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応仁の乱/Wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

応仁の乱をスッキリ&ちょっと詳しく解説!山名vs細川以外の全国にも目を向けようゼ

更新日:

室町時代は始めから終わりまでとにかく乱がややこしい。
その最高峰が、戦国時代との境界線にあたる【応仁の乱】でしょう。

昨今は新書のベストセラーなので身近になりつつありますが、あまりにも話がややこしいので、結局、撤退されてしまった方もおられるのでは?

応仁の乱の記述といえば、だいたいが
・全てを説明するか
・サラッと「この戦のせいで戦国時代が始まりました」
と流してしまうかのどちらかになることが多いと思います。

そこで今回は、その間を取るような感じでお話していきましょう。

基本を押さえつつ、オモシロな部分を味付していくという感じっすね。

 

将軍・管領・守護大名たちの争い

まずは戦いの前に、当時の全体的な情勢について。
3つの要因を把握しておくと理解が早くなりそうです。

要因①九代将軍を巡る対立
本来なら【応仁の乱】における主軸のハズなのに、途中から、元凶の足利義政が「イチ抜けた!」とばかりに引っ込んでしまうので、影が薄くなっています。
当初、義政には息子がおらず、出家していた弟・足利義視を無理やり還俗させ、次代の将軍にしようと画策していました。
が、そんなタイミングで日野富子との間に義尚が生まれ、直接、将軍職を継がせたくなり……という流れです。ややこしいっすね。

要因②管領家の対立
室町幕府のお偉いさんたちのうち、ナンバー2である「管領職」に就ける畠山・細川・斯波の三家を「三管領」と呼びます。
本来は幕府の内外を取り締まるべき彼らが、家同士で対立するどころか自分の家の内部でも揉めていました。

要因③守護大名たち
応仁の乱が始まると、東は東海地方、西は中国・九州地方の大名が乗っかってきます。
例えば、大名家の中でも元々後継者を巡っていた――などの対立があり、それぞれが自分たちに有利なほうへ進めるため「じゃあ三管領のうち○○家に味方する代わりに、便宜を図ってもらおう」という目的で○○家に接近したり、京へ兵を出したりしました。

主にこの3つが絡まり合って、後世の人間に頭痛をもたらせてくれやがるのです。

 

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前兆は嘉吉の後に発露していた

話の流れとしては、もう少し前の時代も関係してきます。

応仁の乱の前兆は、【嘉吉の乱】での功績によって、山名氏が急激に力を強めたことでした。
山名氏も「四職(ししき/ししょく)」と呼ばれるお偉いさんの家ですが、幕政の中核にいた三管領の畠山氏や細川氏はこれをよく思いません。当たり前といえば当たり前のことです。

そんな感じでギスギスする中、彼らはお互いに味方を増やすべく、周辺地域の守護大名に介入したり、お家騒動に手と口を出し始めました。
この時点で相撲大会でもやって決めればいいと思うんですがね。そもそも「争いを避けなければならない」とか「人を殺してはいけない」という考えが限りなくゼロに近い時代の話ですから……。

そして当時の山名氏当主・山名持豊(宗全)と、細川氏の当主・細川勝元が諸々の理由で対立を激しくしていきます。
この辺を詳しく知りたい方は過去記事をご参照ください。

【関連記事】山名持豊 細川勝元

逆に言うと、この二人の対立だけで二つも記事が書けてしまうくらい、ややこしくて長いんですよ(´・ω・`)
応仁の乱を教科書のように三行で説明することの難しさがうかがえます。

細川勝元/Wikipediaより引用

 

そのとき信濃の小笠原氏では……

もう少し各地の大名家内の対立構図を見ていきましょう。

注目は、信濃の小笠原氏です。

同氏は元々鎌倉幕府御家人で、足利尊氏が幕府に逆らった頃、当時の当主だった小笠原貞宗が尊氏につきました。
そして貞宗の出身地だった信濃の守護を代々任されるようになります。室町幕府にとっては、草創期からの味方という感じですね。

