戦友)を処罰します。
その上で、坂上田村麻呂を大納言、藤原冬嗣を式部大輔、紀田上を尾張守に任じるのでした。

こうした嵯峨天皇の動きに、平城上皇は激怒します。
しかしなぜか「東国で挙兵する!」などと言い出し、薬子を連れて東へ向かおうとするのです。

これが、どうにもフシギでして。
言うまでもありませんが、平城京は現在の奈良、平安京は京都です。東を目指そうとすると地理的に追っ手に捕まりやすいのです。

というか、もしかしたら上皇はリスクを全く考えてなかったのかもしれません。
なぜかと申しますと悠々と輿に乗って逃げようとしているのです。
緊迫感の無さ、どんだけ~(´・ω・`)

平城天皇、悠々輿に乗って関所で捕まる/日本史ブギウギより

本気で逃げたいなら、船で西国へ向かう方がまだ望みもありそうなんですけどね。

嵯峨天皇は当然、平城上皇の東下を防ぐべく、坂上田村麻呂に追っ手を命じます。
と、田村麻呂が「武術に長けた者が一人でも多くほしいので、文室綿麻呂を赦免していただけませんか」と願い出ておりますから、なかなかの交渉上手ですね。

ともかく信頼する田村麻呂の奏上でもありますし、事が一刻を争うだけに、嵯峨天皇はその願いを聞き入れ、綿麻呂と田村麻呂は平城上皇派を追いました。

そしてその日の夜に、まず藤原仲成は射殺されるのでした。
ゴルゴ並に仕事早すぎです。

藤原仲成は射殺されて終了/日本史ブギウギより

 

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薬子が平城天皇をたぶらかしたとイメージ固まる

一方の平城上皇と薬子は、大和国添上郡田村(奈良県奈良市大安寺町付近)に差し掛かったところで道が封鎖されていることを知り、平城京へ戻ります。

全てを諦めた2人は、平城上皇が剃髮して出家し、薬子が毒をあおって自殺。
事ここに至って、復位計画は頓挫しました。

ところで、こうした動きでなぜ「薬子の変」と呼ばれるのか。ご存知です?
事件のあらましを見ていると、むしろ平城上皇のほうが……と思えません?

実はこの一連の事件、当初は「薬子が平城上皇をたぶらかしていたせい」と考えられていたためです。

彼女が具体的にどう動いたのか、その記録はあったのか……といったことはサッパリわかりません。

薬子が娘を差し置いて平城上皇とイイ仲になり、桓武天皇に追い出されたという過去がありましたので、おそらくその辺から来ているのでしょう。
イメージってコワイデース。

まぁその辺はともかく、事後処理として、嵯峨天皇は平城上皇の息子である高岳親王を皇太子から廃し、自分の弟である大伴親王(後の淳和天皇)を立てました。
さらに乱の一週間後には「弘仁」と改元し、政治的安定化に務めております。

 

冬嗣&良房で藤原北家のターンがリーチ目!

嵯峨天皇は「大事になる前に解決できた」という点から、平城上皇派について厳罰を課すつもりはなかったようです。

十五年後に平城上皇が崩御したとき、淳和天皇の名で関係者の赦免が行われているのですが、これは嵯峨上皇の要望だったとされています。
存命中の人物を解き放つのはもちろん、兄への供養という面があったのかもしれません。

こうして仲成と薬子の実家である藤原式家は没落、だいぶ地味な存在になってしまいました。
これ以降、式家で名を成すのは、藤原純友の乱を平定した藤原忠文(873-947年)くらいでしょうか。※藤原純友は藤原北家

鎌倉時代には公卿(従三位以上のエライ公家)が出ていますが、それも285年ぶりという点だけで、歴史に大きく残るようなことはしていません。

一方、冬嗣の北家は皆さんご存知の通り。
「娘を入内させて次次代の天皇の外戚になる」という形態を続け、文字通り、並ぶものなき権勢を誇るようになりました。
あるいは、その息子・藤原良房とセットでその流れを確定したとも言えるかもしれません。

いずれにせよ道長が「欠けたることもなしと思えば」という「望月の歌」を詠めるほどの立場になったのも、彼一代のチカラではなく、こうしてご先祖様たちが足場をシッカリ固めていたからなのです。

その栄華の程は凄まじく、明治維新の時点で137家あった堂上家(天皇の日常生活の場である清涼殿に上がれる家柄)のうち、なんと93家が北家の流れをくんでいました。
公家だけでなく武家になった家を含めればもっと増えます。

血筋という意味において、藤原北家は日本の支配者といえるかもしれません。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「薬子の変」 藤原式家/Wikipedia 藤原北家/Wikipedia

 

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