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北条時政/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

北条義時62年の真っ黒な生涯マトメ!承久の乱を含む権力争いの日々を整理してみた

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鎌倉時代、およそ140年。
平安時代の400年と比べてかなり短い分、理解や暗記も楽になる……と思いきや、実際にはそんなことはありませんよね。

大まかに分けるとすれば、こんな感じでしょうか。

【前期】幕府創設~承久の乱
(1185-1221年・36年間)
【中期】承久の乱~元寇
(1221-1281年・60年間)
【後期】元寇後~討幕
(1281-1333年・52年間)

室町幕府や江戸幕府なら、将軍ごとに分けると時系列もわかりやすいですよね。

しかし鎌倉時代はそうはいきません。
なんせ、源氏将軍が絶えた後、摂家将軍や皇族将軍が入れ替わり表舞台にほとんど出てこないという……。

代わって登場するのが北条氏です。

幕府で一番エライはずの将軍を蚊帳の外にして台頭した同一族。
今回はその流れをガッツリ作った一人・北条義時の生涯と、承久の乱等の数多のトラブルを見ていきましょう。

【歴代の将軍】
源頼朝(1192-1199年)
②源頼家(1202-1203年)
③源実朝(1203-1219年)
④藤原頼経(1226-1244年)
⑤藤原頼嗣(1244-1252年)
⑥宗尊親王(1252-1266年)
⑦惟康親王(1266-1289年)
⑧久明親王(1289-1308年)
⑨守邦親王(1308-1333年)

【歴代の執権】
北条時政(1203-1205年)
北条義時(1205-1224年)←今日の主役
北条泰時(1224-1242年)
④北条経時(1242-1246年)
北条時頼(1246-1256年)
北条長時(1256-1264年)
⑦北条政村(1264-1268年)
北条時宗(1268-1284年)
北条貞時(1284-1301年)
⑩北条師時(1301-1311年)
⑪北条宗宣(1311-1312年)
⑫北条煕時(1312-1315年)
⑬北条基時(1315-1316年)
北条高時(1316-1326年)
⑮北条貞顕(1326-1326年)
⑯北条守時(1326-1333年)
※()内は在職期間です

 

執権とは?

まずは北条義時を一言でマトメてみます。

【北条政子の弟で、鎌倉幕府における北条氏の立ち位置を決めた人】
こんな感じです。

義時はもともと初代執権・北条時政の次男でした。

執権とは、将軍を補佐するという名目で実権を握った【北条氏が就任する役職】。
政治の中枢である【政所】と、御家人を管理する【侍所】の【別当(長官のこと)】を独占するようになっていきます。

厄介なのが……。
必ずしも北条一族で一番エライ人(得宗家)が就くわけじゃない――という点でして。
途中から、執権職よりも得宗家のほうが権力を持っていたりします。

なので上記の【歴代の執権】表を見ても、途中から「誰ソレ?」状態になってません?

【ポイント】
執権=将軍の補佐と言いつつ実権No.1

次第に得宗家の方が偉くなる

※TOP画像のイメージは北条義時ではなく父の北条時政になります

 

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1190年辺りから頼朝の信頼を得る

話を義時に戻しましょう。

源平の合戦こと【治承・寿永の乱】の緒戦、【石橋山の戦い】で源氏軍がボロ負けしたとき、長男の北条宗時が亡くなり、代わって義時が嫡男としての地位を得ました。

以降、源頼朝が征夷大将軍になるまでの間、父に従って側近を務めています。

頼朝の弟・源範頼が西国へ向かったときには従軍し、九州で平家方の軍相手に功績を挙げたりもしました。
また、義経が奥州藤原氏に討たれた後は、頼朝が同氏を討つ軍を起こした奥州合戦にも参加しています。

さらに、建久元年(1190年)に、頼朝が後白河法皇との折衝のため上洛した際には、露払いの役をしています。

細かい経緯は不明ながら、このあたりから頼朝は義時を信頼しきっていたらしく、
「義時は必ず、我が子孫を支える存在になるだろう」
と言っていたとか。

怖い言葉ですよね。
ある意味その通りになったし、真逆になったともいえます。
だから、もうちょっとその“信頼”を実の弟たちにも分けておけば、途絶えることもなかっ……(´・ω・`)