時が流れ、嘉吉二年(1442年)に当主の小笠原政康が亡くなると、その子・小笠原宗康とイトコの小笠原持長が当主の座を巡って対立。

なぜイトコ(当主から見れば甥っ子)が出しゃばるんだ?
と思われるかもしれませんね。
持長は在京期間が長く、結城合戦や嘉吉の乱における赤松氏討伐に功績があった上、管領・畠山持国との縁戚関係もあったため、政治的に立場が強かったのです。

しかし、小笠原氏の内部では
「地元のことをよく知らない人が上になるのはちょっと……^^;」
と考えられました。
この時代、国人(地元の有力者)の勢力も侮れず、守護には彼らとうまくやっていく手腕が問われたのです。

幕府もそのように考え、より地元に馴染みのある小笠原宗康を新たな信濃守護に任じました。

しかし、事態はそれで鎮静化してくれません。
守護になれると思っていた持長に同調する小笠原家臣や国人衆もおり、宗康派vs持長派で家が真っ二つに割れてしまったのです。

そして文安三年(1446年)に宗康が、【漆田原の合戦】で持長に敗死するのですが、宗康は「自分が討ち死にした場合は、弟に家督を譲る」と明言していたため、今度は弟・小笠原光康が家臣に担がれ、持長との対立が続きます。
しかも、そこに宗康の遺児である宗康の子孫が加わって三つ巴状態になってしまいます。

【三つ巴の内紛】
・小笠原持長
・小笠原光康
・小笠原宗康の遺児

ややこしいのは三管領が異なる勢力を支持していたことです。
細川勝元が光康、畠山持国が持長についていました。

戦いの炎が全国へ飛び火――というより全国の対立が京都に集結したような応仁の乱/photo by Masaqui wikipediaより引用

 

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そのとき加賀の富樫氏では……

もう一つ地方の争いを。
加賀は富樫氏に注目です。

富樫氏は、藤原北家魚名流を祖とする家で、初代の富樫泰家は源義仲に仕え、倶利伽羅峠の戦いで活躍した人です。
義仲が討たれた後は源頼朝のもとで働きました。

彼は際立った特徴があります。
歌舞伎「勧進帳」や能の「安宅」に出てくる安宅の関の【関守のモデル】だと言われているのです。

弁慶の機転に感じ入って義経一行を通してやり、頼朝の勘気を蒙ったという逸話がありまして。嘘っぽいといえば嘘っぽいんですが、平安末期の価値観ならありえなくはない気もしますね。能や歌舞伎そのままではないにしても面白い話です。

応仁の乱に関係してくるのは、七代目の当主・富樫教家とその弟・富樫泰高。
例によって背後に有力者がついていて、教家には畠山持国、泰高には細川勝元がおり、持国と勝元による管領就任のたびに加賀の守護職もコロコロ変わって大混乱に陥りました。

このような争いが、やがて斯波氏や畠山氏など、他の有力守護大名家や管領家にも及びます。

 

そのとき河内の畠山氏では……

畠山氏では、宝徳二年(1450年)に畠山持国が庶子・畠山義就に跡を継がせて隠居したのに対し、神保氏などの有力家臣が「甥御の畠山政久様に継がせるべきです!」とゴネ始めました。
なぜなら持国には正式な妻との間に子供がおらず、最初のうちは弟・畠山持富を後継者にしていたからです。持富の息子が政久ですね。

しかしその後、持国が突如心変わりをして、身元の不確かな息子・畠山義就を後継者に決め、弟の持富はゴネずに引き下がりました。
彼はその二年後に亡くなっているので、体調が優れなかったのかもしれません。

そこに登場したのが持富の長男・政久です。
当初の予定通り持富が畠山氏の家督を継いでいれば、いずれは政久が当主になっていたわけで……神保氏らはその路線のほうが正しいと考え、義就の家督継承に反対したのでした。

