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享徳の乱で関東は超カオス!足利と上杉のドンパチ28年間って応仁の乱より長っ!

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永享の乱やら嘉吉の乱やら。
「ナントカの乱」が頻発する頃合いになると、室町時代というより戦国時代といったほうが正しい気がしてきますね。

さらに「ナントカ公方」まで乱立するようになると、後世の我々からすれば「いい加減にせんかい!」とツッコミまくりたいところ。

今回は最悪なことに、その二つが重なった【享徳の乱】を見ていきましょう。

 

まずは享徳の乱を三行マトメ

まずはこの戦を無理に【三行】でまとめてみます。

・永享の乱後、鎌倉府の再興で大失敗
・関東のあっちこっちの大名がどさくさに紛れてお家騒動
・大規模な戦は収まったけど、関東は小国乱立状態が定着したまま戦国へ

みたいな感じです。
とにかく関係者が多いのでこんがらがりやすいのですが、最低限に省略してお話を進めます。

そうでないと何万字書いても終わらない(´・ω・`)

事の発端は【永享の乱】でした。
永享の乱と享徳の乱は、中心人物が敵対関係ごとそのまま世代交代したような話なので、とても関連が強い出来事同士です。

例えば国史大辞典では、まとめて永享の乱の項目に書かれていたりします。

永享の乱については先日も取り上げましたが、「もう一度読むのダルい」という方も多いかと思いますので、ここでサラッと確認しておきましょう。

 

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永享の乱をおさらいしましょう

室町幕府の機関の一つとして「鎌倉府」というお役所があります。
その名の通り鎌倉に置かれていて、幕府の目が届きにくい東日本の統治をするための部署です。

ここのトップである関東公方の地位は、初代将軍である足利尊氏の次男・足利基氏の子孫が代々世襲することになっており、しばらくは問題なく務めておりました。
補佐役の関東管領は、これまた世襲で上杉氏が担っています。

対立のキッカケは、六代将軍・足利義教と四代目鎌倉公方・足利持氏が不仲になったことです。

足利義教/wikipediaより引用

両者の争いは、次第に「幕府vs鎌倉府」という構図に発展。
足利持氏が、関東管領・上杉憲実を排除しようとしたことがキッカケとなって争いが激化し、その結果【永享の乱】というカタチで滅ぼされました。

更には、持氏の遺児を擁した結城氏vs幕府の「結城合戦」を経て、「関東はしばらく上杉氏が統治する」ということで一旦は落ち着きました。

しかし、です。
このタイミングで、また大きな騒動が起きます。
将軍・義教が【嘉吉の乱】によって赤松満祐に暗殺されてしまったのです。

鎌倉府を押さえつける力の源泉だった義教がいなくなり、今度は関東が【半独立化】する事態となりました。

とはいえ、関東の大名の中にもこの状況を憂えている人はおり、彼らが
「持氏様のご子息である足利成氏(しげうじ)様を、新たな関東公方にしていただけませんか」
と申し出ると、幕府からも許しが出て、ようやく鎌倉府は元の形に戻った……ハズでした。

 

新たな関東管領に就いた憲忠 その家臣が……

新たな関東管領には、上杉憲実の息子である上杉憲忠が就いています。

憲実はもともと鎌倉府と幕府の間に立って仲裁しようとしていたので、主筋である足利持氏を討つことは不本意であり、後ろめたさを抱いておりました。
そのため憲実は、息子の関東管領就任に反対していたのですが、憲忠は父親ほど思いつめてはいなかったようで、自らの就任を押し切ります。

一方、足利成氏からしてみれば、上杉氏は父の仇にも等しい存在です。
そのため、関東管領である憲忠よりも、結城氏・里見氏・小田氏など周囲の実力者たちを重用するようになりました。