頼朝は都で元服しました。
なので摂関家が皇室に食い込む様子だとか、他の公家が娘を入内させて政治的立場を強くする様子を知っていたはずです。

なのでフシギです。
なぜ政治力ハンパない頼朝が、自分の妻である政子を通じて、北条氏が同じことを源氏に対して仕掛けてきているということに気付けなかったのか。
やっぱり人間、立場が逆になるとわからないもんなんでしょうか。

近年では足利直義説が唱えられている源頼朝肖像画/wikipediaより引用

 

御家人たち13人による合議制

そうこうしているうちに頼朝が亡くなり、嫡男の源頼家が二代目の将軍になります。

まだ若い頼家。
これを支えるという名目で、当時の宿老格の御家人たち13人による合議制が生まれました。

このとき、義時もその一員に加わっています。もちろん父の時政もいます。
他のメンバーは以下の通り。

・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政

・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄

・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政

・北条義時

最初の四人は、以前も当コーナーで簡単にご紹介した、幕府創設の要ともいえる人々です。
・大江広元
・三善康信
・中原親能
・二階堂行政
特に大江広元は源氏将軍三代に渡って仕え、官位も御家人筆頭の正五位という重鎮でした。

大江広元/Wikipediaより引用

【関連記事】鎌倉時代(鎌倉幕府)

間の四人もまた、幕府の草創期に活躍した人々です。
・足立遠元
・安達盛長
・八田知家
・三浦義澄
保延四年(1138年)生まれの時政と同世代か、ややずれるくらいの年代の人が多いので、鎌倉幕府ができた頃には結構な年齢になっていました。
そのせいか、いつの間にか記録から消えている人がいたりいなかったり……まあ、この時代の武士に「記録をつけることはとても重要である」という概念がどこまであったかもわかりませんしね。

その次の四人は、デカすぎる共通点がありまして。
・梶原景時
・比企能員
・和田義盛
・北条時政
それは「この合議制ができた後、義時の主導で滅ぼされた」というもの。

『え? 北条時政って父ちゃんだよね?』
と思われるかもしれませんが、この時代の武士あるあるというか、まあそれなりの経緯があります。

順を追って説明して参りましょう。

 

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皆で景時を罷免に追い込もう!

まずは、梶原景時がその地位を追われました。
景時は義経と大ゲンカした人ということで、現代においてもあまりいいイメージがないかもしれません。

しかし、それは彼が厳格な性格であり、職務に忠実だったことの裏返し。
鎌倉幕府が始まってからの景時は、侍所という役所で御家人の統率や警察の仕事をしていました。
当時は頼朝が存命中でしたから、頼朝自身が「コイツならこの仕事を任せられる」と信頼していたのでしょう。

現代の学校でいえば学級委員や風紀委員、会社で言えば監査役、マルサなどに近いイメージの立場です。
要するに、他の人々からすると煙たい存在なわけで……。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用

そんな中で、とあるトラブルが起きました。

頼朝が亡くなって、頼家が跡を継ぎ、十三人の合議制ができた後のことです。

結城朝光という御家人が、侍所で
「武士は二君に仕えずという。頼朝様が亡くなった時、自分も出家しておけばよかった」
とボヤいたのだそうです。

これを聞いたのが義時の妹・阿波局です。
彼女は朝光に対し、
「この前あなたが愚痴ってたこと、景時殿にバレてしまったみたいですよ。このままだと殺されてしまうかもしれません」
と告げました。

実際には、この時点で何も決まっていなかったようですが……。
日頃から恨まれているだけに、こういうときの悪い想像は飛躍します。

いつしか「景時はほんのちょっとのことでも許さないし、何かあれば御家人をすぐブッコロすに違いない! 皆でアイツを罷免に追い込もう!」という流れになってしまいます。
そして66人もの御家人によって景時罷免の連判状が作られ、大江広元に提出されました。

 

梶原景時の変

困ったのは大江広元です。

実際に何かが起きたわけではないので、『えぇと……んで、これ、どうすればいいの……』(※イメージです)となるばかり。
結局、広元は、あまりにも御家人たちが罷免を言い立てるので、仕方なく頼家にコトの次第を報告し、連判状を提出します。

そして頼家は、景時本人に
「こんなものが俺のところに出されたんだけど、お前から何か弁明はあるか」
と尋ねます。
頼家から見ても景時は頼もしい存在だったでしょうから、否定してほしかったでしょう。