そして、ここにもまたまた有力大名が絡んできます。
もうコントみたいですよね。

畠山政久派は細川勝元の助力を得て、畠山持国&義就親子に対抗。
ほどなくして持国が亡くなった後、畠山氏の命運は勝元の気分次第という状況になり、当然ながら、政久のほうが有利になり、義就はいったん吉野へ逃亡、さらには領国の河内へ移ってチャンスを待ちます。

次に斯波氏です。
もう、いい加減にしてくれ!という声が聞こえてきそうですが、逆に考えれば【応仁の乱】の本当の面白さがあるわけで。しばしお付き合いいただければ幸いです。

斯波氏では、斯波義健の死後に嗣子がなく、一族の斯波義敏を養子にして継がせておりました……のですが、有力家臣・甲斐常治と対立し、家臣団が両派に分かれて争い始めます。
その後、義敏は幕府の命に逆らったのがきっかけで追放。
大内氏を頼って周防に逃げるのです。

今回は幕府も絡んできてるんですね。

斯波義敏の不在の隙に、幕府は渋川義俊の子・渋川義廉を斯波家に入れて跡を継がせ、ここに斯波義敏vs斯波義廉という新たな対立構図ができました。
義敏には細川勝元、義廉には山名持豊が味方につきました。

いったい細川、山名、畠山らは何考えてんだか。

 

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将軍義政に跡継ぎが生まれてしまった

あっちもこっちもお家騒動をやらかしていた寛正六年(1465年)、ついに歴史が動きます。

将軍・足利義政に、長男・足利義尚が誕生したのです。

上述の通り、当初は弟・足利義視を九代将軍にすると言っていたのに、心変わりをした義政。
実子に継がせたいと言い出し義視は激怒します。
ムリもありません。義視は再三、将軍職を断っていたのに、兄にゴリ押しされて僧侶から還俗してまで将軍継承を引き受けたのです。

足利義政/Wikipediaより引用

義視は細川勝元、義政……というか、その妻・日野富子は山名持豊を頼ります。

この辺りからですね。
将軍であるはずの義政が急速にヤル気を失い、さらに天災が続いたために民衆が困窮。
遡ること40年ほど前には史上初の土一揆正長の土一揆)も起きており、徳政令が求められるようになって大分経っているので、民衆サイドも力による解決をためらわなくなっておりました。

「借金、チャラにしいや~」
と迫る民衆。しかし、いつまでも徳政令が出ません。そこで待ちきれなかった彼らは【私徳政(勝手にチャラにする)】を盛んに行います。

こうした状況に対し幕府はすっかり諦め
「債務者が借銭の十分の一にあたる分一銭を幕府に納めれば債務を破棄される」
という【分一徳政(ぶいち)】を行いました。
でも、これって、幕府に金が集まることになるんですよね。

結果、土一揆を起こした面々は徳政を求めるのではなく、京都市内での略奪・放火をする暴徒へと変わっていってしまいました。
絵に描いたような社会不安。リアル北斗の拳とはこの頃のことかもしれません。

それでも幕府は京都の治安を回復しようとせず、これまでに記述したような権力闘争(物理含む)に明け暮れ、民衆の信頼はガタ落ちでした。

 

まだ義政も頑張っていたが、いよいよ開戦へ……

いったん、ここまでの関係をマトメておきましょう。

足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉
vs
足利義視・細川勝元・斯波義敏

こんな感じです。

一応、将軍である義政もこの時点ではまだ完全には丸投げしていませんでした。
文正元年(1466年)に義政は、育ての親でもある政所執事・伊勢貞親の献言を容れ、斯波義廉を引っ込めて、大内氏に身を寄せていた斯波義敏を当主にしました。

しかし、「義視が謀叛を企てている」と義政に讒言したことがキッカケで、伊勢貞親は失脚。
連座して義敏も越前に逃れ、再び義廉が当主になりました。

仮にも三管領の一角である家がこんなにコロコロ当主を変えていたら、政局が不安定になるのも当たり前です。

それは当の本人たちもわかっていて、山名持豊・斯波義廉、そして細川勝元などが急いで兵を集めにかかります。さらに山名持豊らは、足利義政に畠山義就を赦免するよう迫り、義就の軍が入京します。