当然、上杉憲忠はこれに反発します。

そして上杉氏の家臣たちが結城氏らの勢力拡大を阻止するため、足利成氏を攻めるという暴挙に出ます。

「ウチの殿様は関東管領なんだから、こっちを優遇してください!」
と脅し(物理)をかけたわけですね。

そんなことをされて成氏の心象が良くなるわきゃーない。
脅されて言うことを聞くような人だったら、そもそも上杉氏を冷遇しようなんて思わないでしょう。

 

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幕府の命で今川範忠が出陣するも

不穏な空気が漂う中、享徳三年(1455年)の末に、足利成氏と里見氏・武田氏が、上杉憲忠とその側近を暗殺してしまいます。
これが【享徳の乱】の直接のキッカケとなりました。

関東管領の座は、直ちに憲忠の弟・上杉房顕(ふさあき)が継ぎ、彼はイトコである越後守護・上杉房定と組んで、上野平井城に籠もります。
そりゃあ、兄である当主をいきなりブッコロされたんですからね。
黙っているわけにはいきません。

このとき、鎌倉付近にいた上杉氏の重臣・長尾景仲は、憲忠の妻など生存者を救出し、地元の上野に戻って兵を集めています。

そして足利成氏方vs上杉房顕方の戦いとなるわけです。

初戦の「分倍河原(ぶばいがわら)の戦い」は上杉方の惨敗。
このころ上杉氏には「山内家」と「扇谷家」という二つの系統があったのですけれども、なんと扇谷家の主要人物がほとんど命を落としてしまいます。

長尾景仲はどうにか生き延びました。

が、政治が総理大臣一人でできないのと同様、戦も武将一人ではできません。
ひとまず常陸の小栗城へ逃れ、同時に幕府へ憲忠暗殺の報告と、足利成氏討伐を求める急使を立てました。

幕府のほうでも事態を重く見て、直ちに駿河守護・今川範忠(今川義元の曽祖父)に出陣を命令。
しかし、今川軍が合流する前に小栗城が落ちてしまい、上杉方は窮地に立たされていきます。

 

留守にしていた本拠地・鎌倉を上杉方に奪われる

成氏はついでに宇都宮等綱(うつのみや ひとつな)を降すなど、転戦を続けました。

しかしここで、留守にしていた本拠地・鎌倉を上杉範忠に奪われてしまうのです。
「足元がお留守」とはまさにこのことでした。

範忠は六代目将軍・足利義教のおかげで今川氏の当主になれたようなものだったので、幕府に対する忠誠心が非常に厚い人だったんですね。しかもこのときは、朝廷から「錦の御旗」まで受けているので、気合の入れようが違います。

さらに、範忠の妻は扇谷上杉家の出身ですから、上杉氏全体が縁戚といっても過言ではありません。

もともと鎌倉は、守りやすく攻めにくい場所です。
一度取られたら取り返すのも大変。
そこを意識しないから足利持氏も成氏も負けるんやで(´・ω・`)

このとき、鎌倉の勝長寿院にいた成氏の兄弟・成潤(せいじゅん)は、なんと日光山まで逃げ、上杉方についています。
つまり、鎌倉には足利氏の人間がいなくなってしまった……という、なんとも締まらない展開。

足利成氏は鎌倉に戻るのを諦め、古河(現・茨城県古河市)に落ち着きました。
これ以降、持氏は「古河公方」と呼ばれるようになります。

さあ来ましたよ、ナントカ公方、乱立の時代です。

 

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世はまさにThe・下剋上!

関東を抑えるべき鎌倉公方&関東管領がこんな状態ですから、他の勢力もとても大人しくはしていません。
同地方の大名たちは
「よし、今うまくやれば俺のシマを広げられるぞ!」
「今のうちに本家の家督を奪ってやろう!」
といった野望を抱いて、次々に動き始めます。

例えば千葉氏では、分家の人たちが本家を倒して家督を奪い、宇都宮氏では当主・宇都宮等綱(ひとつな)が重臣に裏切られて本拠の宇都宮城を奪われました。
まさにThe・下剋上!