しかし、景時は「連判状が作られた=自分はそれほど皆に恨まれている」ことを悟ったのか。
何の弁明もせず、一族をまとめて領地の相模国一宮に移りました。
「見苦しい言い訳はしませんし、事を荒立てたくはないので、謹慎します」という意思表示ですね。

それでも御家人たちの腹の虫は収まりません。
ついには頼家だけではかばいきれず、景時は間もなく追放の処分が決定してしまいます。

職を失ってしまっては、一族を養っていくこともできません。
そこで景時は、京に出てどこかの公家に仕えようと考えたようですが、その途上で相模の武士に襲われ、景時含む一族のほぼ全てが討たれてしまいました。

これを「梶原景時の変」というのですが……正直、景時は何も悪くないというか、イメージだけでブッコロされるところまでいってしまって実に気の毒な話です。気の毒どころの騒ぎじゃないのですが。

この件に北条義時らは直接関わっていないとされています。

しかし、コトの発端が義時の妹である阿波局だというあたりから、
「実はこのときから北条氏の陰謀が始まっていたのでは?」
とする向きもあります。

直後に、景時の口利きで御家人になった城長茂(じょう ながもち)という人が上洛し、後鳥羽上皇に幕府追討の院宣を求めたものの失敗して幕府軍に討たれているのがまた、なんともキナ臭いところで……。

 

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比企氏の乱に続き畠山重忠の乱へ

次に滅ぼされたのは比企能員。
建仁三年(1203年)、比企氏の乱によって終わります。

比企氏は、頼家の妻・若狭局の実家にあたります。
頼家は上記の合議制ができる前から、将軍としての実権を奪われつつあり、親戚である北条氏より、比企氏に接近していました。
また、若狭局が息子を産んだことで、比企氏が次期将軍の後ろ盾になる可能性も出てきます。

時政と義時は比企氏の力が強大になる前に、手を打つことにした……というわけですね。

まあ、比企氏側の武士が政子の住まいを襲ったりしているので、どっちもどっちなんですが。

そして北条氏は頼家を追放して将軍位を奪い、弟の源実朝に跡を継がせました。
実朝もこの時点では、まだ12歳の若年。
当然、実権を握るのは北条氏で、時政はその立場を盤石にするべく、次は畠山重忠を討とうとしました。

ところが、重忠に対しては、そう簡単にはいきません。
日頃から清廉潔白な武士だったため、特に追い詰める理由がないのです。
困ったのは北条義時。
今後を考えれば味方にしておいた方が得であり、彼は重忠を討ち取る気はありません。

畠山重忠/Wikipediaより引用

しかし。
結局、義時は、時政の命に抵抗できず、武蔵国二俣川で重忠を討ちます……。
そしてその後、重忠を討つようにゴネたのが、時政の後妻である“牧の方”だということがわかりました。

義時にとっては継母ですね。

 

父の時政を失脚へ追い込み

「継母」の時点でイヤな予感がするのは、白雪姫やらの童話のせいでしょうか。
もっとも、白雪姫の原典では実母だったそうでも、それはそれで恐ろしい話です。

牧の方と時政の間には何人か子供がいまして。

そのうち、娘の一人が御家人の平賀朝雅という人に嫁いでいました。
朝雅は、牧の方にとって信用できる存在だったようです。

そんな朝雅が、あるとき酒席で重忠と口論となりました。
朝雅はそれを恨んで牧の方にチクり、それを真に受けた牧の方がさらに時政にチクり、畠山重忠び討伐という流れになった……といわれています。

口論の原因は、源実朝の御台所(正室)に関することだったそうです。
まぁ、正直、私怨にしか見えませんけどね。

背景に、牧の方がいるのを知って大きな衝撃を受けたのが北条義時です。

大して意味のない理由で、これからも幕府を支えたであろう有能な武士をむざむざ討ってしまったのですから。
まぁ、自分が討ってしまったのですから、自責の念もあったことでしょう。

そこで義時は、事件に関係した御家人を誅殺。
時政の動向を注視することにしました。

すると、牧の方を中心として、実朝の暗殺計画が立てられていることが発覚します。牧の方は政子の継母にもあたるわけですから、牧の方と実朝は義理の祖母・孫の関係となるわけで……ほんと、ひどい。殺してばっかですな。

