北条義時

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

史実の北条義時はどんな人物だった?62年の生涯と事績を振り返る

元仁元年(1224年)6月13日は北条義時が亡くなった日です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公だった彼は、史実でどんな人物だったのか?

まずは一言でマトメると、

北条政子の弟で、鎌倉幕府における北条氏の立ち位置を決めた人】

という感じですね。

義時は初代執権・北条時政の次男。

執権とは、将軍を補佐するという名目で、北条氏が実権を握った役職です。

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最初から鎌倉幕府にあった役職ではなく、

政治の中枢である【政所】

御家人を管理する【侍所】

という2つのお役所の【別当(長官のこと)】を独占したのです。

厄介なのが、必ずしも北条一族で一番エライ人(得宗家)が就くわけじゃないという点でしょうか。

途中から、執権職よりも得宗家のほうが権力を持っていたりします。

【ポイント】

執権=将軍の補佐と言いつつ実権No.1

次第に得宗家の方が偉くなったりする

では、執権の成り立ちに義時はどう関係しているのか?

彼の生涯を追いかけながら見ていきましょう。

【鎌倉幕府の執権と在任期間】
①北条時政 1203-1205年
②北条義時 1205-1224年
③北条泰時 1224-1242年
④北条経時 1242-1246年
⑤北条時頼 1246-1256年
⑥北条長時 1256-1264年
⑦北条政村 1264-1268年
⑧北条時宗 1268-1284年
⑨北条貞時 1284-1301年
⑩北条師時 1301-1311年
⑪北条宗宣 1311-1312年
⑫北条煕時 1312-1315年
⑬北条基時 1315-1316年
⑭北条高時 1316-1326年
⑮北条貞顕 1326-1326年
⑯北条守時 1326-1333年

 


北条義時 石橋山の戦いで史料に初登場

北条義時が記録上に初めて登場したのは、源平の合戦こと【治承・寿永の乱】の緒戦【石橋山の戦い】です。

ここで源氏軍がボロ負けし、父の北条時政と義時は源頼朝の後を追いかけました。

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一方、義時の兄であり時政の長男である北条宗時は別ルートで逃げています。

こういうとき、一族が二手に分かれるのはよくある話。まとまって逃げたら、もし敵の追撃を受けたとき、家ごと滅ぶことも考えられる。そのリスクを軽減するんですね。

実際、この敗走の途中で宗時が亡くなり、義時が嫡男としての地位を得ました。

義時がこの時点で戦に出られる年齢になっていたことも、彼にとっては幸運だったでしょう。

もしも兄と歳が離れていて、頼朝存命中に戦にも政務にも関われないような少年だったとしたら、後の権力も手に入れられなかったはずです。

頼朝は安房に逃げ延びた後、上総・下総・武蔵など、関東の有力武士たちを味方につけるべく、家臣たちを使者として遣わします。

このとき、北条氏は甲斐・駿河で源氏系の武士の下へ行き、協力を取り付けたようです。

詳しい記録はないものの【富士川の戦い】の直前、頼朝から甲斐の武田信義武田信玄の祖先)に対して、

「北条殿を道案内とし、早く黄瀬川あたりに来てもらいたい」

という手紙を書いていることから、北条氏がこの方面を担当していたと考えられています。

黄瀬川は、頼朝と源義経が初めて対面した場所としても有名ですね。

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以降、源頼朝が征夷大将軍になるまでの間、義時は父とともに側近を務めています。

逆に言えば、この時期の個人的な功績は全くといっていいほどわかりません。

【寝所近辺祗候衆】(頼朝の寝所など、非常に近いところで仕える人々)の中で、義時が筆頭として扱われていますので、頼朝の信頼を得ていたことは間違いないでしょう。

 


まずは関東平定

富士川で平家軍を追い返した源氏軍は、ここで即座に西上……とはなりませんでした。

頼朝に協力した関東の武士たちが「まずは関東を平らげるべき」と強く主張したからです。

ついこの前まで流人だった頼朝は、命さえあれば再起することもできます。石橋山での敗北から安房への逃亡など、既にそれは証明されていました。

しかし、既に領地を持っている千葉氏などは、頼朝ほど身軽ではありません。

この時点ではまだまだ関東にも平家方の武士がおり、長期間留守にすれば、領地や一族を失いかねませんでした。そのため、頼朝は鎌倉を本拠として、関東平定を急ぐことになります。