上杉方が不利になりつつある中、関東管領・上杉房顕は諦めずに武蔵へ入り、足利成氏と戦い続けます。

こうして、当時、江戸湾(東京湾)へ流れていた利根川を境として、
【古河公方・足利成氏方 vs 関東管領・上杉方】
という勢力に分かれました。

現在の利根川は渡良瀬川などと合流して太平洋に繋がっています。
実は、この状態になったのは、江戸時代の治水工事で大きく流れを変えられてからのこと。室町・戦国時代の利根川は、荒川と合流して江戸湾へ流れていました。

現在の地名でいえば、江戸川と荒川の間あたりが成氏方と上杉方の境目といえます。旧
国名だと、常陸・下総・上総・安房あたりが成氏方で、武蔵・下野・上野あたりが上杉方です。

あるいは「両国」という地名が「下総・武蔵両国の境目」という語源ですから、現在の両国国技館あたり……と考えてもいいかもしれませんね。
いずれにせよ、まさに関東がまっぷたつ!であります。

 

ヤル気を見せた義政 いきなり出鼻をくじかれる

勢力が2つに分かれて戦う――というのは現代の我々にとってはわかりやすい構図になりました。
が、当時の幕府としてはたまったものではありません。

ときの将軍は八代・足利義政です。この頃はまだやる気がありました。

足利義政/Wikipediaより引用

義政は、まず成氏を正式にクビとし、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方に任じて、事を収めようと考えます。

そのため上方にいた山内上杉家の面々などをお供に付けて東下させたのですが、関東の武士たちからは
「京から来たお偉いさんが、俺たちのシマに口と手を出そうとしている! そんな勝手なことさせてたまるか!」
と考えてしまい、彼らの支持も強力も得られず、鎌倉に入ることすらできませんでした。

足利政知は、大きな対立を避け、だいぶ離れた伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に入り、それから「堀越公方」と名乗るようになります。

義政はこの知らせを受けて関東へ軍を出そうとしますが、よりによってその総大将を命じた守護大名・斯波義敏が、身内のゴタゴタを収めるために地元の越前に行ってしまうという出鼻のくじかれっぷり。
今川氏が政知についていたものの、この頃代替わりなどがあり、戦力としては充分とはいえない状態でした。
義政が仕事を投げ出す原因その1です。

一方そのころ上杉房顕は、長禄三年(1459年)からの【五十子の戦い(いらこ/いかご。現・埼玉県本庄市)】において、またもや成氏方にボロ負けしてました。
双方がこの付近に忍城(おしじょう)・深谷城・関宿城などを築き、最前線となりました。
忍城は後に豊臣秀吉小田原征伐の際、石田三成が攻略を任され、水攻めをしたことで有名になるあの城です(のぼうの城)。

 

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気がつけば京都ではドデカイ戦が起きていた

そうこうしているうちに寛正七年(1466年)、上杉房顕が戦場の五十子で病にかかって亡くなりました。
享年32とまだ若かったのですが、亡くなったのが真冬なので、インフルエンザにでもかかったのかもしれません。

房顕の陣没が知らせられると、幕府は房顕のイトコである上杉房定の子・上杉顕定(あきさだ) を房顕の養子ということにして、跡を継がせよと命じます。

戦中の代替わりはなかなか難しいものです。
しかし、上杉顕定は頑張りました。
有力家臣・長尾景春が持氏方に寝返るわ、五十子から撤退するハメになるわといった苦労をしながらも、応仁二年(1468年)の【綱取原合戦】では上杉方が勝利を収めます。

……皆様、お気づきでしょうか。
この一年前の1467年。
上方では【応仁の乱】が始まっているということに。

応仁の乱/Wikipediaより引用

当然、幕府は関東へ兵を送るどころではありません。そもそも義政も仕事やる気なくしてます。

しかし、こんなに西も東も戦をやっていて、よく国が保てたものです。
大陸国家だったらあっという間に滅亡一直線でしょう。

皇室や公家のお財布事情はえらいことになっていましたけれども、よくこの状況(につけこん)で一般人が【蜂起→独立勢力化】とかしなかったものです。
いや、その土壌は生成されたのかもしれませんね。
あるいは、独立を計るより落ち武者狩りで一儲けするほうがよかったとか? それはそれでこわい。

 

本拠地を奪われ、取り戻す――って、何がしたいんや!

