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日蓮/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

日蓮の波乱多き61年の生涯! 他宗派を攻撃しまくり幕府に叱られ、それでも日蓮宗が続いた理由

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鎌倉仏教の中で、印象に残ってる宗派は?
というと【日蓮宗】を挙げる方が割と多いのではないでしょうか。

開祖の名前と宗派の名前が同じという点がわかりやすいですし、その後もちょくちょく歴史上に登場しますしね。
まあ、別の意味で強烈な部分もあるから、という理由もありますが……。

しかし開祖・日蓮の生涯となると、意外と知らない方もおられるでしょう。

本稿では今なお影響力の強い日蓮宗の誕生と合わせて振り返ってみたいと思います。

 

最初は「是聖房蓮長」と名乗っていた

日蓮は貞応元年(1222年)、現在の千葉県安房郡天津小湊町に生まれました。

自身は「漁師の子」と自称していたそうですが、現代の研究では地元の有力者の息子だろうと考えられています。
積極的に著述をしていた日蓮は自筆と伝わるものが多く残っていますが、その筆跡からしても、ある程度良い家の生まれではないかという気がしますね。

詳細な理由は不明ながら、天福元年(1233年)頃に天台宗の清澄寺(せいちょうじ/元・千葉県鴨川市)で出家し、仏道を歩むように。
最初は「是聖房蓮長」と名乗っていたのを、後に日蓮と改めたそうです。

清澄寺(千葉県鴨川市清澄)本堂/photo by Masanori88 wikipediaより引用

そのうち「安房では良い師匠に巡り会えない」と考え、延応元年(1239年)頃に鎌倉へ出て、さらにその後、京都付近へ移動。
比叡山延暦寺でも学んでおり、ここまではこの時代の僧侶として割とスタンダードな道をたどっていたといえます。

大きな特徴を持つようになるのは、
「法華経こそが唯一最高の教えであり、他の経典や宗派はそれに及ばない」
という考えを強め、特に浄土宗への批判が常態化してからです。

「他の経典が間違っているのなら、なぜその存在へ仏罰が当たって滅びていないのか」というツッコミは野暮ですね、ごめんなさい。

 

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そもそも法華経とは?

さて、法華経とはそもそも何なのでしょうか。

原語であるサンスクリット語のタイトルは
【サッダルマ・プンダリーカ・スートラ】
といい、意訳すると「白い蓮の花のように清く正しい教え」となります。

漢語訳としては「妙法蓮華経」といっていたのを、いつしか縮めて「法華経」と呼ぶようになったようです。

ではなぜ蓮なのか?
「泥の中から茎を伸ばして咲く」という特徴が、「泥のような現世の苦しみを昇華して仏になる」という仏教の考えに合致するからだと思われます。

余談ですが、仏教が生まれる前からインドにあったヒンドゥー教でも、蓮の花は特別視されていました。

となると、単に蓮がインド原産の花だからというわけではなさそうですね。
他の植物になくて蓮に顕著な特徴というと、「泥=水の中から咲く」ところでしょうか。

ヒンドゥー教ではガンジス川や沐浴が重んじられていることからして、「水に関わるもの」が特別視されているのでしょうね。
砂漠気候の地域があったり、雨季に豪雨が降るなど、水を崇める理由は複数ありますし。

さらに話が横道にそれますけれども、エジプトとナイル川も似たような感じです。
ナイル川には昔からスイレンが自生しており、古代エジプトで神聖視されていました。現代でも、エジプトの国花はスイレンです。

現代ではインドはヒンドゥー教、エジプトはイスラム教が主流ですけれども、どちらとも直接関係のない宗教が重んじられていた時代から好まれていた花が、今も国の象徴になっている……というのは、歴史の長さや奥深さが感じられますね。

日本の国花は法的に定められていませんが、桜を愛でる習慣は千年続いていますし、菊が皇室の象徴として確立してからも700年は経っていますから、民族性とは国の形が変わっても不変ということでしょうか。

 

1253年 そして日蓮宗は始まった

閑話休題。
法華経の主旨は「全ての人が、いつか仏になれる」というものです。
そこには女性や、武士のように殺生が関わる職業の人も含まれます。

だからこそ、日蓮は「この教えこそが唯一正しい!」と固く信じ、布教に乗り出したのです。

より詳しく知りたい人は、法華経の中にある「法華七喩(ほっけしちゆ)」というたとえ話から入ると、わかりやすくていいかもしれません。
結構俗っぽい話もあって面白いですよ。

