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嵯峨天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

承和の変は前提押さえりゃ後はバッチリ! 嵯峨派と淳和派の流れが肝要です

更新日:

どんな組織でも、地盤ができるまでの間には諸々の事情やすったもんだがありまして。
平安京ができて数十年の間も、そんな感じでした。

今回はその一つ、842年に起きた「承和の変」のお話です。

遡ること32年前(810年)には「薬子の変」も起きていますが、そのときは何が変わったのか?

藤原氏の式家が没落し、北家がのし上がるキッカケとなった。北家は、藤原道長も輩出した、藤原NO.1の家系だよ。
と、昨日の記事で記させていただきました。

薬子の変が日本史に与えたインパクトが意外とデカッ!藤原北家の大天下始まる

こんな感じで藤原氏の権力闘争が行われていた一方、天皇家の動きはどうだったのか?

承和の変、本チャンに入る前に、そこから見て参りましょう。

 

即位の流れは嵯峨天皇を中心に見てみよう

薬子の変で平城上皇との争いに決着をつけた嵯峨天皇は、それまでの皇太子(次の天皇候補)だった高岳親王(たかおかしんのう)を廃し、自らの弟である大伴親王を立てました。

ここから結構ややこしくなりますので、ゆっくり説明させていただきますと……。

まず、平城上皇、嵯峨天皇、大伴親王は、すべて桓武天皇の子、つまり全員が兄弟です。
そして高岳親王は平城上皇の子にあたります。

図式にするとこんな感じです。

【桓武天皇の子供たち】
◆第一皇子の平城上皇―その子・高岳親王
◆第二皇子の嵯峨天皇
◆第七皇子の大伴親王

大伴親王だけ母が違うのですが、嵯峨天皇の次に淳和天皇として即位しました。
そして次の皇太子には、淳和天皇の子供ではなく、嵯峨上皇の子・正良親王(まさらしんのう・後の仁明天皇)が選ばれます。

ここから少しずつきな臭くなっていきますかね。

要はこの段階では【嵯峨天皇を中心に動いていた】とも見ることができまして。

その視点から即位の流れを追った方がわかりやすそうです。
おさらいしてみましょう。

【嵯峨天皇から見た即位の流れ】
兄(51代・平城天皇)

自分(52代・嵯峨天皇)

※平城天皇の子・高岳親王は皇太子を降ろされ天皇になれず

弟(53代・淳和天皇)

自分の子供(54代仁明天皇)

嵯峨天皇が、自分の弟である大伴親王を淳和天皇にせず、最初から自分の息子を皇太子にして系統を確実にしておけば、ここから先の問題は起きなかったかもしれません。

しかし、間に弟を挟み、その後に自らの子を即位させてしまったことが、結果的に嵯峨天皇と淳和天皇という複数の皇統にしてしまいました。

そのため、臣下の間にも【嵯峨派】と【淳和派】という派閥が生まれてしまうのです。

 

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危機感を募らせる淳和派の恒貞親王シンパ

この派閥争いは、嵯峨派の第54代・仁明天皇が即位してから、日に日に深まっていきます。

こちらも図式化しておきましょう。

【嵯峨派】
嵯峨上皇・仁明天皇(嵯峨天皇の子供)
藤原良房(冬嗣の息子で藤原北家)・橘氏公(仁明天皇の外叔父)たち

【淳和派】
淳和上皇・恒貞親王(淳和上皇の第二皇子・この時点で皇太子)
藤原愛発(薬子の変で旨味を吸った藤原冬嗣の弟)・藤原吉野(藤原式家)・文室秋津など

兄弟の順番を守るとすれば、【嵯峨派】の第54代仁明天皇の次には【淳和派】の恒貞親王が即位し、その後再び【嵯峨派】である仁明天皇の皇子が皇太子となって、平穏が保たれるはずでした。

嵯峨天皇(嵯峨派)

淳和天皇(淳和派)

仁明天皇(嵯峨派)

恒貞親王(淳和派)

仁明天皇の皇子(嵯峨派)
という流れですね。

しかし、ここで不幸が重なります。
承和七年(840年)に淳和上皇が崩御し、さらに嵯峨上皇が重病となって、2年後に同じく崩御してしまったのです。

ぶっちゃけて言うと、「朝廷のツートップが一気にいなくなってしまったため、誰も家臣たちの頭を押さえることができなくなってしまった」という感じでして。

一気に暗雲が立ち込めます。

危機感を募らせたのは恒貞親王を推す人々でした。
上記の通り、本来なら仁明天皇の次代は恒貞親王が天皇になる――という流れですが、すでにそんなパワーバランスは崩れかけております。

