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鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

足利義量は酒飲みすぎて19才で急逝 存在感が薄すぎる室町幕府・五代将軍に注目してみる

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鎌倉にせよ、室町にせよ、江戸にせよ。
各幕府で後世にまで名が轟いているのは、やはり政治的・外交的な足跡をきっちり残してこられた方ばかりでしょう。

逆に言えば、そうした功績がなければほとんど名前は登場しない。
その極めつけが、室町幕府五代将軍・足利義量(よしかず)ではないでしょうか?

他にもマイナーな将軍は多々おりますし、七代将軍・足利義勝などは9才で亡くなるという悲運の将軍でしたが、義量もまた19才の若さで死亡。
しかもその理由が「お酒」と考えられてます。

一体、彼に何があったのでしょうか。

 

父・母・息子でよく外出していたとか

五代将軍・足利義量の父親は、四代将軍・足利義持です。
有名な三代将軍・足利義満の孫にもあたりますね。

義持は、その父・義満が大嫌いでしたが、自分の息子・義量のことは割と好きだったようです。
というのも、義持には育ち上がった息子が義量しかいなかったからです。

跡継ぎがいなくなるとあらゆる意味で困りますし、義量は小さい頃から病弱な質だったため、余計に可愛く感じられたのかもしれません。

また、義持は寺社への参詣をはじめとした外出の際、義量を同行させるようにしていました。
息子への愛情ももちろんあったでしょうし、幼いうちから将軍としての立ち居振る舞いを示そうと考えたのでしょうか。

足利義持(父は足利義満)/wikipediaより引用

さらにいうと義持は、妻の日野栄子との関係も良かったといわれています。
栄子は猿楽や能を好んでおり、見物することもよくあったとか。

だからこそ義持・栄子・義量の将軍一家で出かけることも多かったのでしょうね。
義量が将軍職を継いだのは応永三十年(1423年)のことで、その前後にも三人でよく外出していたそうです。

武家で親子団欒というのも珍しいというか、歴史上で「親子」とか「兄弟」という単語が出てくると、だいたいその後に「○○を巡って争いました」と続くので、極めて稀な例かと。
武士は戦うのがお仕事ですけれども、身内でまでやらなくたっていいですよねぇ。

 

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側近たちに酒を控えるよう伝えるほど

将軍を引き継いだとき、義量は16歳、父の義持は37歳でした。

跡を継がせるにはまだ早いタイミングです。
が、これはおそらく義持が義量を後見するためと思われます。

大嫌いな父・義満と同じヤリ方なのはしゃあないですね。息子の病弱さなども考慮したのかもしれません。

それを示している……かもしれないエピソードとして、こんなものがあります。

義量は若い頃からかなりの大酒飲みで、義持は度々苦言を呈していました。

そして将軍位の継承があった頃、義持から義量の近臣に
「義量の酒量ヤバすぎ。お前ら節酒させろよな」(意訳)
と命じていたそうなのです。

上記の通り、このとき義量は16歳。
元服後ですので、当時の社会的には成人ですけれども、現代科学で考えるとまだ体ができあがっていないくらいの年齢です。

女性であれば前田利家の妻・まつのように「10代のうちからガンガン子供産んでました」なんてこともありますが、男性の第二次性徴は女性よりも遅くなるのが常ですしね。

当時の食事にはお酒がつきもの、かつ現代よりもずっと薄いお酒だったとはいえ、16歳の少年が親に止められるほどというのは相当な酒量だったのでしょう。
これが「将軍になったのに実権を握らせてもらえず、鬱屈していた」とかならまだわかるのですが(よくはないけど)

 

急性アルコール中毒か、あるいは依存症か

酒毒が体に影響したものか。
実際、義量の体は次第に蝕まれていったようです。

詳しい病状がわからない上、享年19(満17歳死去)で急死となってしまいます。
確率としては急性アルコール中毒の可能性が一番高いでしょうかね。

亡くなる2~3年前から病気だったともいわれていますので、慢性的な二日酔い=アルコール依存症の末に……というのもありそうです。

ぶっちゃけ、義量に関する記録は少なすぎて、彼を中心に据えた研究はほぼ行われていないような有様ですから、依存症での死というのは完全に私の想像ですが……。

もしも義量がお飾りの将軍位に鬱屈してお酒に走ったのだとしたら、一つだけ評価できることがあります。

「漁色に走って子供を作りまくるよりは、本人が早世するだけで済んだほうがマシ」ということです。
身も蓋もありませんし、一人の人間として見た場合は不幸極まりないのですが、権力者の子供が多すぎてトラブルとなる例は枚挙に暇がありません。

他にも「若年の将軍が急死」というところから、当時は何らかの祟りではないか?とも考えられたそうです。

「義嗣(義持の弟で義満に寵愛されていた人)の祟りだ」とか、「義持がブッコロした石清水八幡宮関係者の(ry」とか。
それならそれで義量じゃなくて義持に祟れよ、という気がしますけれども。

 

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死後に贈られた従一位左大臣にはどういう意味が?

義量には子供がいなかったため、次の将軍を決めるときに一悶着起きました。
詳細は六代将軍・足利義教の項でご確認していただくとして、今回はもうちょっと先のお話を最後に付け加えさせていただきます。

長禄元年(1457年)、義量の三十三回忌に際し、従一位左大臣が贈られました。

当時の将軍は八代・足利義政です。
義量と義政は、血縁上ではイトコ同士なのですが、義量が亡くなった後に義政が生まれているので、面識はありません。となると、義政の奏上で追贈されたわけでもなさそうです。

足利義政/Wikipediaより引用

他には、義政の兄である七代将軍・足利義勝、十二代・足利義晴、十三代・足利義輝が従一位左大臣を追贈されています。

それぞれの死因は

・義勝→不明(赤痢説が有力・他に暗殺や落馬など)
義晴→漂泊の末に水腫で病死(病状に絶望して自害した説も)
・義輝→松永久秀らに謀反を起こされ、応戦の後自害

……と、穏やかではないものばかりです。

ここで注目したいのが、室町幕府のほとんどの将軍が【太政大臣】を追贈されているということです。

死因の怪しい、激しい人たちはそれより劣る左大臣。
となると、もしかして「ちょっと不吉な死に方だったから一段下げよう」みたいな不文律があった? 死んだ後までヒドイ扱いしなくたっていいと思うんですけど……。

実権のなさと生涯の短さから、将軍のうちに数えてもらえないことすらもある義量。
もしも酒に溺れず、壮年まで生きられていたら、室町幕府や戦国時代は大きく影響を受けたかもしれません。

彼の足跡や人柄がわかるようなものが、今後見つかればいいのですが。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「足利義量」
足利義量/wikipedia

 




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