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鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

北条長時(六代目執権)の時代は何もない!しかし血筋は長い!800年以上も続いているんだぜ

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鎌倉幕府は、将軍のゴタゴタも大変な上に、北条氏が執権になるまでの経緯もトラブル続き。

幾多の騒動を経て、ようやく安定し始めたのですが、すぐに次の問題がやってきます。
執権職の多くが3~40代で亡くなってしまうのです。

今回の主役【六代目執権・北条長時】の生涯にも、その辺の事情が常に絡んでおりまして。
しかし彼は北条一族の中では相当珍しく、在任期間中に大きな出来事にほとんど遭わなかった稀有な人でもありました。

心静かなる者は治世もまた穏やか――。
一体どんな人だったのでしょうか。

 

男児沢山ながら早逝多い執権一族

北条長時は寛喜二年(1230年)、北条重時の次男として生まれました。

父方の祖父が二代目執権・北条義時
五代目執権の北条時頼とは「少し血筋の離れた親戚」というところです。

ザックリとした系図で確認しておきましょう。

ご覧のとおり、長時は義時の孫で、時頼はひ孫にあたります。
なのに、ひ孫である時頼の方が先に執権(五代目)になっておりまして(年齢は3才上)。

北条氏は世代交代が早く、おまけに男子が多いので、こういうことがまま起きました。

系図と得宗(北条宗家の当主)・執権・連署の就任順を並べると、こんがらがってしまいます。
他にも、連署を務めてから執権に就任した人も何人かいますしね。

また、得宗家の当主が若くして亡くなり、その子供が幼い場合は、北条氏内部の年長者が中継ぎのような形で連署や執権をやることもありました。こういうのは皇室でもたびたびある話ですね。

 

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六波羅探題の任務で京都に縁が深い

長時は鎌倉で生まれた後、京都へ。
父・重時が六波羅探題に任じられ、一緒に上洛してしばらく都で育ちました。

そして、異母兄の北条為時が疱瘡の後遺症で精神的疾患になってしまったため、長時が新たに嫡男となります。

宝治元年(1247年)3月には、北条時盛(義時の異母弟・時房の息子)の娘と結婚、同年5月には鎌倉へ戻りました。
が、その二ヶ月後、父に代わって六波羅探題北方に任じられています。
忙しいですね。

これは、父・重時が五代執権かつ娘婿の北条時頼を補佐するため鎌倉に戻ったため、その後任という意味があったようです。

六波羅就任後の長時がしばらく鎌倉にいたのか、すぐ上洛したのかは不明だとか。
政治の中枢に近い人の記録が曖昧なあたり、まだまだ為政者としての武士は成長途中だった……といえます。

しかし、六代将軍・宗尊親王の将軍就任のために働き、建長四年(1252年)4月に宗尊親王が鎌倉に下向する際はお供をしたそうなので、少なくともこれより前には、しばらく京都にいたと考えていいでしょう。

再び上洛した後は、康元元年(1256年)までは在京。
同年3月、父が出家すると、鎌倉に呼び戻されて腰を落ち着けます。
六波羅探題北方は、長時に代わって同母弟の北条時茂が就任しました。

そして、この年11月に時頼が赤痢にかかったため、長時が新しく執権となります。

 