そこで動いたのが伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(三筆の一人)でした。
彼らは恒貞親王の側近たちで、
「いっそのこと東国で兵を挙げて戦い、自分たちの国を作り直そう!」
としたのです。

これが「承和の変」、物理的行動のスタートです。

 

首謀者たちは捕らえられ流罪に

伴健岑と橘逸勢の2人は、平城上皇の第一皇子である阿保親王(在原行平・在原業平の父)に陰謀への協力を求めました。

が、阿保親王は拒否するばかりか、太皇太后(嵯峨天皇の皇后)である橘嘉智子(たちばな の かちこ)へ事の次第を報告します。

阿保親王からすると、橘嘉智子は義理の叔母という微妙に遠い関係です。
彼女が温厚な人柄であったこと、挙兵した橘逸勢とイトコという間柄だったことから、なんとか穏便に済ませようとしたのではないかという見立てもありますが、嘉智子は藤原良房と仲がよく、さすがに報告せずにはいられません。

美しき檀林皇后(橘嘉智子)の恐るべき終活 「私の遺体は道端に放置せよ、鳥や獣を養うために」

ついに嵯峨派の藤原良房がこれを表沙汰にし、朝廷から追っ手を出して伴健岑と橘逸勢を拷問にかけるのでした。

どちらも自白はしませんでした。
しかし、最終的には「春宮坊(とうぐうぼう・皇太子の身辺を司る役所)を中心とする謀反事件である」と判断され、主謀者・伴健岑は隠岐に、共犯とされた橘逸勢は伊豆に配流が決まります。
既に老齢だった逸勢は、その途中の遠江で亡くなりました。

また、恒貞親王は廃太子となり、その後は仏教に深く帰依しています。

そもそも恒貞親王は、温厚な人柄で皇位を望んでもおらず、元慶八年(884年)に陽成天皇が位を追われたときに即位を持ちかけられても、固辞したとか。ならば最初から争う意味もなかった気がするのですが……実はこの一件には藤原良房による陰謀説も囁かれておりまして。

 

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藤原良房の陰謀事件だった!?

恒貞親王派は、上記の3人を含め、60人以上が処罰されたといわれています。

クーデターが未遂で済んでいる割に処罰された範囲が広く重いこと。
恒貞親王派の動機があいまいなこと。
中心人物が自白しなかったこと。

そんな状況から「承和の変は、藤原良房による陰謀事件だ」ともされています。反対派の排斥ありきで動いていたのでは?という推測ですね。
たしかに、三十年前の「薬子の変」のとき、平城上皇が東国に行こうとして失敗していたわけですから、健岑が「東に行けばなんとかなる」と考えるのは違和感があります。

それに、この事件の後、良房の妹・順子の産んだ道康親王(後の文徳天皇)が皇太子になっているというのがなんとも……。
良房は承和の変で恒貞親王派を追いやったことで、外伯父として一番オイシイ立場になったんですね。
そりゃ怪しすぎるわ。

ついでにいうと、阿保親王がこの変の三ヶ月後に急死しているのも、何だかアヤシイかほりがします。
満50歳でしたから、当時だったら十分に寿命と考えてもいい歳ではあるのですが……。

上記の通り、阿保親王はこの変の穏便な解決を願っていたようなフシもあるので、良房にとっては邪魔者に見えたでしょう。
とはいえ、「皇族をブッコロした」なんてことがバレれば、さすがに良房や藤原北家の立場も危うくなるので、かなりの綱渡りでもあります。

何にせよ、これで藤原北家は一段と勢力を強めました。
そして次に起きた【応天門の変】で、さらに他氏排斥を進めていきます。応天門の変はまた後日!

なお、平城天皇の子で皇太子のポジションから外されてしまった高岳親王は、その後、天竺(インド)を目指すという、ある意味一番オモシロイ人生を送っています。よろしければ併せてお読みください。

そして高岳親王は、60歳にして天竺(インド)目指し、唐へ渡った

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「承和の変」承和の変/wikipedia

 

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