かくして自らの歩むべき道を見出した日蓮は、建長四年(1252年)頃、地元の清澄寺に戻りました。

そして、翌年春にここから法華経信仰に関する説法を開始。
日蓮宗の始まりはこのときだとされています。

ただ、この頃には既に浄土宗が広まっておりましたので、周辺地域の浄土宗徒からは大きく反発を受けたようです。

反日蓮となった浄土宗徒の中には地頭御家人)の東条景信もいました。

自身の宗派を否定されただけでなく、日蓮の両親が、とある荘園領主の尼僧に味方していたことも、景信にとっては面白くないことで。
景信はその尼僧の荘園をぶんどろうとしていたそうなので、二重の意味で邪魔をされたことになります。

このため景信は、清澄寺を脅して日蓮を追い出させるのです。

 

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御家人に地元を追い出され、鎌倉へ行くクソ度胸

そんなことでヘコたれる日蓮ではありません。

地元を追い出された後は、鎌倉付近の名越(なごえ)に移って布教活動を継続。
御家人とケンカして締め出されたのに、その大本である幕府のお膝元に行くあたりが実にいい度胸というか、なんというか……。

上記の通り、日蓮はこれ以前にも鎌倉付近にいたことがあるので、ただ単に馴染みがある&他の寺院や人口が比較的多い土地を選んだだけなのかもしれませんが。

しばらくの間は静かに布教を続けていた日蓮。
数年すると、本人とは直接関係ないところで、世間は穏やかではない雰囲気になってきました。

正嘉元年(1257年)から文応元年(1260年)あたりに自然災害や流行病が頻発し、死傷者や飢えに苦しむ人々が続出したのです。

日蓮はこれらの原因を
「幕府が正しい行いをしていないから」
と考え、代表的著作として有名な『立正安国論』などを執筆、法華経を重んじるよう幕府に訴えました。

日蓮の著した『立正安国論』(巻頭部分)/wikipediaより引用

宗教家らしいといえばらしいですが、突然の申し出に幕府もビックリしたでしょうね。

当時の北条氏得宗は北条時頼です。
五代執権でもあますが、この頃には執権職から退いていました。といっても実権は手放していなかったので、日蓮も時頼宛てに文書を送ったようです。

時頼は禅宗を重んじていたので、即座に日蓮の言葉を受け入れることはありません。

立正安国論の中で日蓮は
「浄土宗は邪教であり、今からでも正しい法華経を信じなければならない。でなければ自然災害や他国からの侵略が起きるだろう」(意訳)
としています。

他にも「四箇格言(しかかくげん)」といって、浄土宗の他に真言宗・禅宗全体・律宗(平安時代に鑑真が伝えた宗派)もメッタメタに批判!
おそらく、時頼にはその辺も気に障ったと思われます。

この流れでなんで天台宗だけ含まれてないのかがちょっと不思議ですが、天台宗でも法華経を重んじていたからでしょうか。

後世には天台宗vs日蓮宗の争いも起きていますけれども……まあ、その辺の話は以下の記事でどうぞ。

延暦寺と日蓮宗のしょーもないガチバトル「天文法華の乱」で京都の街は大焼失

 

伊豆国伊東への流罪

そんなわけで、日蓮のやっていたことをざっくりいうと、
「仏教における原理主義」
みたいな感じです。
衆生を救おうとする目的は間違っていないのですが、いかんせんやり方が過激すぎる。

当然、他の宗派の真面目な僧侶たちは激怒しました。

特に浄土宗徒の怒りは深く、問答で対決した人もいれば、日蓮をブッコロすべく襲撃をかける者もまでいました。
なんで神仏ってこういうときに「暴力はダメだよ(´・ω・`)」(※イメージです)みたいなお告げをしてくれないんですかね。

いずれにせよ、騒動を起こされては為政者としても放っておけなくなります。

弘長元年(1261年)、幕府は、日蓮を伊豆国伊東への流罪としました。

といっても、二年後に赦免されているのですが。
「ちょっと鎌倉から離れてくれない? そうすりゃ浄土宗のほうも落ち着くから」みたいな感じだったんですかね。

鎌倉ではなかなか受け入れられないと悟ったのか、今度は文永元年(1264年)に安房へ帰り、布教を再開。
東条松原大路で未だ恨み冷めやらぬ東条景信らに襲撃され、長居はできませんでした。

そしてまたしても鎌倉へ移っています。
反復横跳びかっ!

 

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やっぱり私の考えと法華経は正しい! 他の宗派は滅殺!