義時はこれを政子に伝え、実朝を自分の屋敷に保護。
さらに、御家人を集めて警備を万全とします。

暗殺は無事に防がれ、かくして時政は失脚となるのでした。

 

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北条政子と共に実権握ると……

北条時政がいなくなると、北条政子と義時が実朝を庇護し、他の御家人が仕える……というカタチになりました。

しかし、政務を司る政所のトップだった義時は、次第に独裁的になっていきます。
他の御家人たちにとっては大きな脅威となりました。

実際、義時は、守護の終身制をやめて定期交代制にし、まずは守護だった他氏の力を削ごうとします。

と、これは千葉氏や三浦氏などによって大反対にあい、実現しません。
独裁的とはいっても、この頃はまだ完全なものではなかったんですね。

義時の動きに対し、御家人たちも警戒を強める中、ターゲットになったのが和田義盛です。

和田義盛/Wikipediaより引用

それまで和田義盛は、北条氏に協力的でした。

しかし、泉親衡(いずみ ちかひら)という御家人が源頼家の遺児を担ぎ上げて北条氏に対抗しようとして、事前に計画が露見。
義盛の息子と甥も関係していたことが明るみに出て、義盛も義時に睨まれてしまうのです。

結果、息子は許されました。
しかし、甥の胤長は深く関与していたとみなされ、一族が居並ぶ中で縄をかけられるという恥辱を味わわされます。
さらに、胤長の屋敷も別の御家人に下げ渡されてしまいました。

度重なる屈辱に対し、いよいよ義盛も我慢ができなくなってきます。

 

三浦義村から情報が伝えられ、嗚呼

挑発――とも取れるような義時の行動に対し、義盛は密かに挙兵を決意します。

と、そのような噂が流れてしまい、源実朝から糾弾の使者が立てられました。
義盛はもちろん、実朝に逆らう気は毛頭ありません。

「義時殿があまりにもひどいので、詳しい話をしたいだけです」
というような返事で対応し、さらに義盛は、本家筋にあたり、イトコでもある三浦義村に事の次第と挙兵の意思を伝えました。
血縁があるからには、味方してくれると考えたのでしょう。

しかし、です。
義村は、義盛の挙兵を義時にリークしてしまうのです。

そのため、義盛が鎌倉で挙兵したとき、北条義時方には援軍が続々と到着。
予想外の展開に苦しみながらも、義盛軍は果敢に戦います。

とはいえ、それにも限界がやってきます。
徐々に追い詰められた義盛軍は鎌倉の南にある由比ヶ浜まで退き、そこで敗れ去ります。

このときの最期は、実に哀しいものでした。

義盛の軍は血筋の近い者を中心としていましたから、一族が次々に討たれていきました。
そしてその中には、息子の一人・義直もいたのです。

義盛が特に愛していた息子だったようで、その死に声を上げて悲しんでいるところを、義盛も討ち取られたのだとか……。

 

侍所の別当ゲットで地位盤石

これまで幕府のために頑張ってきた。
にもかかわらず、将軍の親族というだけのワンマン義時に追い詰められ、味方になってくれると思っていた人に裏切られ、ほんのわずかの間とはいえ息子に先立たれて自らも討ち取られる――義盛はまさに世の中の不幸を凝縮したかのような晩年でした。

一方、この「和田義盛の乱」に勝利したことで、義盛が務めていた侍所別当の地位も、義時のものになります。

その体制は盤石。
政治と警察の両方が義時の手中に収まったのです。おそらくや現代でも、この二つを押さえればなんでもできるでしょう。
当時の武士は、軍隊力も備えておりますし。

義時は官位もガンガン上がり、最終的には父・時政が受けていた従五位下・遠江守を超え、従四位下・右京権大夫兼陸奥守となっています。
それまで御家人で一番官位が高かったのは、上記の通り大江広元の正五位でした。

名実共に……どころか武士も朝廷も義時を止められなくなってしまったのです。

ドコを切り取っても真っ黒な感じの義時。
その最たる一件は、承久元年(1219年)でしょう。

源実朝の暗殺事件です。

源実朝/Wikipediaより引用

このとき、本当は北条義時が源実朝の御剣奉持(太刀を持つ)の役をするはずでした。
しかし、急病によって源仲章にその役を譲り、自邸に帰っているのです。

お陰で公暁に斬られる事態を避けられるのですが、あまりにもタイミング良すぎて怪しいにも程があるというか。義時と役目を交代した源仲章は斬られてますし、これで何も関係してなかったらそっちのほうがスゴイ話ですよね。