だんだん収集がつかなくなってきましたね。
いよいよ開戦です。

 

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畠山政長が屋敷に火を付け神社に立てこもる

応仁元年(1467年)、持豊らは義政に
「管領を畠山政長殿から斯波義廉殿に変えてください(変えないとどうなるかわかってますね?)」
と迫りました。

義廉は先述の通り、持豊側の人です。
つまり、幕府の中枢において、勝元よりも持豊の勢力が強まったことになります。

政争に敗れた政長はこれを知ると、京にあった自分の屋敷に火を放って上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に立て籠り、義就に決戦を挑みました。

いよいよ応仁の乱スタート!

さすがにヤバイと思ったか。
足利義政は、細川勝元と山名持豊の二人に、この戦への介入を禁じましたが、既に命令を聞く二人ではありませんでした。

持豊が義就を大々的にバックアップして勝利し、実質的に京都を占領します。

むろん、細川勝元もここで引くようなタマではありません。

自分に与する守護大名たちに上洛と派兵を呼びかけ。最初に応じたのが赤松政秀でした。嘉吉の乱で一度滅亡同然になったあの家ですが、勝元が復興させていたのです。

政秀は勝元に与し、近所かつ旧領かつ持豊の領国である播磨を攻めて占領しました。彼にとっては願ったり叶ったりの展開だったかもしれません。

 

勝元陣営が各地で奮闘 しかし持豊も負けてはおらず

全国の勝元陣営はさらに奮闘します。

斯波義敏が越前の奪還に、武田信賢が一色義直の占拠する若狭に……と、かねてから遺恨のある相手に戦いを挑んで勝ち、山名方の勢力を削る戦略を次々に進めていったのです。
勝利を収めた彼らは、やがて大軍を率いて京に集まってきました。

勝元自身も、北陸・畿内・四国などの領国や、代々付き合いのあった京都周辺の武士たちを数多く動員できました。
それに従って兵站も確保しやすかったので、緒戦の段階では勝元方が圧倒的に有利だったといえます。

しかし、持豊も負けてはおりません。
その年の夏、国元の兵三万を京都に迎え、さらに西国の雄・大内政弘や伊予の河野通春などを味方につけました。

細川方は花の御所(将軍御所)に、山名方は堀川の西にあった持豊邸に本陣を置いたといわれています。

京都市街として見ると、細川方が東側、山名方が西側にあたります。
そのため前者を「東軍」、後者を「西軍」と呼ぶようになりました。

西軍の本陣付近は「西陣」という地名の由来でもあります。織物で有名なあのあたりですね。
なお、両軍の兵力は、東軍16万に対し、西軍11万といわれ、まさに大乱といった様相を呈しておりました。

戦いの炎が全国へ飛び火――というより全国の対立が京都に集結したような応仁の乱/photo by Masaqui wikipediaより引用

 

「守護大名たちの地元を突き、京都から連中を遠ざけよう!」

両軍はさらに、皇族までも味方につけます。
その辺も含め、あらためて対立構造を整理してみましょう。

【西軍】
足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉&小倉宮(後南朝の末裔)
vs
【東軍】
足利義視・細川勝元・斯波義敏&後花園上皇・後土御門天皇

この時点で、戦況は一進一退をくり返してgdgdになっていたので、もうヤメれ!と言いたいところなんですが……。

すでに兵の統率も何もあったものではなく、京都市内では両軍の足軽によって補給線の切断、敵陣への放火、襲撃などのゲリラ戦が続きました。
民衆はたまったもんじゃありません。そろそろ「カオス」以外の形容詞が欲しい(´・ω・`)