そんな中、元(モンゴル)から幕府に対し
「ウチに従え! さもないとブッ潰すぞ!!」(超訳)
という書状がたびたび届くようになりました。

元寇前の脅しですね。

蒙古襲来絵詞/Wikipediaより引用

ときは執権・北条時宗の治世。
幕府も朝廷もガン無視することに決めますが、この話が一般に知られるようになると、社会不安から日蓮の教えに帰依する者が増えていきます。

人の心に平穏をもたらすのが宗教の本分ですから、そこまではいいのですが……それと同時に、日蓮は

「やっぱり私の考えと法華経は正しい! 他の宗派は滅殺!!」(超訳)

と信じ、ますます他宗派への批判を強めてしまうのです。

トップがそんな感じなので、日蓮に帰依した人々もまた先鋭化していってしまいまして。
この流れはどんどんヒートアップし、文永八年(1271年)、日蓮は再び幕府からお咎めを受けることになります。

これには、日蓮に関係ない事情もありました。

この頃は「いよいよ元が攻め込んできそうだ」という空気になってきておりました。

九州に領地を持つ御家人は現地で防備を固めるよう命じられていた状況。
御家人の中には領地ではなく、鎌倉に定住している者もいました。彼らが九州に行ってしまえば、鎌倉の武士が減ることになりますよね。

その混乱に乗じて反乱を企てていた者がおり、日蓮やその門下たちも「反乱を起こそうとしている一団だ」と疑われてしまったのだとか。
後の宗教の団結力を考えれば、疑われても仕方のないところではありますが……ううむ。

 

斬首寸前で佐渡への島流しに減刑される

北条時宗からすれば
「元に備えないといけないときに、ウチの地元で騒ぎを起こすんじゃねーよ!(#^ω^)ビキビキ」
という気持ちになってもおかしくはありません。

北条時宗/wikipediaより引用

とはいえ、まさかムカついただけでひっ捕らえたわけでは……ない……ハズ。

そんなこんなで日蓮はとっ捕まり、相模竜口で斬首される直前までいきました。

ギリギリのところで佐渡への流罪に減刑され、まさに命拾いをしています。
ただし、弟子の中にも流刑や拘禁などに処された者が多く、また、この時点で日蓮宗から離れた者も少なくなかったそうですから、宗教団体としては壊滅同様でした。

しかし、障害があればあるほど燃えるのが恋と宗教です。
日蓮は流刑先でも信仰を失わず、著述をしながら赦免を待ちました。

そして文永十一年(1274年)、幕府に許されて鎌倉へ戻り、北条時宗の御内人・平頼綱と会見します。

その席で元寇に対する意見を求められ、
「今年は元が攻めてくるでしょう」と予言し、
「だから今からでも法華経を重んじるべきです」と改めて主張しました。

はたから見ると「それとこれとに何の関係が?(´・ω・`)」と思えてしまいますが、日蓮の言い分では「法華経を信じれば国は守られる!」ので、彼からすると関係があるということになるわけです。

幕府も今度は手荒にならず「お、おう」(超訳)とスルーして日蓮を帰しました。
日蓮も「幕府には私の言っていることが伝わらない」と感じたのか、このときは粘らず、鎌倉を去って甲斐の身延山に移っています。

 

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池上本門寺の子院・本行寺近辺で入寂

このあたりでまた信者が増え始め、同時に日蓮宗に関するトラブルもまた起きるようになりました。

弘安二年(1279年)には、現在の静岡県富士市厚原で、日蓮の弟子たちに対して弾圧が起きています。
当時はこの土地を「熱原」と書いていたので、熱原の法難と呼ばれる出来事です。

既に老齢に入っていたためか、日蓮は身延山から指示をしていたといわれています。
若い頃の日蓮は結構アクティブな気がしますが、歳をとって丸くなったんですかね。

というのも、熱原の法難から三年後の弘安五年(1282年)には体調を崩し、常陸の温泉で湯治をしようと出かけ、途中で亡くなっているのです。
享年61年。

三年前からゆっくり病状が進んでいたと考えれば、弟子のピンチに動けなかったのも自然ですよね。

最期は武蔵池上の信者・池上宗仲の館に滞在していました。
現在の池上本門寺の子院・本行寺の位置にあったといわれており、日蓮が入寂(にゅうじゃく・僧侶が亡くなること)したとされる建物もあります。

東京都大田区にある池上本門寺・大坊本行寺

日蓮が千葉県出身というのはよく知られていますが、都内で亡くなったというのはあまり知られていない気がしますね。

他宗派批判というと道元の特徴でもありますが、道元と日蓮は世代がズレていて、同じ時期には活動していません。
日蓮のほうが22歳ほど年下で、道元が亡くなった年に日蓮が初めて説法を行っていますから、全く世代が違います。

もしもこの二人が同時期に活動していたら?

どこかで激しい対決があったかもしれません。
見てみたいような、なくてよかったような……^^;

長月 七紀・記




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参考:国史大辞典「日蓮」日蓮/wikipedia

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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