810年に薬子の変が起き、842年には承和の変が勃発。
平安時代は、平和で安らかなんて字面通りには行かず、ちょいちょい権力争いが起きていた――。
と昨日までにご報告させていただきましたが、その24年後にも再び朝廷内でキナ臭い事件が起きています。
題して「応天門の変」。
天皇の職場やお住いにほど近いところの応天門が何者かによって放火されるという由々しき事態が引き起こされたのです。
現在で言えば皇居が狙われ、いずれかの門が燃え盛るといった感じでしょうか。
ということで応天門の変を見て参りたいと思います。
目次
平安京の大内裏の中 朝堂院の正門だった
まずはタイトルにもある応天門について。
どこにあって、どんな門だったのか?
場所は、平安京の大内裏(皇居)の中にありました。
もっと細かく示すと「朝堂院(ちょうどういん)」というお役所エリアの正門になります。
ここで天皇が朝政(早朝に行われる政務)などを行うため、大変、重要な場所だということがおわかりでしょう。
現在は平安神宮に応天門の縮小版レプリカがありまして。
立ち寄られた際は、この事件のことをイメージしてみるのもいいかもしれませんね。
では、事件のことを追って参りましょう。
時間帯が少しズレたら天皇や貴族たちに直撃していた!?
ときは貞観八年(866年)の閏3月10日夜。
突如として応天門が(物理的に)炎上してしまい、朝廷内は大騒ぎになりました。
放火の正確な時間は不明ながら、それが例えば深夜3時とか4時とかでしたら非常に危険でした。
なんせ当時の昼夜の感覚は現代と全く違います。
応天門が開くのは朝の六時半(!)で、そのあたりから貴族たちが出勤してくるわけです。
当然、ときの帝もその前から身支度をしたり、移動をしたりしますよね。
しかも上記の通り、応天門は「早朝に天皇が政務を行う場所」の正門です。
……となると、もしも時間が早朝にズレ込んでいたら、天皇の身に危険が及ぶ可能性もあったわけです。
それでなくても大内裏の中=天皇の住まいの近くですし、朝廷にとっては一大事なワケです。
そんなわけで、直ちに犯人の捜索が行われました。
……が、操作は難航し、8月になってようやく情報提供者が現れます。
申し出たのは左京(京都の朱雀大路より東側)に住んでいた大宅鷹取(おおやけ の たかとり)という人。
彼は
「大納言の伴善男(とも の よしお)が犯人だ」
と言いました。
鷹取の娘が、善男の従者にブッコロされ
さっそく善男の取り調べが始まり、その最中にもう一つ事件が起きます。
鷹取の娘が、善男の従者にブッコロされてしまったのです。
従者としては主を救いたい一心だったのかもしれませんが、これでは逆効果。善男の嫌疑はさらに強まります。
また、従者たちも厳しい取り調べに耐えきれず、「善男とその息子・伴中庸(なかつね)が放火した。源信(みなもと の まこと)を失脚させるためだった」と自白しました。
源信は嵯峨天皇の皇子で、臣籍に降って源氏になっていました。この時点では、善男とは政敵といった感じです。
少し時間軸を前に戻しまして。実は、善男が告発される前は、源信が疑われていました。
……というか、善男が「アイツが下手人に違いない!」と言って、勝手に兵を動かして源信を捕縛しようとしたのです。
太政大臣である藤原良房(よしふさ)は、この善男の慌ただしい行動を怪しみ、清和天皇に確認を取りました。
これには天皇も寝耳に水といった様子。
そこで朝廷から仲裁の使者が派遣され、源信はお咎めなしとなっています。
しかし源信は相当ショックだったようで、この嫌疑をきっかけに引きこもるようになってしまい、三年後に落馬が原因で亡くなってしまいました。
手段を選ばなさ過ぎる感はあるにせよ、政敵排除のためにやった……というのは、動機としては自然ですね。
「応天門の変は藤原良房の陰謀だ」の見方が多数
上記の通り、一歩間違えれば天皇に危険が及ぶ犯行だったことから、結局、善男・中庸など主犯とされた五名は大逆罪=死刑に問われました。
しかし実際は、死罪より一段階、罪を減ぜられて流罪に。
それでも、これほどの重罪ですから、関係者も連座で処罰されています。
中には、小野篁の弟子・紀夏井(き の なつい)などもいました。
このため、古くからの名族であった伴(大伴)氏と紀氏は大きく勢力を落とすことになります。
事件は一応、これにて落ち着きますが、なんだか変な感じがしませんか?
事の経緯や犯行があまりにもずさんな上、当時の政治的関係等がアレ過ぎるため、
「応天門の変は藤原良房の陰謀だ」
という見方が多数派なのです。
良房が疑われる2つの理由とは
主な理由は2つあります。
【まずは善男について】
伴氏(大伴氏)は古くからの名門ですが、彼自身は仁明天皇の時代から出世し始めた新興勢力といってもいい立場でした。
それが、源信をはじめとした嵯峨源氏や、勢力を広げ始めた藤原北家の良房にとっては面白いはずがありません。
そんなわけで、善男に悪気はないにせよ、敵が多かったのです。
【2つめは、良房の立場や縁戚関係について】
良房は当時、太政大臣で、実質的にはまだ幼年である清和天皇の摂政を兼任している状態でした。
そして応天門の変の審議中、正式に摂政宣下されています。
また、善男の処罰後に姪の高子を入内させ、息子(養子)の基経を中納言に特進させました。
ついでにいうと、清和天皇の母は良房の娘・明子であり、良房の妻は皇女として初めて降嫁した源潔姫(みなもと の きよひめ)です。
つまり、この時期の皇室はほとんど良房の縁者だったわけです。
藤原道長にも負けず劣らずの権勢……というか、道長が良房をお手本にしたのでしょう。
となると、「良房が善男に罪を着せて排除し、藤原北家の立場を盤石にした」というのも、ありえない話ではないわけで。
結局、放火の真犯人が誰なのかは未だにわかっていません。
しかし、良房がこの事態を最大限に利用したことは確実です。
そのため「良房の陰謀だ」ともいわれるのですが、もし「おっ、政敵が自滅したぞ、ラッキー♪」くらいの感じで事態を利用しただけだったら、とんだ濡れ衣ですね。
はてさて真相は……。
長月 七紀・記
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参考:国史大辞典「応天門の変」 応天門の変/wikipedia