閑話休題。
足利成氏方から上杉方に寝返った岩松氏内のゴタゴタも片付き、少しずつ上杉方が有利になり始めます。
一方その頃、海を渡って足利成氏がは、千葉氏・小山氏・結城氏らを率いて伊豆へ侵攻、足利政知が敗れるという出来事がありました。

これは上杉方にとっても手痛いところですが、ピンチをチャンスに変えるのも名将の条件です。

上杉方のトップである顕定は
「ん? 今なら成氏方の主力が留守ってことだよな? なら、古河を落とせるんじゃね!?」
と気付き、総攻撃をかけて古河を落とすのです。

「上杉」で「戦が上手い」というと、どうしても上杉謙信を連想してしまいますが、他にも名将がいるのは古くからの名家(養子も含めて)ならでは……という感じがしますね。

顕定は、そのまま下野の攻略に成功したものの、成氏も負けていません。
ド根性で古河を取り返しています。

というか、一時とはいえ本拠を留守にして足利政知を殴りに行くあたりがよくわからないんですよね。
何を得たくて戦っているのか?
全くわからなくなってきてます。

例えば、幕府から独立したいのなら、東北の大名を味方につけるとか、西国の大名に連絡を取って幕府の背後をつついてもらうとか、いろいろ戦略は取れるはずです。
こういうのは「遠交近攻(えんこうきんこう)」といって、古くからある戦法です。

また、上記の通りこの間上方では改元されて【応仁】になっていたのですが、成氏は【享徳】を使い続けています。
トーチャンと同じことばっかりしてますね。
悪いとこばっかり似なくてもいいのに(´・ω・`)

 

28年かけてようやく和睦 将軍家はズタボロです

ここで上杉氏の内紛が絡んできます。
上杉氏の有力家臣の一人・長尾景春が執事(上杉氏のナンバー2にあたる役職)になれなかったことを恨んで兵を挙げ、文明九年1月(1477年2月)に五十子を落としてしまったのです。
これを「長尾景春の乱」といいます。まんまですね。

危機感を抱いた顕定は、文明十年(1478年)に成氏と和睦をします。
そりゃ自分の家の中がヤバイときに対外戦争なんてできないですよね、普通は。

そうこうする間に足利成氏も頭が冷えてきたのか、文明十一年(1479年)に、自ら幕府との和議を申し出ます。

少々の紆余曲折を経て、文明十四年11月(1483年1月)、ようやく成氏と室町幕府の和睦が成立し、享徳の乱は終結しました。

話が丸く収まって何よりですが、ここまでに28年。
原因がしょーもない割に犠牲者が多すぎることからすると、「めでたしめでたし」とは言い難い。

こうなると政知の地位が宙ぶらりんになってしまいそうですが、
「関東は成氏が治めるが、伊豆だけは政知が支配する」
ということで話はまとまりました。ややこしや~。

しかし、成氏は相変わらず古河に留まり、政知も権利を認められたからには堀越を動けず、「鎌倉府」は名実ともに消滅しています。
頼朝が草葉の陰で号泣してそうですね。
以降、鎌倉という地名自体が歴史の表舞台に出てこなくなってしまいますし……。戦火に巻き込まれにくくなってよかった、とも考えられますが。

年号を見るとわかる通り、関東で【享徳の乱】をやってる間に、上方では【応仁の乱】が始まって(一応)終わっています。

「関東を任せたはずの将軍の身内も、将軍自身もケンカを収められず戦が長引いた」ことは、応仁の乱以降の将軍家がナメられっぱなしになる遠因ともなりました。そりゃそうだ。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「永享の乱」
永享の乱/wikipedia

 




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