 

残っていた源氏一族も将軍の座を狙うが

ともかく、実朝の死によって源氏の直系が絶えてしまい、
血筋の近い人々が、将軍の座を狙って策動し始めました。

源氏の一族・阿野時元
頼家の遺子・禅暁
などです。

時元は、源頼朝の異母弟である阿野全成の四男です。
頼家や実朝のイトコですから、当然将軍になることは不可能ではありません。

しかし、その血筋の近さを義時が見逃すはずもありません。
京都で出家していた禅暁は、実朝暗殺の実行犯である公暁と兄弟だったことから関与を疑われて誅殺されてしまうのです。

義時としては皇族を将軍に迎えたかったようですが、朝廷に断られ、九条家から藤原頼経(当時1歳)を摂家将軍として迎えることになります。

頼経は頼朝の異母妹の血を引いているので、一応正当性もありました。
表向きとしては、「源氏の血を引く高貴な方をお迎えした」ということにすればいいわけですしね。ゲスい。

しかし、幕府と朝廷の関係は悪化してしまいます。
もしかすると、この時点で朝廷としては「頼朝の直系が絶えたんじゃ、幕府が存続する意味もないよねー。もう潰してもよくね?」(※イメージです)という考えがあったのかもしれません。

義時もその空気を察したものか、伊賀光季を京都守護として派遣し、治安維持と朝廷の監視をさせています。
その後、さらなる念押しとして、大江親広も上洛させていました。

 

承久の乱

一方、後鳥羽上皇のもとでは倒幕計画が着々と進められます。

そしてついに、京都近隣の武士や僧兵を召集&蜂起して、光季を討ちます。
同時に、「北条義時追討の宣旨」を発して、討幕の軍を起こしました。

承久の乱の始まりですね。

相手が官軍――という事態は武士たちの動揺を引き起こしました。
義時も、御家人たちの動向を心配していました。

が、ここで北条政子が土俵際のすさまじい粘りを見せます。

「アナタたち、頼朝公の恩義はどうなりました! 忘れたとは言わせませんよ!」

かくして、三浦義村以下、有力御家人のほとんどが幕府への忠誠を誓い、幕府側は一致団結して反撃態勢を整えることができました。

義時がいかに人望がないか。
逆に、政子の大演説がいかに効果的だったか。ジワジワと伝わってきますね。

義時は、最初から御家人たちを信用していなさそうですし、そういう雰囲気は御家人たちにも十分に伝わっていたのでしょう。

義時からも嫡子・北条泰時と次男・北条朝時、ならびに弟の時房を送りました。

総計十九万にもなる幕府軍は、三手に分かれて西へ向かい、快進撃を続けます。
そして、一ヶ月半ほどで京都を制圧するという完勝を収めました。

乱の中心だった後鳥羽上皇らを処罰すると、義時が幕府の最高権力者であること、義時と幕府が朝廷に優位であることが確定。
その流れに乗って義時は、皇室・公家の監視を務める【六波羅探題】を設置します。

朝廷からすれば首輪をつけられたようなもので、「ぐぬぬ」どころではありませんが、もはや対抗策もありませんでした。

 

乱から3年後に急死のナゾ

義時自身は、承久の乱の3年後に急死しています。享年62。

表向きは脚気衝心(脚気の進行による心不全)とされていますし、亡くなるその日に出家していたようなので、前々から徴候があったのでしょう。
一方、京都では「後妻の伊賀の方に毒殺された」という噂が立ったとか。また、近習に刺されたという説もあったようです。

まあ、これだけいろいろやっていれば、どんな原因であってもおかしくはないというか、畳の上で死ねるほうが珍しいというか……。

もしも義時が実朝暗殺の首謀者だったら、それを知った政子が……というのもありえなくはない話ですが、政子はその後、義時の息子たちと協力しているので、考え過ぎですかね。

これだけ真っ黒い人が独裁状態を布いていると、次代にさぞ累が及びそうですが、意外にもそうはなりませんでした。
続きは次回、義時の息子・泰時を中心としてお話して参ります。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「北条義時」「執権」 北条義時/Wikipedia

 




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