義時が具体的に何かをしたという記録はありません。以前と同じように地道に日々働いて、頼朝の信頼を勝ち取っていったのでしょう。

なぜかというと、寿永3年=元暦元年(1184年)9月、頼朝の弟・源範頼が西国へ向かったときに、義時も従軍しているからです。

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この出征は平家を直接討伐するものではなく、平家に協力的な立場だった九州の武士を源氏の勢力下に入れることが目的でした。

既に平家は都落ちしており、瀬戸内海エリアにいましたので、背後を塞ごうというわけです。

悪くいえば、とても地味な仕事。しかも、心情的に平家寄りな人々を相手にするのですから、源氏方にとっては不利なことが多い状況ですね。

兵糧や舟の手配はもちろん、源氏に味方してくれるように説得するなど、範頼だけでなく、同行した諸将にとってもなかなか厳しい時期だったと思われます。

頼朝もそれはよくわかっていて、範頼への手紙の中で、相手を懐柔するように伝えております。

「地元の人々の恨みを買わないように振る舞え」

「地元民をなだめて、彼らにとって有利なようにはからえ」

そういった手紙の宛名の中に、義時の名も出てきています。義時単独にあてたものではないにしろ、範頼軍の主要人物とみなされていたことは間違いなさそうです。

おそらくは、他の武将たちとともに、九州の武士を説得したり、物資の調達に走り回ったりしていたのでしょう。このあたりは想像の域を出ません。

 


壇ノ浦の戦いを経て

元暦二年二月にやっとその努力が実を結び、豊後や周防の人々から充分な舟や米を得ることができました。

これによって、範頼軍は動き回れるようになり、摂津から平家軍を攻める義経軍と協力して【屋島の戦い】ついで【壇ノ浦の戦い】に臨みます。

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このときも華々しい逸話は義経のものでしたが、その前には範頼や義時らの下準備がかかせなかったのです。

義経が奥州藤原氏に討たれた後は、頼朝が同氏を討つ軍を起こした奥州合戦にも参加しています。

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ここでも武働きはしておらず、頼朝の近侍に徹していました。

頼朝も武士というより、政治家としての面が強く感じられますが、義時はさらにその傾向が強いですね。

さらに、建久元年(1190年)に、頼朝が後白河法皇との折衝のため上洛した際には、露払いの役をしています。

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細かい経緯は不明ながら、このあたりから頼朝は義時を信頼しきっていたらしく、

「義時は必ず、我が子孫を支える存在になるだろう」

と言っていたとか。

後世の我々からすると、どんな顔をしていいやら。ある意味その通りになったし、真逆になったともいえます。

もうちょっとその“信頼”を実の弟たちにも分けておけば、鎌倉幕府における源氏将軍の血が途絶えることもなかったはず。

頼朝は都で元服していますので、摂関家が皇室に食い込む様子だとか、他の公家が娘を入内させて政治的立場を強くする様子を知っていたはずなのです。

なぜ気づかなかった?

政治力ハンパない頼朝でしたら、自分の妻・政子を通じ、北条氏が同じことを仕掛けてくる可能性を察知できたはずではないか。やはり人間、自分のことは意外とわからないもんでしょうか。

 

頼朝の死

ただし、この時期の義時はあくまで頼朝に忠実です。

「頼朝が暗殺された」という前代未聞の誤報で一騒動あった富士の巻狩りにも随行していますし、当時の人心掌握に欠かせない寺社の修繕に関する仕事も、頻繁に任された時期があります。

建久六年二月の頼朝上洛でも、義時は関東の御家人の大部分と共に同行しました。

その帰路の途中、妹の危篤を知ります。

姉の北条政子ではなく義時の妹については、稲毛重成に嫁いでいたことくらいしかわかっていません。

しかし、義時が関東に帰るほんの数日前に亡くなっており、一ヶ月以上も義時が父・時政とともに政務から離れて喪に服していたことからすると、兄妹仲は良かったものと思われます。

また、ここから頼朝が亡くなった正治元年の年明けまで、史料上では義時の動向がわからなくなります。

吾妻鏡に欠損があるというのも大きな理由ですが、妹の死も何らかの影響を与えていたのかもしれません。

というのも、頼朝が亡くなる直前の外出は、この義時の妹の供養のためだったからです。

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