野心なき人柄にてトラブルも少なし

このとき色々と引き継ぎをしていながら、時頼が回復。
実権は再び時頼に戻りました。

また、長時の執権職は
「時頼の息子で北条宗家の嫡子である北条時宗元寇時代の人)が成長するまで」
という、条件付きのものでした。

長時が野心や反抗的な考えの持ち主であれば、ここでまた一騒動起きていたことでしょう。

しかし、彼は実に温厚で真面目な人物でした。
だからこそ、時頼に中継ぎを任されたのかもしれませんね。

実は、トラブル続きだった鎌倉時代の中で、長時が執権を務めていた康元元年(1256年)~文永元年(1264年)の間、幕府に大きなトラブルは起きていないのです。

鎌倉時代の主な年表を記載させていただきますね。

1185年 守護地頭の設置
1189年 奥州合戦
1192年 源頼朝が征夷大将軍となる
1199年 源頼家が家督を継ぐ
1200年 13人の合議制開始・梶原景時の変
1201年 建仁の乱
1203年 比企能員の変 ・源頼家が幽閉され源実朝が将軍
1204年 頼家暗殺される
1205年 畠山重忠の乱
1213年 和田合戦
1219年 源実朝が公暁に暗殺される
1221年 承久の乱・六波羅探題の設置
1224年 連署の設置
1225年 評定衆の設置
1226年 九条頼経が将軍(初の摂家将軍)
1232年 御成敗式目
1246年 宮騒動
1247年 宝治合戦
1249年 引付衆の設置
1252年 将軍頼嗣を京へ送還・宗尊親王が将軍に就任(宮将軍の開始)

~この辺が長時の執権時代~

1272年 二月騒動
1274年 文永の役(元寇)
1281年 弘安の役(元寇)
1285年 霜月騒動
1293年 鎌倉大地震・平禅門の乱
1297年 永仁の徳政令
1305年 嘉元の乱
1317年 文保の和談
1324年 正中の変
1326年 嘉暦の騒動
1331年 元弘の乱
1333年 鎌倉幕府滅亡

……と、こんな感じで、わかりやすすぎるぐらい空白です。

 

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長時もまたご多分に漏れず30代半ばで……

四代将軍・藤原頼経や、五代将軍・藤原頼嗣が同じ康元元年(1256年)に京で亡くなってますが、まぁ、長時は関与してないでしょう。

将軍である宗尊親王との逸話も特にないのですが、長時は勅撰集にも採られているほどの武家歌人なので、親王から和歌の手ほどきを受けたのかもしれません。
あるいは、和歌を通して良好な関係を築いた、という可能性もありますね。長時は京都育ちですし。

また、弘長元年(1261年)の正月に宗尊親王が歌会始めを行った際、長時も参加していました。
並以上に良い関係だったとみていいのではないでしょうか。

宗尊親王は後に京都に送り返されていますが、それは長時死後の話ですので、やはり関係はなさそうです。

しかし、やはり執権の激務のためか、文応元年(1260年)末あたりから、長時は体調を崩し始めていました。
このときまだ満30歳。

ちなみに、この頃も先代執権・時頼は存命ですので、実権のほとんどは時頼でした。
なんだか「激務+ストレス故の体調不良なのでは……?(´・ω・`)」と思えてしまいますね。

時頼が亡くなったのは弘長三年(1263年)11月で、長時自身が亡くなったのは文永元年(1264年)8月。享年35。
ということは、長時が実権を持っていたのは最晩年の9ヶ月程度です。

執権の座に就いていたのは約8年間ですから、およそ7年の間、目上とも周囲ともトラブルを起こさなかった……というのは、地味にスゴイ話なんじゃないでしょうか。
上記の通り、鎌倉幕府って年間行事みたいなペースで何らかの事件が起きてますしね。

 

尊氏の正室が長時のひ孫

長時が誠実に職務に忠実だったためなのか、彼の子孫たちもその後、比較的早く出世しました。
鎌倉幕府最後の執権・北条守時は彼のひ孫にあたります。

守時は幕府が倒れた際に自刃しましたが、別の形で長時の血筋は残ります。
足利尊氏の正室・赤橋登子が、長時のひ孫なのです。

尊氏と登子の間の男系子孫は、室町幕府五代将軍・足利義量、そして第五代古河公方・足利義氏まで続きました。

さらに、義氏の娘である氏姫を通じて、江戸時代には喜連川藩が成立し、明治維新まで大名として存続しています。
この系統は明治時代になってからも華族として残り、戦後だけでなく現在に至っています。

実に800年近くの間、続いていることになりますね。凄すぎ。

もちろん、その時代ごとの当主や親類縁者の人々が努力を重ね、家を存続させることができた点は疑いようもありません。
が、それができたのも、長時の人柄が血に乗って受け継がれていったからなのかもしれません。

穏やかな人物は目先の利益を逸しがちな世の中ですが、超ロングスパンの歴史で考えてみると、そうとも限らないものですね。

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「北条長時」 北条長時/wikipedia

 




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