文明元年(1469年)に入ると、細川勝元が戦略を変えてきます。

「守護大名たちの地元を突き、京都から連中を遠ざけよう!」

なるほどナイス。
地元に帰らせれば京都は自軍にとって有利に……なるどころか、今度は北陸・中国・九州地方にまで戦線が広がってしまうのです。

九州では、大友氏・少弐氏が筑前をはじめとする大内氏の領地へ攻め込みました。
他には、越前・備後・安芸など、両勢力の大名が勢力圏を接する場所で戦闘が始まっています。あーあー。

当初の戦略としては正解だったのかもしれませんが、なんで「争いを起こさずに話をまとめる」ほうに使えなかったんですかね。
命の価値が薄い時代とはいえ、早く収まったほうが人も物も金も消費しなくて済むでしょうに……。

 

両軍の総大将が立て続けに病死だと!?

文明三年(1471年)、大事件が起きます。

西軍に属する斯波義廉の守護代・朝倉孝景が、細川勝元に応じて東軍に寝返ったのです。
斯波義廉にとっては「都で仕事をしている間に自分の家を取られた」みたいな感じですから、そりゃ大騒ぎになるわけです。

こうした流れを受けて、勝元の目論見通り帰国を急ぐ守護大名が相次ぎました。
ようやく戦略の効果が現れ始めたんですね。

しかし、このような状態の中、文明五年(1473年)3月に持豊が病死。さらにその二ヶ月後に勝元も病死という大事件が起きます。

決着がつかないまま両軍の総大将が亡くなってしまったのです。
これ以上のカオスがあるでしょうか。

まぁ、こういった展開ですと、普通は両軍に厭戦気分も出てきますよね。
『もう、いい加減、お互いに帰国しようよ』みたいな。

しかし、この後も東軍は畠山政長と赤松政則、西軍が畠山義就と大内政弘を大将としてgdgd戦闘を続けました。
もはや「先に謝ったら負け」な考えになっているのです。

こんなときは天皇から「お前らもうやめなさい」と勅令を出してもらうのが最も早い解決方法。
しかし、すでに皇族が巻き込まれており、朝廷の権威も失墜していたためなのか、誰もそういった手段を進めてなかったようです。
一番いいのは、将軍なんですけどね。
ポンコツ化していた義政には、どだいムリな相談でした。

 

大切な記録も美術品もことごとく焼けてしまう

結局、このgdgd状態は、文明九年(1477年)まで続きます。

畠山義就が河内に兵を引いたのをキッカケに、畠山政久や諸大名もそれぞれ領国に引き上げ、一応、応仁の乱は終わったことになります。戦とセットになる【講和】などが行われていないため、なんともスッキリしない結末なんですけどね。

なんせ総大将の山名持豊と細川勝元が世を去ってから四年間もgdgdしていたことになります。長すぎだってば。

この乱で一番割りを食ったのは?
やっぱり京都の一般人でしょう。

戦火によって町の大半は焦土と化し、平安遷都以来の寺社も記録も美術品も、ほとんどが焼けてしまったのです。
「京都では『先の大戦』というと応仁の乱を指す」という都市伝説(?)がありますが、こんな状態になったのだから当然ともいえますね。しかもこの後も焼かれるんですから、いっそ町の原型が残っていることが奇跡的です。

足利義政は存命中、将軍の権威回復どころか京都の復興すら実施しませんでした。

そのせいで幕府は名実ともに形骸化の極み。
三管領の畠山氏も細川氏もさらに身内争いを繰り返し、治安は乱れきった状態で固定されてしまいます。

むしろ、義政より足利義尚のほうがこのあたりに対してはなんとかしようとしていたのですが、あまりにも袋小路過ぎて解決方法が見つからず、遂には【酒】にのめりこんで若死にしてしまいます。
その後の将軍たちも、やはり身内争いが原因で京都を出たり入ったりするばかりで、腰を落ち着けた人はいませんでした。

地方でも、守護大名が留守にしている間に家臣が反乱を起こしたり、国人と呼ばれる武士が力をつけて自治体制を作ったり。
いよいよ戦国時代の幕開けとなるのでした。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「応仁の乱」
応仁の乱/wikipedia

 




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